2017年11月5日


「栄光の神が現われて:十字架の神学者としてA」
使徒の働き 7章1〜20節

1.「使徒たちの信じていたこと」
 初代教会の弟子の一人、ステパノは、イエス・キリストの福音を伝えていましたが、外国帰りのユダヤ人たちから議論に巻き込まれます。しかしステパノは、聖霊に満たされ、その議論に見事に答え、ユダヤ人たちは何も反論できなかったのでした。ところがユダヤ人たちは妬みにかられ、イエスを逮捕した時と同じように、ステパノを逮捕し、議会に連れ出し、偽りの証人を立てて証言するのです。「ステパノは神殿と律法に逆らうことを言い、「イエスが聖なる打ちこわし、モーセの慣習を変えるといった」と伝えていた」と。前回はそこまでを見てきました。今日のところは、その大祭司の問いかけに対してステパノが答えるのですが、ステパノは聖書から、つまり私たちが言う旧約聖書から、アブラハム、モーセ、ダビデとともにあった神を伝え、神が恵みのうちに彼らを導いてきたこと、そして神がその約束の言葉を通して、イエスの救いを約束してきたことを語り出すのです。これはいわば、ステパノの信仰の告白であり、つまりそれは使徒たち、つまり初代教会が何を信じ、何を伝えていたのかの記録です。大祭司の「その通りか」の尋問にステパノは語り出すのです。

2.「栄光の神がアブラハムに」
「そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいた時、栄光の神が彼に現れて、」2節
 まずステパノは対決する姿勢ではありません。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。」と呼びかけるのです。同じ神の民イスラエルであり、同胞であり兄弟なのです。そして宗教指導者たちは尊敬する父でもあると敬意を表します。決して、キリスト教会が、革命やユダヤ人社会の秩序を乱すことを目的としていないことを表しています。それは「私たちの父アブラハムが」と言う言葉からもわかります。キリストの弟子たちにとっても、アブラハムはモーセが書き記すように、先祖の父であり、信仰の父でした。ですから、ステパノも他の弟子たちも決して神殿や律法に逆らおうなどとは思っていないことを表す呼び方であるのです。
そして、それはただユダヤ人たちの機嫌取りで言っている上辺だけの言葉ではないことは、この後のステパノの言葉からわかります。彼はその聖書が伝えるアブラハムを明確に語り出すのです。しかしそれはアブラハムを讃える証ではありません。その主語は、2節の最後にある通りに、「栄光の神が」であるのです。そこから4節前半までお読みします。アブラハムがまだメソポタミア、現在のイラクの付近に住んでいた時ですが、
「栄光の神が彼に現れて『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました」そこでアブラハムはカルデヤ人の地を出てハランに住みました。」

3.「信仰は神から」
 まずわかることがあります。それは信仰の父アブラハムのその信仰です。その信仰は、「栄光の神が」先にアブラハムに現れて、その神の言葉が何よりも先にあることがわかるでしょう。信仰の原則は聖書の初めから終わりまで一貫しています。旧約聖書の信仰者の信仰が、新約聖書の信仰者と違って、何か、彼らの決心や行いから始まったかのように考える必要はありません。アブラハムの時代から全く同じです。ここにあるように、信仰も信仰者の行動も「栄光の神が」先に現れてくださり、語ってくださるところから始まる、それがなければ何も始まらないのです。先週の礼拝では「信仰は律法」ではなく神の賜物でありどこまでも「福音」であることを見てきましたが、そのことはここにも見るることができるのです。「アブラハムがまず先に」では決してありません。彼の計画、彼の熱心、彼の決心や意志、彼のまず行動が、先であるとはありません。まず「栄光の神が現れ」とあるのです。そしてその神の言葉に従って、信頼して、アブラハムは住んでいた地を出ているでしょう。これがアブラハムの信仰でした。ですから、パウロが言っているように、「信仰とは私たちが先」ではありません。私たちの行いが先、決心が先ではありません。「私たちの栄光」が先ではないのです。私たちの場合も、信仰、つまり救い、その歩みも、「栄光の神が」私たちに現れてくださり、そしてみ言葉を通して神が語ってくださって与えてくだったもの、あるいは与えてくださるものなのです。まずこの幸いな恵みがここに確認できるでしょう。そしてアブラハムの信仰の歩みについては、こう続いています。

