2018年2月25日


「魔術師シモンへの希望:十字架の神学者としてI」
使徒の働き 8章9〜24節

1.「はじめに」
 ステパノの死をきっかけとしてエルサレムに激しい迫害が起こり、何千人にも増やされたはずのエルサレム教会は散らされてしましました。そのように人の目には決して望まない、起こってほしくない出来事です。「どこに神はいるのか?神の約束は嘘ではないか?」そのようにも思える状況なのですが、しかし主イエスはステパノの死を通して、再び、キリストの十字架こそ救いであり立つべき拠り所であることを示すことによって、必ず「起こる」と言われた迫害にあっても信仰が前進して行くための最も必要で最高の力、キリストへの信仰を備え強めてくださいました。そして散らされたことを通しても、散らされた人々は、その示されたキリストの福音と強められた信仰があったからこそ、その散らされた地、決して自らでは行かないようなサマリヤの地でキリストを宣教するために豊かに用いられて行くのです。そのように全ては人の目には愚かに見え、敗北に見えるような事柄であっても、しかし主にあって、何1つ無駄ではなく、人の思いを遥かに超えた神の完全な計画と恵みと祝福があることを見てきているのです。このところは、そのサマリヤでキリストを宣べ伝えたピリポ、彼の伝えるキリストの福音はサマリヤの町に救いをもたらし大きな喜びをもたらすのですが、その町での1つのエピソードです。このところを見て行くときに、福音は多くの人を救いに導きますが、救われた人は、いきなり100パーセント間違いも欠点もない、聖人のように完全になるというのではなく、クリスチャンはどこまでも不完全な存在であるけれども、小さな赤子が親の愛の言葉によって育まれ成長して行くような存在であることを教えてくれているところだと言えるでしょう。

2.「しるしと魔術に翻弄されてきた住民」9〜12節
「ところが、この町にシモンといういう人がいた。彼は以前からこの町で魔術を行なって、サマリヤの人々を驚かし、自分は偉大な者だと話していた。小さな者から大きな者に到るまで、あらゆる人々が彼に関心をいただき、この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だと」と言っていた。人々が彼に関心を抱いていたのは、長い間、その魔術によって驚かされていたからである。しかしピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣ベるのを信じた彼らた、男も女もバプテスマを受けた。」
 このサマリヤの町には、シモンという魔術師がいました。サマリヤ人は、遡れば、同じイスラエルの民ですが、ソロモンの後、王国は北と南に分裂し、北の王国は、先祖の神を否定し、捨て、偶像礼拝に逸れて行きます。そこでは忌むべき礼拝や生贄、呪いや魔術が横行して行き神の怒りのうちにその王国は滅亡し散らされて行きます。その生き残りの末裔がサマリヤ人になります。ですから南の王国の子孫であるユダヤ人たちはサマリヤ人たちを異教徒であるかのように汚れたものとして蔑むのです。そういう意味で、サマリヤという社会では、魔術師が神の使いであるかのように思われる傾向はもともと強いと言えるのかもしれません。ピリポがサマリヤで福音を宣教したときも(6節以下)、多くの不思議なしるしをも行ない、それゆえにこそ大きな喜びが起こったことも書かれておりますから、この町の人はその不思議やしるしへの信心が強かったことを伺い知ることが出来ます。もちろん、そのしるしが福音に触れる機会になり多くの人が救われることは1つの御心であったとも言えるでしょう。

3.「目に見えるものに魅了される人の性質」
 しかしその「目に見えるしるしに惹かれる」ということは同時に、キリストの前には誰もが「克服されるべき点」であるとも言えるでしょう。シモンはそれまでその魔術で「自分は偉大なものだ」と言っていました。しかし自分だけ言っているのではありません。町の人々も「小さな者から大きな者に到るまで、あらゆる人々が彼に関心をいただき、この人こそ、大能と呼ばれる、神の力だと」と言っていたのです。しかもその信仰心が「人々が彼に関心を抱いていたのは、長い間、その魔術によって驚かされていたからである。」と書かれてもいるでしょう。しかしその「しるしへの関心からくる信仰」という習慣はそれはサマリヤ人だけに限ったものではありません。人が目に見えないものよりも目に見えるもの、あるいは、目に見えない、まして人の前には愚かに見える福音の教えよりも、目に見えわかりやすい人の特殊な技や経験によって動かされやすいというのは、どの社会のどの人々にも言えることです。日本人である私たちもそうです。事実、パウロはこのように人間の性質を表しながらいっています。
「十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」第一コリント1章18節
 事実、私たちの合理性や経験、目に見えないものより目に見える結果が重んじられる社会においては、十字架の言葉は愚かに見えます。それはギリシャ哲学全盛のパウロの時代も同じでした。ですから聖書から言うなら、目に見えるものに流されるのはサマリヤ人だけでなく、ユダヤ人も然り、ローマ人然り、日本人も然りなのです。まして魔術師への信仰の強いサマリヤにあっては尚更です。サマリヤ人たちは洗礼を受けて救われました。しかしそれでもクリスチャンは「義人であり同時に罪人」であり不完全なのですから、当然、救われて尚も「しるしに翻弄される不完全さ」があるのです。しかしそれは当たり前です。むしろ大事な点はそのような救われた彼らに不完全さがあってこそ、キリストの恵みが完全と働いていて、克服と聖さへと導くということなのです。

