2019年1月13日


「試練にある神の国」
使徒の働き 14章22〜28節

1.「前回まで」
 パウロの語る福音の説教を聞いていた生まれつき足の効かない一人の人をパウロが癒したことによって、ルステラの群衆はバルナバとパウロをギリシャ神話の神々が人となって来たのだと神として祭り上げようとしました。しかし二人は、自分は皆と同じ人間であり、まことの神であるイエス・キリストの福音を伝えるために来たのだと弁明します。その時、直前に宣教していた町々から二人を追いかけてやって来たユダヤ人たちの偽りの言葉によってルステラの群衆は扇動され、それまでは神として祭り上げようとしていた群衆は今度はパウロに石を投げて殺そうとしました。誰もがパウロは死んだと思ったのですが、パウロは再び立ち上がりこれまで歩んで来た町々に戻り「信仰にしっかりととどまるように」、そして「神の国に入るには、多くの苦しみを経なければなりません」と教会の人々を強めたのでした。

2.「なぜ引き返す?」
 石で打たれて町の外に放り出されたパウロですが、再び立ち上がった後、再びルステラの町に入って行ったとありました(20)。そしてその後デルベというルステラからさらに東へ向かった町へと向かって、デルベでも会堂で福音の説教をし多くの人がその福音を信じて洗礼を受けました(21)。しかしそのデルベでの宣教の後に二人は、再びルステラに戻ったことがわかります。そしてイコニオム、アンテオケとこれまで宣教して来た道、町々をバルナバとパウロは引き返して行ったことがわかるのです。このところは実に不思議です。なぜならルステラで扇動したユダヤ人たちは、その町々からわざわざ追っかけてやって来た人々でした。つまりそれほどまでの強い執着心と憎しみと、福音宣教を潰そうという意志があったことを伺い知ることができます。扇動して石打ちにさせようとまでするのですから殺意もあるわけです。追われるものの立場の、普通の合理的かつ理性的な判断であれば、命の危険があるわけですからその町々を避けるはずです。しかもルステラから東のデルベに向かっているのですから、帰るはずのシリアのアンテオケには近づいていてそのまま東へと帰るルートをとってもよかったはずです。さらに言えばデルベでは多くの人が弟子として加えられて、二人の目から見ても良い状況でそのままシリアのアンテオケに帰っても良かったことでしょう。しかしなんと二人はこれまで来たルート、つまり、わざわざ追って来て石打ちを扇動したユダヤ人たち、つまり生きていると分かれば、再び自分に石を投げて殺すかもしれない、キリストに反対するユダヤ人たちがいるそのルートを戻るのです。驚くべきことです。それはなぜなのでしょうか?その答えこそ22節の言葉です。その町々を巡ってですが、

