2017年12月31日


「モーセが見ていたもの:十字架の神学者としてC」
使徒の働き 7章37〜45節

1.「はじめに」
 ステパノは、聖書から、信仰の人々の出来事を引用し、彼らは皆、不完全な罪深い一人一人であったけれども、神の憐れみと恵みのみ言葉と力により導かれてきたこと、そして、そこにはやがて遣わされる約束の救い主、御子キリストのことが示されていたことをステパノは大胆に語るのです。前回は彼が、モーセの途中まで語ってきたところまでを見てきました。

2.「神がモーセを」
「この人が、彼らを導き出し、エジプトの地で、紅海で、また四十年間荒野で、不思議なわざとしるしを行いました。」
 モーセは、イスラエルにとっては偉大な祖先であり指導者でした。それはステパノの時代も今もそうです。「神の律法を受けたもの」でもありますし、旧約聖書の最初の5巻、つまり創世記から申命記までの書は、モーセが神の啓示を受けた「モーセ五書」とも呼ぶのです。それぐらいモーセは偉大でした。エジプトの奴隷から解放し、荒野での40年も導いてきた、まさに救世主のような存在です。敬虔なユダヤ人たちは、律法をモーセの律法と呼び、大事にし、厳格に行うことを求めました。しかし、ステパノは、ここで示していました。32節では、神はモーセに対してご自身こそ神であることを示し、33節では、神がモーセに「聖なるところ」だからと、足の靴を脱ぐように言い、ご自身こそ神であり聖であることを示されたのだと、語りました。さらに、34節以下では、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民の苦しみとうめき声、叫びを聞いたのは、神であり、「神が」その声を聞いたゆえに、「神が」モーセを選び出して、「神が」遣わしたのだと、ステパノは伝えたのでした。
 モーセの功績の偉大さは、素晴らしいものがありました。イスラエルの誰もがそれを認めました。そのように人は目に見えるものに惹かれ魅了されるものであり、確かにそのモーセの偉大な功績は、民族の拠り所、伝統であり、アインデンティティーでもありました。それによってイスラエル社会は発展してきたし、秩序作られてもきました。しかしその代償として、目に見えないことや、救いの本質や核心、基礎は、大いにして見失われることがあったのでした。確かに約束は待ち望まれてはいました。メシアは期待されていました。しかしそれが「神が」ではなく「自分たちが」「偉大なモーセの律法を守らなければいけない、救いの実現のために、祝福のために」ということが、伝統の中心になってきました。そのことによって、み言葉が伝え約束するどこまでも「「神が」恵みのゆえに救う」という見えない核心は、見失われていきたのです。ですからイスラエルの宗教指導者たちはモーセや律法は崇拝するけれども、キリストを拒んだのです。つまり、彼らが信じていたのは、神の恵みの福音ではなく、モーセの律法だったわけです。そんな社会へと、ステパノは実に挑戦的ではありますが、基本的な福音を伝えているのです。「神こそ救ったのだ」「神が叫びを聞いたのだ」「神がモーセを選び、遣わし、神が救ったのだ、神が導いたのだ」と。37節以下、ステパノはさらに決定的なことを言います。

3.「神が救いを」
 「このモーセが、イスラエルの人々に、『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたの兄弟たちの中からお立てになる。』と言ったのです。」
 その偉大なモーセは、自分は神であるとも、自分が救世主、キリストであるとは決して言いませんでした。そのモーセ自身が、神からの約束としてイスラエルの民に示していました。
『神はあなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたの兄弟たちの中からお立てになる。』
 と。モーセは「自分が神、救世主」とは言いいません。まず自分は「預言者」であるとモーセは言います。預言者というのは、神の言葉を預かって伝えるもののことです。しかも「私のような一人の預言者」とありますが、それは別の訳では「私を立てられたように、一人の預言者」と訳すことができます。つまり「ような」というのは、モーセのようなということではなく、「神が立てた」ということに重きがおかれた意味であることがわかります。それだと34節以下にも意味が繋がってきます。「私のような預言者」ではなく「神は自分を立てて遣わしたように、新たなる預言者を、立てて遣わすだろう。」という意味なのです。では、こういうことで、モーセは誰を示しているのかということです。それはまさにキリストを指し示しています。ヨハネの福音書1章でピリポがイエスに会ったことを友人ナタナエルに伝えたときに、ピリポは「私たちは、モーセが律法のなかに書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」(ヨハネ1:45)と述べている場面がありますが、ガリラヤの一人の普通のユダヤ人でも、モーセ自身が示し、約束していたのは、メシア、救い主であることを知っているのです。ステパノはその基本的な事柄にやはり立ち返って、そのモーセ自身が民に伝えた救い主の約束をここで思い起こさせるのです。モーセ自身、自分を指し示してはいるのではなく、新しい預言者、新しい約束を与えるもの、真の救い主こそを示していたではないかと。38節ではこう続いています。