4.「神からの真の財産とは」
「そして父の死後、神は彼をそこから今あなた方の住んでいるこの地にお移しになりましたが、ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。それでも、子供もなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。」
 これは創世記にあるアブラハムの記録の通りのことで、よく簡潔にまとめられているのですが、みなさん、このステパノのメッセージ、アブラハムの記録、どう思われますか。栄光の神が先に現れ、行けと言う地へ、アブラハムは確かに出ていきました。神の言葉が先にあり、神の言葉に信頼して彼はでていきました。しかし、そこには
「神は彼をそこから今あなた方の住んでいるこの地にお移しになりましたが、ここでは、足の踏み場となるだけのものさえも、相続財産として彼にお与えになりませんでした。」
 とあるのです。行けと言われて行った地で、相続財産、つまりいわゆる目に見える財産のようなものは何も与えなかったと言うのです。これは私たち人間の視点や価値観、成功観、実利主義や合理主義からは理解できません。いわゆる「栄光の神学」からは理解できないことです。「ご利益信仰」からも理解できません。信じて行ったのに「ご利益がなかった」のですから。そのような視点から言うなら「神は不条理だ」になることでしょう。しかしステパノはこう伝えています。
「それでも、子供もなかった彼に対して、この地を彼とその子孫に財産として与えることを約束されたのです。」
 このことは何を伝えているかわかります。息子イサクの出来事です。しかしそれはただただアブラハムとサラの罪と、神の一方的な恵みをただただ表す出来事であったでしょう。この時も「栄光の神が」先に現れ、100歳の夫婦に子供が与えられると言葉、約束がまずあります。しかし、アブラハムとサラは、全く信じませんでした。二人とも心の中でそんなことがあろうはずがないと笑いました。その証拠にアブラハムは奴隷ハガルとの子、イシュマエルに相続を与えようとしましたし、サラにいたっては神の使いに笑ったことを指摘されたのに、「自分は笑っていない」と嘘までつきました。そのように彼らはどこまでも不信仰で罪深かったのです。しかしそんな彼らに一方的な恵みとしてその約束を与え、「神にとって不可能なことは一つもない」といい、そしてその約束の通り、神は二人に子供、イサクを与えました。全くの神の恵みを表す出来事でした。そしてこれもアブラハムやサラの信仰が先、彼らの思いや計画、彼らの栄光の業が先ではなく、どこまでも栄光の神の恵み、神の言葉、神のわざが先であったのでした。そして彼らは図らずも、この出来事、この失敗、この悔い改めを通してその信仰が養われ強められました。神が行けと命じて従ったその道で神が与えたものは、目に見える相続財産ではなく、目に見えない、霊的な財産、信仰であったのです。それだけではありません。

5.「この地」
 それでも「この地を彼と子孫に」とステパノは言うでしょう。それでも「この地」を相続させるといいます。何もないかのように思える「この地」です。しかしそれを相続させると言われる神。それは目に見えるその地はもちろんでしょうけれども、それ以上に、まさにその「約束の地」は救いの約束の地となるでしょう。「その地」に神の御子が人としてお生まれになるでしょう。この地で、神の御子は十字架に架けられ死に、この地で、イエス様は復活なされるではありませんか。まさに救いの出来事は、「この地」に成就するのです。真の祝福はこの地、この地にお生まれになり、この地で死んでよみがえるイエスから私たちへと与えられ、そしてその十字架と復活、その目に見えない天からの財産、「救いと信仰」こそを、何よりも私たちは「この地に」降り立ったイエスから受け継いでいくのではありませんか。それこそ神が約束された、救いに至る神からの真の財産、真の宝、真の祝福です。私たちが受けたものもそれです。目に見えるもの、形あるものは朽ちていきます。しかし聖書はいつまでも残る、朽ちることのない種から、朽ちない永遠なるものこそを与えてくださっていることを約束しています。私たちが受けているものはそれです。私たちの栄光が先ではこれはわかりません。しかしイエス、十字架と復活にこそ、神の御心、神の計画、神の栄光があり、それが私たちに一方的に与えられている祝福なんだと、十字架の視点で見ていくときに神のみ心はわかります。神の御心は、飼い葉桶のイエス、十字架のイエスにこそはっきりと現れているからです。目先の見えることや自分の期待するようになるところに、神を探したり、神の御心や神の祝福を探したりしても決して見つかりません。結果、独りよがりになったり、見誤ったり、躓いたりするだけです。アダムとエバの前に、見るに慕わしい木の実が目の前にあったようにです。神の言葉とその成就、イエスとその十字架にこそ、神の御心、神の祝福はあるのです。