4.「魔術師シモンの信仰」
 何より、救われたものが「義人であり同時に罪人」であり、そのような目に見えるしるしに翻弄されうることがよく現れているのは、シモンその人です。
「シモン自身も信じて、バプテスマを受け、いつもピリポについていた。そして、しるしと素晴らしい奇跡が行われるのを見て、驚いていた。」13節以下
 魔術師シモンも、ピリポの語る福音を聞き、信じて洗礼を受けます。そして彼はピリポを師匠であるかのようにピリポについて回ります。しかしそれはやはり、ピリポの行う「しるしと奇跡」を見て、驚いたからでした。そんなときです。
「さてエルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。二人は下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだ誰にも下っておられなかったからである。二人が彼らの上に手を置くと彼らは聖霊を受けた。」14?17節
 エルサレムの教会からペテロとヨハネが遣わされます。それはサマリヤの人々はイエスの御名によって洗礼は受けたのですが、聖霊を受けていなかったというのです。ピリポは執事として選ばれてはいましたが、使徒、牧師として按手は受けていませんでした。確かに宣教は全てのクリスチャンが召されており誰にでも与えられている召しで、洗礼もイエスの御名によって誰でも授けることはできます。しかしみことばに働く聖霊が与えられるためには、み言葉はもちろん、そこに聖霊によって牧師や長老として按手を受けた者の祈りが必要であったのでした。このところは按手を受けた、みことばに仕える教職の必要性が示されている箇所ではありますが、その様に聖霊の祈りをするためにペテロとヨハネはやってきて洗礼を受けた人々の頭に手をおいて祈り彼らに聖霊が与えられたのでした。しかしそこでシモンですが、18節
「使徒達が手を置くと御霊が与えられるをの見たシモンは、使徒達のところに金を持ってきて「私が手を置いた者が誰でも聖霊を受けられるようにこの権威を私にもください」と言った」
 シモンはこう言ったのです。「その権威を、力を欲しい」と。彼はお金は豊かに持っていたのでしょう。「お金は払うから、どうかその力が欲しい」。そうペテロとヨハネにお願いするのでした。当然、このあと、ペテロから厳しい言葉がくるのですが、シモンの問題点は何でしょうか。もちろん、神の力を金で買おうとしたことにあるでしょう。しかし、お金でなければいいのでしょうか?ここにはそれ以上の問題がここにあります。それが何だかわかるでしょうか?