4.「生けるみ言葉によって」
「また、この人が、シナイ山で彼に語った御使いや先祖たちとともに、荒野の集会において、生けるみ言葉を授かり、あなたがたに与えたのです。」
 36節に「荒野の40年」という言葉がありましたが、ここにでも「荒野の集会」とあります。「荒野の40年」はエジプトから脱出した後ですから、この荒野の40年の旅路は、「救われた」イスラエルの民の、まさに信仰の旅路でした。しかしその「荒野の40年」を目に見えて導いたのも語ったのも確かにモーセでしたが、ステパノは、そのモーセは「生けるみ言葉を授かり、受けて、あなたがたに与えた」と、言うのです。それはまさに「神が」を示しています。つまり真の指導者、真の神、真の救い主は、生ける神であり、本当に導いたのは、自分の言葉ではなく、「生けるみ言葉」なんだと。事実そうでした。むしろモーセは、遣わされる時も、自分は口下手だと言って行くのを何度も断っています。そしてそのように遣わされても、モーセ自身は弱く、恐れ、心配になりますが、しかし、その度ごとに、彼はまさに生ける神にいつでも言葉を求めました。生ける神の生けるみ言葉に聞いて、その言葉を民に伝えることによって、モーセは民を導いて行ったのでした。民を真に導いたのは、モーセである以上に神ご自身であり、モーセ自身の言葉や力ではなく、生ける神の言葉であったのでした。そのようにモーセ自身、荒野の40年という困難な旅路において何を見ていたでしょう?それは見える事柄に右往左往するのではなく、どこまでも、見えない神を指し示し、神の言葉、神の約束にこそすがり、そして今、目の前にはないけれども、やがて実現する真の救い主の約束を待ち望んでいたのです。そしてそれこそイスラエルの信仰の本当のアイデンティティーであり、信仰の拠り所でもあったのです。

5.「金の子牛」
 しかしそこから逸れて行ったのはイスラエルの民自身でした。39節〜41節
「ところが、私たちの先祖たちは彼に従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトをなつかしく思って、『私たち先立って行く神々を作ってください。私たちをエジプトの地から導き出したモーセは、どうなったのかわかりませんから』とアロンに言いました。そのころ彼らは子牛を作り、この偶像に供え物をささげ、彼らの手で作った物を楽しんでいました。」
 そのモーセ、つまり、神の言葉にこそすがり、聞き、神を指し示し、神の約束を待ち望んだモーセですが、そのモーセを嫌い、疑い、従うことを好まず、退けて行ったのは、私たちの先祖たちそのものだと、ステパノはいうのです。モーセの時代もそうでしたが、神の言葉は「見えない約束」であり、そして、神はいつでも人間の期待する通りに、望む時に望むような形で私たちにその実現を与えるのではありません。今もそうでしょう?そのように人間の側からみるなら、人間の期待通りではないことの方が多いです。しかし、そうだからと言って、それは神がいないのでも、神ができないのでも間違っているのでもありません。神の側からは間違いなく、確かなものです。確かに目に見えないですし、人間の合理性や価値観では理解できません。しかし、確かなものです。「確かさ」を言うなら、むしろ私たち人間の側の合理性や価値観の方が、独りよがりで、矛盾を大きく含み、不完全なものではあるでしょう。だからこそ、信仰は目に見えない真の確かさを信じることだというのは真理なのです。モーセは派手ではありませんでしたし、ある意味、彼自身は臆病で、そして神の言葉を待ち望んでいる信仰の姿は、優柔不断のようにも見えたことでしょう。そのような弱々しく見えて、人間の必要を満たさないような、信仰の人モーセに対しては、イスラエルの民は、むしろ「ノー」と言ったのは事実でした。
 ここでステパノが述べている通り、荒野の40年が思うようにいかず、なかなか豊かにならないからと、民は、エジプトの奴隷時代をなつかしく思いました。「エジプトにいた方が、荒野を旅するより、食べるものがあった、住む家があった」などなど、目に見える形ある物に目を奪われました。「モーセよりも、エジプトの王の方がもっと与えることができたではないか」「モーセの信仰より、エジプトの王様の権力とカリスマ性の方が、自分達に多くのものを与え、豊かであったではないか」、そういうのです。しかしそのようにして行き着いた先は、ステパノが述べている通り、モーセがシナイ山で神の前にある間に、民はモーセを待ちきれず、不平を言い、そして、目に見える光り輝く黄金の子牛の像を作らせたのでした。その黄金の像こそを信仰の対象として拝み、彼らは喜んだのでした。41節は実に意味深く、象徴的な言葉ですし、人間の性質を表していま。目に見える見えるものに神を作り上げ、それを拝んで安心する様です。しかし、それは自分の願望、自分の欲望のままに、自分で築き上げて満足する、ある意味、自己満足です。偶像は、ですから、人間の欲望を映し出すというのは真実です。無神論者が、神という存在、あるいは、偶像の神々は、人間が心のままに作り出したものだというのはある程度は当たっています。その通りなのです。それはこの黄金の子牛を作った経緯を見ればその通りであるとわかるのです。

