2018年1月7日


「新しさは朽ちない種から:十字架の神学者としてD」
使徒の働き 7章46〜53節

1.「はじめに:前回までのところ」
 ステパノは聖書を引用しその信仰者たちのその信仰をとおして、彼らはどこまでも神の恵みとみ言葉によって導かれ、何より約束の救い主を待ち望んでいたということを語ってきました。モーセは律法を受けた偉大な祖先でありリーダーであるけれども、彼は律法によって生きたのでも、彼のなんらか自分の力でリードしてきたのでもなく、彼も神の恵みにより頼みつつ生きたのであり、目に見える事柄ではなく目に見えない、しかし確かな生ける言葉にこそ聞き、拠り所としてきた、希望を置いてきたのだ。つまりモーセも福音に生かされ、福音よってリードしてきたリーダーであったことをステパノは伝えるのです。しかしその目に見えない約束を信じ指し示すモーセに「物足りない」「信じられない」「待てない」と黄金の子牛を作り、モーセとそのモーセを遣わした神を退けたのは、他でもないイスラエルの民自身ではないか、と、ステパノは厳しく投げかけたのでした。しかし民は神を退けても、神は民を決して退けないのだということこそ、モーセなどの信仰者が待ち望んで見ていた、救い主の約束にあるのです。ステパノは、最後にダビデを取り上げて続けるのです。

2.「恵みをいただき」
 ダビデは「神のために神殿を建てたい」と願いましたが、しかし神はそれを退けられた。ステパノはどのように説教をしているでしょうか。46節
「ダビデは神の前に恵みをいただき、ヤコブの神のために御住まいを得たいと願いました」
 ダビデは「神のために御住まいを得たいと」願った。しかしステパノは、そのことは「ダビデは神の前に恵みをいただき」と書いています。ダビデは主なる神から溢れるばかりの恵みを受けていました。しかしダビデの場合、「恵み」というとき、それは豊かさや繁栄ということ以上のことを意味しています。まず彼は試練の生涯を送りました。特に、サウル王のことで非常に大きな心の痛み、悲しみ、試練を経験しました。それだけではありません。彼は罪深い一人であり、何度も重大な罪を犯しますし、失敗もします。ダビデはその度ごとに打ちのめされ、打ち砕かれます。しかし神はその度ごとにダビデを悔い改めに導き、その導きを退けずダビデは悔い改め、神は決してダビデを見捨てなかったのです。ダビデは何よりも「罪の赦し」を与えられることによって、いつでも神様によって新しく立たされてきた「一人の信仰者」でした。「神の前に恵み」というその「恵み」はそのことを意味しているのです。ダビデが「神のために神殿を建てたいと願った」のは、ステパノはその恵みを覚えてこそであることを述べています。ダビデは、「神の恵みへの応答として」そのことを思ったわけです。しかし神はそれを退けられました。

3.「恵みへの応答とは?因果応報やご利益信仰ではなく」
 不思議だと思いますか?「恵みへの応答なのに、退けられるのか?」と。しかしそうなのです。私たちはクリスチャンは間違いなく皆、献身や良い行い、隣人愛に導かれています。それは紛れもなく「神のみ心」ですが、しかし私たちそれは「律法を動機として」行うのではなく、どこまでも救われた喜びのゆえに、つまり「恵みへの応答」としてするのだと、何度も見てきました。ダビデの神殿建設の思いもそうであったのです。しかし私たちがここからわかるのは、なそうとすることが、その「恵みからの応答」であったとしても、しかしそれがいつでも神のみ心と一致するとは限らないという事実です。私たち人間はいつでも因果応報的に考えやすかったり、ご利益的に考える傾向があります。つまり「こうすればこうなる」、だから「それは神の恵みゆえの応答だから、それは必ず私達がその通りに、願う通りに、期待通りになるのだ」と、考えやすいかもしれません。もちろん、願い通りになることもあるかもしれません。しかしいつでもそうではないのです。いや、むしろそのようにして恵みへの「応答」としてする私たちの願いや行為であっても、それでも神の思いや計画、御心は、私たちのそれよりもはるかに大きく、計り知れない、ということです。そのことがはっきりとわかるのがこの46節です。
 みなさん、そう聞いてどう思うでしょう?。じゃあ「恵みへの応答」としてすることも馬鹿馬鹿しい。思い通りになるのでないなら」となるでしょうか。しかしそれこそ「ご利益信仰の陰」で、誰でも抱きやすい思いです。しかし「恵みへの応答」というのはそういうことではありません。それはやはりそれでも素晴らしいことであるし、私たちの行いは、いつでも「恵みへの応答」であるべきです。なぜなら、それは「恵みへの応答」であるのですから、どこまでも信仰があってなされるものだからです。しかし「信仰によって」ということは、それは、まさに先週のモーセのところにありましたように、「目に見えないことを確信する希望」があってこその恵みの応答だと言うことです。そうであるはずなのに「私たちの期待通り」にということが中心になってしまうと、それは自分が中心であり、目に見えることが中心になっています。しかし、信仰は、目に見えないこと、つまり私たちの思いや知識をはるかに超えた、神のなさる完全な事柄への希望だということでしょう。ですから「恵みゆえの応答」は、私たちの思い通りになるとは限らなくても、幸いなのです。そしてその希望にあっては、因果応報、ご利益信仰、いかなる打算や計算からも解放されます。むしろ逆にその希望に「こうすれば、こうなるべき」という打算があっては実は「恵みへの応答」「恵みゆえの応答」は矛盾してきます。私達の新しい生き方は、律法的な打算や計算、因果応報、ご利益ではなく、主にあって見えない約束への希望があってこそ真の平安があり、それが真の「恵みへの応答」となるということなのです。そのことがまず46節から教えられることです。