5.「シモンにみる問題点」
A, 「見えないキリストより見える人やわざへの依存」
 それは、そもそも「神の前」が見えていない、目に見えるものしか見ていないということでしょう。力がどこから来るのか?ー彼はそれは「人に」見ています。目に見える目の前にいるペテロとヨハネに与える力があり、「目に見える価値ある物質である金」を払い、つまりそれも「目に見える単純な経済原理」で、その様にお金で、世の様で、目に見える価値で、人から人へこの力が与えられると思っている点です。彼は信じて洗礼を受けました。まだ聖霊は与えられていませんから、肉の力が支配しています。ですから、「ピリポについて行った」その信仰も、キリストへの信仰ももちろんあったでしょうけれども、むしろ「不思議なしるしを行うピリポへの関心のゆえ」であったことは書かれている通りです。彼は、ですから、もちろんキリストへの信仰もあったでしょうけれども、むしろ同時に「しるしへの信頼」」何より「人への信仰や依存」が強かったことでしょう。ですから、ペテロとヨハネがきて、その驚くべき力を見たときも、二人に、つまり「人に」その力があると思ったのも実に自然な流れです。
 しかし実際は、そうではありません。ピリポも、そしてペテロとヨハネも、ただの神の用いる「道具」にすぎません。福音は「イエス・キリストの福音」であり、その力は「イエス・キリストの力」です。その力が働くからこそ、キリストが何よりみことば、そして道具としての人を通して、しるしを行い、人々に信仰を与え、洗礼を授け、見えないキリストが聖霊を与えるのです。使徒たち自身もこの使徒の働きで、自分たちに力があるかの様に自分たちを崇拝する人々が出てくるたびにこう警告しています。「自分たちには力はない」と。そして「キリストを」指し示しているのです。しかしシモンはそれを逆さに考えているのです。「人に力がある」「人が与えることができる」と。見えないキリストへの信仰よりも、見えるピリポ、ペテロやヨハネへの信仰が勝ってしまっていたのでした。まだ聖霊を受けていない状況ですから、肉の思いが優先するのはなおのことですが、だからこそ、このところは示しています。聖霊によらなければ、私たち自身は弱く、力がなく、目に見えるものに依存してしまいやすい存在であることをです。ですから決してシモンだけの問題、間違いではありません。これは私たち皆の、肉の問題であり、自然の力ではそうなっていく当然の、罪深い姿を表しているのです。
B,「神を神としないこと」
 そしてそれは事実、罪深いです。聖書のいう罪は、「神を信じないこと」です。いや厳密に言えば「まことの神を神としないこと(Let God be God)」です。彼らはピリポの伝えるキリストを信じはしました。しかし、それでも見えないキリスト、福音を信じるのでも頼るのでもなく、人への依存が強すぎるとそれはキリストを神としていないことと同じです。「神を神としていない」のです。それは実は、私たちがクリスチャンであっても常に陥るところでしょう。私たちはいつでも神を神としていますか?ー私自身、自分は「はい、そうです」とは決して言えません。神を神とせず、自分中心になったり、自分のエゴを優先したり、人に依存したり、人を裁いたり、許せなかったりとあります。人を裁くということも、許せないということも、実はそれはその相手に縛られ、相手の目に見える様を見て、自分の秤で判断しているのですから、それはまさに、その相手と自分自身に依存している、「人を信じている」ことと同じです。私自身は自分を見つめるときに、そういうところがあることを認めざるを得ません。「神を神としていない」のです。この「人への依存」は、誰でも起こることであ流のですが、しかし何より「神を神としていません」。そしてそれは、見えない神の、見えない神の福音の力を信じていないことで、やはりそれは偶像礼拝に等しいことです。本当のことをいうと「人に力がある」という人への依存、目に見えるものやしるしへの依存は、一番、楽なことです。しかし一番、解決になりません。何より信仰、神の国、平安のことについては全く無力です。何もできませんし神の前には罪です。シモンの姿からそのような問題を示されるのではないでしょうか?それに対して、ペテロは20?21節、厳しい言葉を告げます。「あなたのお金はあなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようとしている。?あなたの心は神の前に正しくない」と。

6.「律法と福音」
 しかしです。このまだ信仰の未熟なシモンに対して、主は決して彼を打ちのめして、滅びのうちに見捨てたりはしないのです。22節
「だからこの悪事を悔い改めて主に祈りなさい。あるいは心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが私にはよく分かっています」
 「悔い改めて主に祈りなさい。そうすれば赦されるかもしれません」ーそのように希望を与えるのです。「赦される「かもしれません」」と言っていますが、悔い改めて、キリストの十字架に帰るなら必ず赦されることです。ですからペテロの厳しさは、シモンを福音へと立ち返らせるための言葉であったことでしょう。シモンにとっては恐るべき宣告であったのですが、その言葉があったからこそ、自分が「神の前」にあることを気付かされ、その前にある自分の罪の現実の恐ろしさにも気付かされ、だからこそ、福音へと、キリストへと立ち返ることができることでしょう。これが「律法と福音」です。律法、十戒は私たちに罪を示します。それは心を刺し通す絶望の言葉です。しかしそれがなければ、私たちは神の前の、自分たちの本当の状態、真の「ありのまま」がわかりません。その律法の言葉があるからこそ、私たちは神の前の本当の「ありのまま」、つまり神の前に、罪ある恐ろしい絶望的な存在であることがわかり、しかしそのように律法に心刺されるからこそ、罪の赦しと新しい命の福音がわかるのです。いや私たちはわかっているとしても、私たちはなおも「義人にして同時に罪人」である存在です。罪を繰り返して日々自分に絶望する存在ではありませんか。しかし神はだからこそ「律法と福音」のみことばを与えてくださっているのです。私たちのためにです。律法で私たちの神の前、人の前での、罪を教え、私たちの真の姿に気づかせ、そして、そこからの日々の救済、日々の平安、日々の喜びのために、いつでも、悔い改めてキリストに立ち返りなさいと福音を語ってくださっているのです。そしてそのようにしてしてこそ幼子のような私たちの信仰生活を、恵みのうちに導き、福音によって育み、律法ではなく福音が私たちを強め、安心させ、成長させるのです。
 最後、24節、シモンは悔い改め「自分のために祈ってください」と、言います。これはシモンの恵みの一歩です。シモンは大丈夫です。赦されます。安心して行くことができるのです。キリストにあるなら。私たちもそうです。今日も自分や人へ依存から、キリストにこそ立ち返り、キリストこそを信じ、信頼し、罪赦され、キリストにあってこその本当の安心を与えられてここから遣わされていこうではありませんか。