2017年11月12日


「砕かれるモーセ:十字架の神学者としてB」
使徒の働き 7章15〜36節

1.「はじめに」
 ステパノが処刑され殉教する直前に行った、議会での説教。それはステパノの信仰の告白であり、また「はじめの教会、使徒たちがイエスをどのように信じ教えていたか」が表されています。ステパノはそのことを旧約聖書の信仰者たちを取り上げ伝えていきますが、それは彼ら信仰者を賛美するための証しではありませんでした。最初にアブラハムを取り上げましたが、そこにもありましたように、信仰は「アブラハムがまず先に」ではなくて、どこまでも「栄光の神が」アブラハムに現れてくださり、語りかけてくださったところから始まったということ。そしてアブラハム一族はどこまでも罪深かったけれども、神はそのことをご存知の上で、彼らを愛し、導き、全てを益としてくださった、恵みに満ちたお方であることを、ステパノは伝えたのでした。彼は今度は、モーセの出来事を語り始めます。6章の14節でもありましたように、嘘の証言で告発する人々は、「ステパノはモーセが伝えた慣習を変えてしまうと教えた」とまで言って、告発の根拠とまでするモーセのことなのですが、そのモーセのことを出エジプトの記録から彼は説明します。15節以下ですが、ヤコブの一族は、エジプトに導かれることによって飢饉から救われました。しかしそのヤコブもその子供たちもヨセフも死んで葬られるのです。そして数百年の歴史を経てその子孫、イスラエルの民は増え続けますが、ヨセフのことを知らないエジプトの王は、イスラエルの民を奴隷にしました。増え続けるイスラエルの民に対して脅威を感じたからでした。ゆえに19節にある通り、これ以上増えないようにと、エジプトの王はイスラエルの家に生まれる赤ちゃんを生かしておかないような政策を始めたでした。そのような中でモーセは生まれるのです。

2.「ヨセフのようではなく」
「このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三ヶ月の間、父の家で育てられましたが、ついには捨てられたのをパロの娘が拾い上げ、自分の子として育てたのです。」
 ここにも、私たちには理解できない神の不思議があります。なぜこの時に、その命にも関わる状況で、神はモーセが生まれるようにしたのでしょう。「モーセをやがてエジプトから導くものとして選んでいるなら、こんな困難な状況に産まなくても、もっと政治が落ち着いてから」と人は考えます。私たちの目から見るなら、この状況で神の選びであるモーセが生まれることは、あまりにも時が悪いように映るのです。しかしそれでも、この後のモーセに起こる一つ一つの出来事に神の計画があり、私たちの思いでは決して計り知れないのです。
 まず、王のそのような政策でモーセも川に捨てられるのです。しかしその赤子は、王の娘によって拾い上げられ、その娘は、赤子を自分の子として育てるのです。つまりモーセはその王族で育てられていくのです。ここで前回のヨセフの時を思いだします。そしてこう連想できることでしょう。「ああでは、ヨセフの時のように、王に気に入られて、イスラエルは救われるのだ」と。しかしそうなりません。人間の予想を神ははるかに超えています。そのようにせっかく王族に育てられるという状況を与えながら、神はモーセにあってはそのことを逆に働かせるのです。王族で育ったことが彼を大きな試練に導くのです。22節にある通り、モーセは王族で英才教育を受け、当時の最高の学問を教えられエリートとして育ちます。「ことばにもわざにも力があった」と、知識においても行動においても優秀でした。しかし23節