4.「目に見える神殿以上のこと」
 そのようにして、ダビデは「恵みゆえに」神殿を建てたいと思いましたが、それは主によって退けられました。そして47節でもステパノは述べているように、神のために家、つまり神殿を建てたのは、その息子ソロモンでした。しかしです。48節で、ステパノは「しかし」と続けるでしょう。それはソロモンを通して神殿を立てることは確かに神は許したけれども、「しかし」、神の思いと目的は、神殿を立てることそのものにあるのではないと続けます。そしてそこでも、ソロモンや人の思いをはるかに超えた神の思いがあることをステパノは聖書から思い起こさせるのです。その神の思いは何でしょう。48節以下
「しかしいと高き方は手で造った家にはお住みになりません。預言者が語っている通りです。
『主は言われる。天はわたしの王座、地はわたしの足台である。
あなたがたは、どのような家をわたしのために建てようとするのか。
わたしの休む所とはどこか。
わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか。』
 ステパノはイザヤ書のみことばを引用して、神のみ心はここにあると示すのです。「神は人の手で造った家にすまない」と。これはイザヤ書66章1節節以下の言葉です。
「主はこう仰せられる。「天はわたしの王座。地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたが建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしの憩いの場は、いったいどこにあるのか。これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。ー主の御告げーわたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしの言葉におののく者だ。」
 主なる神はソロモンに神殿は建てさせはしました。しかし「「真の神殿」は、そのような人の建てた物、石で積まれたもの、いやそれが黄金であっても、人に積まれたものではない。神は人に家を作ってもら必要もなければ、そこに住み、それがなければそこで安心できないような小さな存在では決してない。そのような神殿の立つ場所、神殿の材料、それがどんなに豪華なレバノン杉であろうが、黄金であろうが、しかしそれらは、人間が作り出し、生み出した、人間のものではないではないか。すべては被造物。神によって創造されたもの。その神殿を立てる人間も、王も、どんな偉大な祖先も、神の被造物、創造され、造られ、いのちを与えられたものではないか。神によって。それなのに、人間は神のために家を建てようというのか。神のもので神のために、目に見えるものを積み上げ、「自分はこれだけのことをした」というのか。そのちっぽけで、矛盾することは全く必要ない。される必要もないものだ。」主はそのようにイザヤを通して真の現実を語っています。