3.「彼らに伝えたい大事なこと」
「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。」
A,「信仰こそ強める力」
 その町々には、そのように反対し殺そうとするユダヤ人たちだけがいるのではありません。その町々には、二人の語る福音の説教によってイエスキリストを信じて洗礼を受けた弟子たちもいました。その彼らに二人はどうしても伝えたいことがあったのです。それがこの言葉と言えるでしょう。それは「信仰にしっかりととどまるように」ということでした。なぜなら、信仰こそキリスト者の心を強める力だからでした。まさにルステラでの石打ちは、パウロの第一回目の宣教旅行最大の試練でした。周りの人々が死んだと思うほどにまで身体はボロボロに打ちのめされています。皆さん、それは非常に矛盾や葛藤を覚える状況です。イエスが福音を宣教するために召して遣わしてくれた。しかし直面した肉体の現実は壮絶な痛みと苦しみ、そして福音宣教さえも閉ざされる状況であり死の寸前です。「人間的な思いからするなら」、矛盾ではないでしょうか。イエスの言葉は偽りであり、無力であり召命を疑いたくなるような状況です。いや死んでしまえば、疑うことさえできません。ルステラでの石打ちはそれほどまのどん底に突き落とされた状況であったということです。しかしそのどん底であってもパウロがはっきりとわかったことがあったのです。それは、信仰こそイエスがくださった宝であり、それがどんな状況でも強く真実であるということだった、ということこそこの言葉は証明しています。
B,「苦しみにこそ神の国は近い」
 そして、ここで「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言っていることは、その苦しみを通してこそ、神の国は近いことを、パウロが改めて悟ったことを意味しています。どういうことだと思いますか?それは、その死ぬようなどん底の状況で、パウロはイエスが「そこにこそ」いること、イエスが共にあることを悟った、見た、ということです。パウロが「直面した肉体の現実は、壮絶な痛みと苦しみ、そして福音宣教さえも閉ざされる状況であり死の寸前」であったと言いました。それは人間的な思いからするなら矛盾であり、神の言葉が偽りであり無力であるような状況だともいいました。しかし旧約の預言が約束した救い主、イエス・キリストはどこに明らかにされましたか?4つの福音書が全て一貫、一致して私たちに指し示し証ししている、はっきりとした私たちの核心があります。それは救い主イエス・キリストが十字架の上にこそ明らかにされたと。その壮絶な絶望的とも言える苦しみと痛み、屈辱と矛盾と、そして「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という神にも見捨てられるような絶望にこそ、神は私たちへの救いの証し、いのちの光として明らかにされたことではなかったでしょうか?
C,「どこに神を見ようとしますか?」
 私たちは神が指し示したところにしか、神の証しを見ることができません。モーセも神を見ようとし、神の顔を見たいと思いました。しかし、そのモーセに明らかにされたのは「一瞬の神の背中だけ」でした。神が指し示すところにしか私たちは神を見、会うことができないのです。しかし私たちは「逆に」考えてしまいます。私たちが示すところ、そうなって欲しい、そうなるべきという私たちが期待するところに神や神のわざがその期待通りに現されれば、そこに神がいるのだと「逆に」考えます。その通りの人間的な見方であれば、パウロの石打ちのどん底には、「神はいない」「神は偽り」「神に力はない」になって当然であり、そこには絶望しか残りません。
 しかしみなさん。私たちの信仰はそのような信仰ではありません。私たちの信仰は、まことの神を信じる信仰、イエス・キリストを信じる信仰、神の言葉を信じる信仰であると、誰でもはっきりと言います。誰もそれを疑いません。しかしどのイエス・キリストですか?神の言葉が示す何をですか?神が明らかにされた何をですか?ーそれは、飼い葉桶の貧しいイエスであり、受難と十字架の死のイエスです。そしてそれはもちろん復活のイエスでもあります。神はその十字架と復活にこそ、救い主イエスを私たちに指し示し、明らかにし、これこそ救いであり神の国であると示しているでしょう。私たちはその神が指し示し、明らかにしたところでしか神を知り、神に会うことができません。モーセでさえも背中しか見れなかったように。その神が明らかにし指し示した先、それは飼い葉桶のイエスであり、十字架と復活のイエスではありませんか。パウロは、この死と絶望と矛盾のどん底、死の陰の谷である石が投げられるその時に、そこに神の言葉が指し示す十字架のイエスがおられ、そこに神の国はあることを確信させれらたのです。
D,「理性、感情、思索では分からない。得られない」
 みなさん、これは人間の理性や感情では理解できないです。なかなかわからないことです。しかしそれがイエス・キリストを信じる信仰です。そしてその信仰こそがパウロが言う通り、クリスチャンの心を本当に強める信仰です。人間の期待や事前予測の通りに神が動いてくれるところに神がいるとかそこに神の祝福があると信じるご利益信仰は人間の力では可能でしょう。しかしそこに本当に心を強める力はありません。思い通りにならない時に惑い失望するだけでしょう。しかし真に時がよくても悪くても、どんな状況でも、死の陰の谷に置かれるような絶望にあっても、心を強める真の信仰こそ私達に与えられている天から賜物です。それは十字架に現された救い主、十字架と復活のイエスへの信仰です。そして、それは自分では理解することも得ることもできないものであり、イエスがそのみことばと聖霊の働きによって与えるものです。そして経験においては、バラ色の体験ではなく、何より聖霊は「苦しみを通して」イエスのみことばを悟らせ、十字架のイエスに何度も繰り返し出会わせます。そのように苦難と矛盾の中にこそイエスは来られ私たちと共におられ神の国を開いておられることを明らかにさせることによってその信仰を強めるのです。このことこそ「同じように反対者のいる町々で宣教を続ける兄弟姉妹にぜひ伝えたい。なぜならそれこそ力であり強めるものであるから」と22節のパウロの言葉の意味がわかってくるのではないでしょうか。私たちが受けているものは、私たちの思いをはるかに超えて働く神の賜物、天の宝であることをぜひ改めて覚え感謝したいです。だからこそルカは「その信仰」を中心に描いていきます。