3.「モーセは自分の正義で救いを果たそうとする」
「40歳になった頃、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました。そして、同胞のひとりが虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち倒して、乱暴されている人の仕返しをしました。」
 モーセは自分がイスラエル人であることを知っていて、奴隷とされているイスラエル人を見て、同胞意識が奮い立たされたのでしょう。一人のイスラエル人が虐待されているのを助けるのはいいのですが、彼は彼のその力、暴力で、虐待しているエジプト人を殺してしまったのでした。それは「仕返し」だったとも書いています。さらにこの行動についてステパノは見事にモーセの心理を表しています。
「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。」25節
 みなさん、ここに書いてある問題が何かわかりますか?理解してもらえなかったことではありません。問題は「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思って」というところです。彼は同胞意識に目覚め、民族の神のことに目覚めたことでしょう。そして「イスラエルのため」、「神のため」という、その熱意に溢れていたことでしょう。この「自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられる」という熱意も私たちには立派に見えます。しかし、その問題点は、神のみ言葉から始まっていないということです。
 アブラハムのところで見てきました。信仰は「私たちが」が先ではないと。「栄光の神が現れてくださり、み言葉、約束を与えてくださることが先であり、そこからこそ、信仰や行動はあるのだ」ということでした。しかし、モーセの動機は全く逆です。「自分の思い」が先にあり、「自分の思いや期待の通りになるところに神の御心はある、神はそこにおられ、そこに神の祝福はある」という考え方であることがわかるでしょう。みなさん、これが「十字架の神学」とは逆の「栄光の神学」と呼ばれるものです。どんなに敬虔そうに、「神がこうしてくれるだろう」という思いや熱意があっても、そのゴールには自分の思い、願い、期待が先にあるでしょう。これは実は神を見ているようで、実は自分がどこまでも出発点であり、ゴールも自分であるということなのです。自分の思いや願望に神や神の言葉を当てはめてしまっていることになります。それは聖書の伝える「栄光の神が」の信仰とは全く逆で、「自分の栄光が」先になってしまうのです。その「モーセの栄光の神学」は見事に崩れ去ります。26節以下、皆が理解をしてくれて、自分に感謝すると思ったのでしょう。

4.「モーセの正義は崩れる」26節〜
「翌日、彼は、兄弟たちが争っているところに現れ、和解させようとしてして、『あなたがたは、兄弟なのだ。それなのにどうしてお互いに傷つけあっているのか』と言いました。すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけてこう言いました。『誰があなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、私も殺す気か。』」
 正義の自己満足に満ちていたモーセです。イスラエル人たちが争っているのを仲介し和解させようとします。立派な行動です。『あなたがたは、兄弟なのだ。それなのにどうしてお互いに傷つけあっているのか』という言葉も実に立派です。しかし「神の言葉」「神からの恵みに立った信仰」ではなく、自分の正義、自分の思い優先の信仰から出ていることばです。そこには「ほころび」と矛盾が出てきます。自分の正義から出た行動は、その和解の言葉と矛盾するのです。「エジプト人を殺したのに、和解をいうのか」と。そんなあなたがこの争いの裁判官になるのかと。同じように自分をも殺すのかと。
 みなさん、人間はどこまでも不完全な存在です。「正義」はもちろん国や社会の安全と秩序のためには必要なものです。しかしその人間の「正義」はどこまでも不完全なものでもあります。人間の正義は限界があります。それはやはり自分やある利益を優先するものとなりますし、矛盾するものともなります。なぜなら人間はどこまでも罪深く、自分中心だからです。モーセも全て正しいと思ってやったことでしょうが、しかしどんなに崇高でも人間の正義の限界と矛盾があることがこのやり取りには現れています。
 モーセの正義はその言葉によって平安がなくなります。人間から出ている正義や信仰はどこまでも揺らぐものです。確かな拠り所がありません。29節にある通り、モーセはそこからミデアンの地に「逃げる」しかありませんでした。
 みなさん、王族の家に育てられるような導き、しかし、神様のなさる方法は、ヨセフの時に行ったようではありませんでした。選ばれた人を、なんとどん底に突き落とすのです。まず神のやり方はハウツーやタイプに当てはめられるような一律のものではないことがわかります。いつでも「こうすればこうなる」ということで測ることは決してできるものではないということです。人間では全く計り知れません。そしてイスラエルを救うために選んだモーセをあえてエジプトの王族からどん底に突き落とすやり方も、私たちの合理的な考え方では全く理に合わない、理解できないことです。しかしステパノが伝えたいのは、まさにそこに神の恵みがあり、神はまさしく神の方法で、この罪深く弱いモーセを通してイスラエルを救う計画をしっかりと立てていたということなのです。