6.「約束された救い」
 しかしステパノがモーセの信仰を通して示すのはそのことではありませんでした。モーセが信じ、すがり、拠り所としていたのは、見えない、そして人間の期待や願望をはるかに超えて完全と働く、神とその言葉、その約束、その恵みでした。むしろそれは信じることができないものです。多くの人はそこに躓き、目に見える、自己投影、自己満足の神にそれて行きやすいものです。それはエジプトから救ってもらったはずのイスラエルさえも躓き逸れて行ったものです。42節以下では、神はそのことを知った上で、そのままにさせたというアモス書5章の言葉を引用して言っています。バビロンの捕囚までそうであると。ステパノはこのことを、救い主キリストが来たのに退けたユダヤ人たちに重ねているのです。ステパノの時代のユダヤ人たちもまさにそうでした。神の約束は、まさに人の期待を超えて、むしろ期待とは逆の形で、表されるでしょう。それがクリスマスの出来事でした。イエスの誕生からそして十字架に至るまで、それは目に見える政治的な革命や人間の繁栄や成功、地上のパンという人間の期待通りのメシアを待ち望んでいた人々にとってはまさに躓きとなりました。けれどもイエスは「心の貧しいものは幸いなり、神の国はその人のものだから」と、言って、心の貧しい人々のところ、罪人のところに行き、友となり、救いの言葉を与えるでしょう。そしてイエスの道は十字架がその最高の目的であったでしょう。十字架は、目に見える繁栄や成功ではなく、敗北と屈辱と死でした。しかしまさにその十字架にこそ「約束された神の国」が表されたのでた。それは、私たち自らでは理解できない、計り知れない、いや私たちは皆それを退けてきた。イエスキリストに到るまでもそうであった。しかし信仰による救いとはそのようなものであることを、イエスは何より伝えてきました。困難の中にある平安、死の陰の谷にあるいのち、希望でした。神の国は、心の貧しい人のためにこそある。ステパノが伝えたいのは、人々はその信仰を退けましたが、しかし、その人々が尊敬し、偉大だとする、モーセの信仰、希望はまさに、そこにこそあったキリストを指し示していたということを伝えたいのです。

7.「拒否と崇拝の間」
 その退けられたはずのモーセがそれでもなぜ民の尊敬を受け、偉大な祖先として崇拝されるようになったのかは矛盾するように思うかもしれません。しかし、まさに人々が退けた、本当の神の救いと信仰の真実さを見失うことによって、人々が好む、律法的な指導者のイメージがすぐに蘇ってくるのが必然です。偉大な律法的なカリスマ、偉大な王を人は求めるものです。民主制がうまくいかなくなった先に、人々は強い権力を持つ指導者を求めます。しかしそのようにしてファッショの台頭は繰り返されます。まさに目に見えて輝やく黄金の像を人々が望んで、それで安心するようにです。ですから、人間の罪深い性質にとっては律法的な生き方のほうが心地よく、安心したりするものです。目に見えるし、合理的で、人や自分の力に頼ることができるからです。イエスの時代のユダヤ主義や律法主義は、まさにそうでした。しかし、そこに「否!」と真の福音を伝えたのはイエスでしたね。同じように、ステパノも、モーセを通して、キリストが指し示す、真の救い、真の神の国、真の信仰の素晴らしさと平安を、ここで語っていると言えるでしょう。それが今日の私たちにとっても変わることのない、福音のメッセージであるのです。ヘブル記者の信仰を教えるこの言葉は、使徒たちの伝えてきた希望の証です。
「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」ヘブル11章1〜2節

8.「信仰に歩み」
 来るべき新しい年も、もちろん見えません。期待する通りであるとは誰も言えません。しかし、確かなものを私たちは与えられ、知っています。それはイエスとその約束の言葉、その言葉による救い、そしてそのイエスにこそある、目に見えない確かさです。それは私たち自身では決して信じることはできません。私たち自身の罪の性質は黄金の像という自己投影の偶像を作り拠り所としようとするもの。しかし、その信じる信仰を、イエスが与えてくださった。与えてくださる。その恵みは確かであり、それも聖書が伝える素晴らしい約束です。今年一年、このいまのこの時も、変わらずそうであるように、新しい年も、イエスにあって、全てが、信仰さえも確かで、恐れることはありません。イエスにあって、なおも歩んで行きましょう。