4.「長老を信じていた主に委ねた」
「また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主に委ねた。」23節
 バルナバとパウロは町々の教会で長老を選んだとあります。この長老と言うのは、聖書では、牧師も長老であり、長老はみことばに仕えるもの、みことばを解き明かす者を意味しています。つまり二人はみことばの説き明かしを持って会衆の魂を導くものを選んだのです。しかし二人はそのように選んだ長老たちを「信じていた主に委ねた」とあるのです。「二人が選んだ」とはありますが、それは彼らの思いが主体であることを意味していません。もちろん選んだのですが、二人は神からの賜物、み言葉による召命があることを見ることによって選びだしたのです。なぜなら、だからこそ主に委ねることが何より不可欠になるからです。もし彼らの主体的な判断で選んだのであるなら、その選択は人間的なわざ以外の何物でもないでしょう。そうであるなら二人は主に委ねるという思いにさえならなかったことでしょう。しかしそれは主による召命であり、主の召命であるなら、主が彼らをもみことばと試練を通して養い育て、主が力を与え用いる働きとなるものです。その信仰があるからこそ主に委ねずにはおられないでしょう。二人が「その信じていた主に委ねた」と言うのはとても意味深い言葉なのです。長老の働きは、十字架の主イエスがみことばと試練を通して養い強め導きなす恵みのわざであるからこそ二人はその主に委ねたのです。その証拠に二人はその後、出発地点であるシリアのアンテオケ教会に戻りますが、そこでもルカはこう書いています。

5.「神が全てなしたこととして」
「そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げられた働きのために、以前神の恵みに委ねられて送り出された所であった。そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行われた全てのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。」26節
 このアンテオケから遣わされた目的は、異邦人に信仰の門を開いてくださり、そのために選び遣わしてくださったその主イエスの召命に答え、異邦人にも福音を宣教するためでした。しかしそれは決して、人間的な思いや熱心や計画から出たものではありませんでした。そこには聖霊による「バルナバとパウロをわたしのために聖別してわたしが召した任務に就かせなさい」(13:2)と言うみことばがあり、そして、アンテオケの人々は断食と祈りをして、二人の上に手を置いてから送り出したとあったでしょう(13:3)。按手の祈りは信じていた主イエスに二人を委ねて託して送り出したことを意味していますね。26節にもその通りあります。「神の恵みに委ねられて送り出された」と。バルナバとパウロ自身も主に委ねれた二人であり、その働きは主の恵みのわざであったのでした。だからこそ二人の宣教報告も、主語は「神が」です。「自分がどうした、こうした、だからこうなった、こう言う結果になった、こう言う成果だった。」と言う自分に名誉や誇りを返すのではありませんでした。この第一回宣教旅行の全ては、それは神が「彼らとともにいて行われた全てのこと」なんだと二人は報告し、証ししているのです。
 「全ては主がなす」なんてことは、人間的にみれば一番滑稽に思われ、一番信じられないことです。それは罪深い性質からくる当然の判断でもあり、その性質は強く、クリスチャンでさえもそれを信じているようで、実は一番信じていない。人のわざや協力が半分は必要なんだと意識的にも無意識的にも思ってしまう、そうなりやすいものです。半分、と言う以上、それは全て人のわざに責任がかかっていると言う意味と変わりません。しかし聖書はこのように、その働きに、時がよくても悪くても、どんな迫害やどん底があり、もちろん二人にも罪があり弱さがあり、人の目からみれば不十分さがあったとしても、「神が彼らとともにいて行われた全てのこと」であることを証ししています。信じられないようですが、しかしみことばと聖霊は、それほどまでに私たちの思いを超えて働き、全てのことに働いて益とする真実な力があるものなのです。それは私たちの側では弱さや愚かさ、罪深ささえ覚えることがあってもです。だからこそパウロは証します。
「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28
「しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」第二コリント12:9
 この約束は真実であり、私たちにとっても真実な約束です。十字架と復活のイエスにあってこそ、私たちは希望と平安は絶えることがありません。時が良くても悪くてもです。ぜひその与えられている恵みの信仰を感謝して、私たちも主に委ねつつ歩んで行きましょう。