5.「神が現れ」
「四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現れました。その光景を見たモーセは驚いて、それをよく見ようとして近寄ったとき、主の御声が聞こえました。『わたしはあなたの父祖たちの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』そこで、モーセは震え上がり、見定める勇気もなくなりました。」30節?
 みなさん、ここで一つのことに気付かされるのではないでしょうか?それは前回のところです。「栄光の神が」まずアブラハムに現れて、神の言葉がまず先にあったと見てきました。そのことがここにあるでしょう。御使いは、主の使いであり主の言葉を伝えるメッセンジャーです。そして31?32節では主ご自身が現れて、そして、主のみ言葉を語っているでしょう。そうです。ここでも「モーセが先に」ではなく、主なる神がモーセに現れ、み言葉があるのがわかるのではないでしょうか?モーセはむしろ「見定める勇気もなくなった」とある通り、恐れ慄くだけしかできません。そして、まさに自分の正義に、神を従わせていた傲慢であったモーセに対して、神ははっきりと「誰が神で、誰が聖であり義であるのか」をはっきりと示しているでしょう。それは25節のモーセと実に対照となる神の言葉です。33節
「すると、主は彼にこう言われたのです。『あなたの足の靴を脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である。」
 モーセの思いや熱意に聖さや義があるのではなく、主なる神こそ神であり、聖であり、義であり、完全であるということを神ははっきりと言うのです。そしてこれで終わりではなく、こう続けて神は語ります。34節
「わたしは、確かにエジプトにいるわたしの民の苦難を見、そのうめき声を聞いたので、彼らを救い出すために下ってきた。さあ、行きなさい。わたしはエジプトに遣わそう。」
 その「主なる神が」、イスラエルの「苦難を見た」。「栄光の神が」その「呻き声を聞いた」。そして、見て聞いて、「神が」「救い出すために下ってきた」とはっきりとあるでしょう。このように真の救いは、人から出たものではない、モーセから、モーセの正義感や熱意、彼がエジプトでの教育で得た力や知識から出たものでも全くない。そのような救いは見事砕かれましたが、まさに救いは神からくる。栄光の神が、神の方から現れ、神の方から聞いてくださることから始まった。そして、モーセをどん底まで突き落とすことによって、荒野にまで連れ出し、シナイの山まで導き、そこに神様の方から現れ、語ることによって、救いを「神が」なそうとされることがわかるでしょう。そして、モーセの新しい「信仰の道」も、まさにここから「遣わされて」始まっていくわけです。「神が」まず現れてくださり、はじめに神の言葉があって、「わたしがあなたを遣わす」と始まるのです。

6.「神に砕かれるモーセ」
 そして、この遣わすところも、主はモーセを遣わすと言っているのに、モーセはそれを拒むでしょう。「自分にはできない。自分は口の人ではない、口が重い、何を話したらいいかわからない」と。「できない」と。それでも神は何度も、神が言葉を与える。力を与える。神が導く、神がなす、神が共にいると励ましますが、それでもモーセは一度ならず、何度も「わたしにはできません」と拒むわけです。まさに全てを砕かれたモーセです。しかし砕かれて信仰も衰えてしまっていました。しかしまさにそれこそ、神がモーセに試練を与えた目的だったわけです。自分の正義感と、力と知識にあふれ、自分で救いを果たそうとしていたモーセです。人の目から見れば立派で敬虔なモーセです。熱心なモーセです。しかし神の前にあって、人が、自分が救いを果たす、行うというのは、大きな間違いでした。罪でした。救いは遥か昔から「神が」果たすものです。その人の力、人の努力、人の熱心による救いこそ、砕かれることが必要だったのです。まさに宗教改革の精神と同じですね。モーセの試練は、そのために試練であったのした。もう砕かれて自信がなくなるほどです。しかし、モーセがそれでも主の言葉に従ってエジプトに向かうのも、まさに主の言葉こそ真実であり、主こそが戦ってくださり、主が救ってくださる。主がなんとかしてくださる。その信仰へと導かれたからです。まさにアブラハムの家と同じです。主は働いておられます。そして人の目に理不尽に不合理に思われることでも、主なる神の目にあっては筋が通っています。揺るぎない計画です。それはモーセの高ぶりを砕き、信仰を養い強めるためです。「主こそが全て」という信仰にするためにこそ、主はモーセを一度、王族の家へと高めた上で、どん底にまで落とし、主への信頼こそすべてであることへと至らせたのでした。みなさん。これが信仰の恵みです。私たちの神はこのようなお方です。私たちには計り知れない、理解できないことがあっても、主なる神は、このような誤りのない計画を持って、働いていてくださる。それも私たちのため、私たちの救い、平安と喜び、信仰を養い、強め、日々、新しくし、遣わし、豊かに用いるためなのです。その恵みをぜひ確信させていただきましょう。そして、イエスとイエスの罪の赦しの宣言に、安心して今日もここから遣わされていこうではありませんか。