5.「永久に残る真の神殿」
 ここではむしろ、人のわざで「神のために」と、黄金の立派な神殿を神のために建てるより、大事なことがあると、神は言っています。それは、
「主の御告げーわたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしの言葉におののく者だ。」
 と。ソロモンが建てた黄金の神殿よりも素晴らしいものがある。主はそのような「人の目に見える功績」である黄金の家に目を留められない。いやむしろ主が目を留めるのは、それは、「へりくだった者」「心砕かれた者」「わたしの言葉」つまり「主の言葉」におののく者だ」と。主なる神は、イザヤのみならず、ダビデにも同じようなことばを残している詩篇がいくつかあります。主への真のいけにえは「砕かれた心だ」と。事実、ダビデのどんな功績よりも、主はダビデの悔い改めの心こそを受け入れました。ダビデ自身も、自分の行いや誇りで立って行こうとしましたが、それらが全て砕かれました。しかしその先に、まさに主の言葉、そして砕かれた心で主の前にへりくだった、そこにこそ彼は心新しくされ、どんな困難があっても、死の陰の谷を歩くことがあっても、「主はわたしの羊飼い。わたしは乏しいことがない」と強く、平安に歩んでいけたのです。
 見えるものも人のものではありません。全て神のものです。しかしその神のものである形あるものも、目に見えるものも、人の罪のゆえに、みな過ぎ去ります。朽ちていきます。黄金で積まれた神殿も、新しい権力、他の国の繁栄によって砕かれ、その新しい権力も、また新しい権力に駆逐されていきます。人間の世界とはそのようなことの繰り返しです。エジプトも、ソロモンの王朝も、ペルシャも、バビロンもそうであり、ローマ帝国もそのように過ぎ去りました。今もそれは変わりません。今の繁栄も永遠では決してありません。目に見えるもの、形あるものは朽ちていくのです。しかしステパノはみことばの約束の真実を、このようにイザヤの言葉から、ユダヤの人々、そして私たちにも語るのです。見えない真実、確かさ。主こそ神。主の言葉こそ真実で、永久に立つのだと。

6.「頑なで心と耳に割礼を受けてない人」
 それゆえ彼は最後にこう厳しく結びます。51節
「頑なで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなた方は、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。あなた方の父祖たちが迫害しなかった預言者が誰かあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなた方が、この正しい方を裏切る者。殺す者となりました。あなた方は、御使たちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことがありません。」
 非常に厳しい言葉です。彼らは割礼を受けた人々です。「律法を厳格に守っている」と自負する人たちです。それゆえに尊敬される人たちです。しかし、そんな彼らに「頑なで、心と耳とに割礼を受けていない人たち」「あなた方は、御使たちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことがありません。」と断言するのです。しかしそれはステパノのこれまでの説教のまさに結びとして当然の結論です。ユダヤの人々は「み言葉、律法を大事にする」とはいうが、み言葉に聞いてこなかった。ただ見える事柄だけだった。自分の行いで栄光を立てようとしてきた、それゆえに、自分を誇るようになり、逆に、見えない希望と信仰を語るモーセを退け、目に見える黄金の子牛を作り拝み、そしてそれでも神が憐れみを持って遣わした預言者が、砕かれた心、悔い改めを勧め、神に立ち返るように招いても、父祖たちは、その言葉を受け入れなかった。都合の悪い言葉は退けて、正しい福音を語る預言者たちを、皆、迫害してきた。それは旧約聖書にある事実の記録です。それと同じように、「あなた方は、律法やみ言葉を掲げはするが、結局は、聞いてこなかった。神に聞いてこなかった。み言葉におののいてこなったのだ。だからこそ、見えない真実が見えない。貧しい姿で来られ、罪人と食事をするキリストがわからない。いやむしろそれを迫害し、殺してしまったのです。それがあなたがだ」と。ステパノは結ぶのです。
 厳しい言葉ではありますが、ステパノは真実を語っています。ユダヤ人たちは、恵みを受けた人々です。み言葉、約束を恵みとして受けた人々です。しかし「神を神とする」こと、神こそが創造者、神こそが救い主、神こそが助け主であるということを、見失い、いや退けて、自分たちが自分たちの行いで、栄光を建てようとしてしてきた。それでは、救い主であるキリストの到来はわかりません。いや煙たく思っても当然です。砕かれること、へりくだることを知らない、目に見える事柄、自分の行いを救いの拠り所に生きる人は、律法の方が心地よく、福音が煙たくなるものですから。

7.「福音のことばがこれです」
 しかし私たちはこのペテロが聖書を引用した言葉が真実であると信じ教えられることは感謝なことです。
「あなた方が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神の言葉によるのです。「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし主のことばは永久に変わることがない。」とあるからです。あなた方に宣べ伝えられた福音のことばがこれです」第一ペテロ1:23〜25
 私達が受けた真理も道もいのち(ヨハネ14:6)も、目に見えることではありません。目に見えない、そして確かな、この恵みと現実を教えられること、感謝なことではありませんか。朽ちない永久に変わることのない種によって新しい私たち。それこそ目に見えない確信であり、信仰であり、希望です。この新しい年も、このみ言葉にあって、平安と喜びを与えられ、信仰の道を歩んでいきましょう。