6.「罪深いヤコブに現された神の恵み」
 この後のメッセージもその土台に従っています。そのようにイサクが与えられたアブラハム家族、その子孫も、試練と罪の連続です。6節では、栄光の神の言葉は、アブラハムの子孫は外国に移り住み、やがて、400年の奴隷を経験するとすでに伝えています。この後、詳細にステパノは語っていきますが、アブラハムの子供イサクも、決して完全ではありません。その息子への偏った愛が、兄弟エサウとヤコブの確執の原因になります。その子ヤコブの罪深さもご存知の通りです。父を欺き、兄を出しぬき、まさに巧妙、狡猾です。ヤコブも罪の子です。しかし、そのヤコブの罪深さを知った上で、神はヤコブを祝福すると約束し、どんな地に行っても、ヤコブと共にあり、ヤコブとその子孫を祝福すると言うのです。その通りに、神はヤコブに確かに多くの目に見えるものも与えましたが、しかしそれ以上に、神は、そのように罪深いヤコブでしたが、何より彼は悔い改めを与え、神は彼の信仰を養い、強められたでしょう。そして兄との和解も導かれました。まさに目に見えない、いつまでも残る財産です。それでもヤコブは罪深い一人で、彼は自分が父にされたことを、自分の子にもしてしまいます。年老いて生まれたヨセフを偏って愛してしまうのです。それによって兄たちの嫉妬と憎しみを買い、兄たちの殺意に近い悪巧みによってヨセフは、9節にある通り、エジプトに奴隷として売られてしまいます。しかし9節後半からこうあります。
「神は彼とともにおられあらゆる患難から彼を救い出し、エジプト王パロの前で恵みと知恵をお与えになったので、パロはエジプトと王の家全体を治める大臣に任じられました。」
 そのようにヨセフが奴隷として売られることは、ヨセフ本人はもちろん、ヤコブにとっても、兄たちにとっても大きな試練になります。もちろん彼らそれぞれの罪の結果でもあります。この後、書かれている通り、ヤコブの住む地は、大飢饉が襲い、まさに目に見える財産は皆失われます。試練の連続、苦しみの先に苦しみです。みなさん、このヤコブの家を襲った出来事は、「人間の価値観、成功観」「私たちの期待する繁栄」「栄光の神学」で見るなら大矛盾です。神は理不尽、不条理で、意地悪で、残酷です。納得できません。理解できません。まさに神は躓きです。しかし「神は」の目で見るなら、神は、その罪の家にこそおられ、その罪の家を見捨てず、その罪の家の患難の只中にこそおられ、その罪の家、ヤコブの家を救い出すでしょう。ヨセフに恵みを与え、ヨセフをエジプトの高い地位に上げただけではない、そのようにしたのは、まさにこの後、書いてある通り、ヤコブの家を、飢饉から救うため、それだけでない、この試練を通して、ヨセフもその兄たちも悔い改めを与えられ、挫折を通して、彼らは神に信仰こそを養われ、信仰こそを強められるでしょう。そのようにして飢餓からの救いだけではなく、ヨセフと兄弟たちとの和解も与えられています。ヨセフの言葉は実に迫ってくるものがあります。
「ヨセフは彼ら(兄たち)に言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなた方は私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなた方や、あなた方の子供たちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。」創世記50章19〜21節

7.「むすび」
 みなさん。これこそ神が与えた相続財産です。目に見える財産ではありません。目には見えません。しかし救いをもたらし、平安を与える、信仰という賜物。天からの宝。神からの財産です。信仰はこのように、誰も裁かず、むしろ和解と平安、慰めと優しさを養い、育て、そして互いに分かち合うものとしても与えられいるものであることもわかります。ステパノは自分が受けて伝えているものは何であるのかを、この旧約聖書の約束を通して伝えているのです。その後、エジプトでのことも書かれています。6節にも400年間の奴隷のことが書かれています。それは次回見ていきますが、7節には、神がエジプトの王を裁くと言う約束があります。出エジプトのことです。しかしその救いも荒野の放浪の40年ですから、何か目に見える財産ではなく、それも神の恵みが豊かに与えられ、信仰が強められる出来事であることは言うまでもありません。そのようにステパノが議会の真ん中で、処刑される直前です。その時に聖霊に満たされて、聖書から語った言葉、それは福音でした。信仰の素晴らしさ、それは恵みであり、重荷ではなく、平安と希望を与える、まさに救いであると言うことでした。私たちもこの新しい週、新しい一日一日も、このステパノの語るイエス様の福音のメッセージ、福音の言葉を受けて、ここから遣わされていきましょう。