2017年10月22日


「どこにイエスはおられるのか?:十字架の神学者として@」
使徒の働き 6章7〜15節

1.「前回のところ」
「こうして神のことばは、ますます広まっていき、エルサレムで、弟子の数が非常に増えていった。そして多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」
 教会の配給の仕方で不満や苦情、不和があった教会であったのですが、しかしイエスの救いの恵みである、福音と召命、そして祈りをもって7人を選んだことによって、教会の配給の問題、何よりそのぎくしゃくしていた教会の交わりの問題は、良い方向に向かったことでしょう。それは主イエスが御霊を通して導いてくださった恵みに他なりません。そして教会では必ず起こる様々な問題も、しかしイエス、福音にあっては必ず益とされます。イエスは、どんな問題においても福音を通して実りを備えてくださるのです。そしてその福音はますます広がり、多くの弟子が加えられ、驚くべきことに祭司の多くにも信仰が与えられたのでした。イエスのなさることは人の思いをはるかに超えて素晴らしいことが7節の証しであると言えるでしょう。

2.「私たちでは計り難い」
 しかしです。同時にイエスのなさることは本当にわかりません。8節以下から書かれていることは、再び、私たち人間の目から見るなら災いであり、望まないことではありませんか。それでもイエスのなさることは間違いないと言えるのでしょうか?ー神の召しはそれでも誤りがないと言えるのでしょうか?まず、こう続いています。
「さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、素晴らしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」 
 ステパノは、5節にありました選ばれた7人の一人です。5節には「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」とあります。これまで見てきましたように「霊的」とか「聖霊、御霊に満たされる」という言葉は、人のわざ、行いではなく、全くの恵みを表す言葉であり、「十字架の言葉」とある福音に満たされ、福音に生かされていることを意味しています。そのことをまさに表すように、8節では「ステパノは恵みと力とに満ち」とあるのです。つまりその力は当然、聖霊の力であり、聖霊がステパノを用い、「素晴らしい不思議なわざを行った」ということを意味しています。ここでもイエスのなさることは素晴らしいです。しかし同時にわかりません。なぜならこれはステパノの殉教の出来事のきっかけでもあるからです。
A, 「議論」
「ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレテ人、アレキサンドリア人、キリキヤやアジヤからきた人々が立ち上がって、ステパノと議論した。」9節
 ここに書かれている人々は、外国からやってきたユダヤ人です。エジプトからトルコ、ギリシャに至る地中海沿岸の地域です。ギリシャ人は知恵を求めるとも言われますように、ギリシャ哲学や議論好きの文化で育ってきた人々なのでしょうか。彼らはステパノと議論をしたのでした。しかし知恵と議論に長けているはずの彼らですが、10節です。
「しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。」
 信仰と御霊、恵みと力に満ちて、「知恵と御霊によって」語っていたステパノです。「御霊による」ものですから、彼は哲学的な議論をしたわけではなく、みことばから語ったことでしょう。このユダヤ人たちはステパノの御霊に満ちた知恵ある回答に彼らは太刀打ちできなかったのでした。「神の愚かさは、世の知者知恵に勝る」のです。しかしその議論を仕掛けた外国出身のユダヤ人たちは、こう続いています。
「そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とを汚すことばを語るのを聞いた」と言わせた。」11節
 議論は喧嘩ではありません。議論は議論で終わることです。しかしこの外国人ユダヤ人たちはどういうわけでしょうか?「自分たちは議論に長けている」という自負があったのに打ち負かされたからでしょうか。あるいは初めからステパノを貶める目的であったのにうまくいかなかったからでしょうか。彼らは良からぬ思いに導かれ、ステパノを嘘の証言で貶めるのです。ステパノは「御霊に満たされて」いたのですから、聖書から福音を語ったことでしょう。決してモーセと神とを汚すことなどは言っていませんし、何より彼らが「反論できなかった」ということは、ステパノは正しいことを言っていたことを証明しているのです。
B, 「偽りと扇動」
 これは全くイエス様の時と同じです。そしてユダヤ人たちの動機もイエスの時と変わりません。「妬み」にかられてこの行動に出たのでしょう。そしてそのような「偽りの証言」を持って、彼らは民や指導者を扇動し始めます。
「また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会に引っ張っていった。そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なるところと律法に逆らうことばを語るのをやめません。『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう』と彼がいうのを、私たちは聞きました。」12?14節
 ステパノは襲われ、捕らえられ、議会に引っ張っていかれます。そして偽りを言うための証人は、言わせられるままにいうのです。確かにイエスはヨハネの福音書2章では、「この神殿を壊してみよ。」と言っていますが、その言葉はそれで終わりではなく、その後の「わたしは三日でそれを建てよう」までで一つの言葉でした。つまり、それはイエスはご自身の死と復活のことを言っていたのであり、それは「キリストこそモーセの律法を成就し、モーセ律法と神殿礼拝と人々との関係を全く新たにする」ことを伝えていたのでした。そのことは7章でステパノ自身、詳しく伝えていますが、決して律法に逆らうことなどは言っていません。しかし偽りの証人たちは、ステパノが「「モーセが伝えた慣例を変える」と言ったと、イエスもステパノ自身も言ってもいないことを付け加えたのでした。そのようにして、恵みと力に満ち、知恵と御霊によって語っていたステパノは議会に連れ出され、そしてこの後に見ていきますが、この議会から解放され教会に戻ることなく処刑され殉教していくのです。
C, 「なぜ?」
 みなさん、考えさせられます。神のなさることはわかりません。前回の7人も御霊によって選ばれた一人です。ステパノは「信仰と聖霊に満ちた」と言う形容がついているような弟子です。そこにはまさにイエスからの召命、召しがあります。しかしイエスは、このステパノの殉教の出来事をわかった上で、彼を7人の一人に召しています。それだけではありません。このところ、外国出身のユダヤ人たちに議論をふっかけられること、彼らが妬みにかられること、そして偽りの証言と扇動で議会に引き出され、殉教していくことを知っているのに、8節にある通りに、ステパノを恵みと力に満ちさせ、福音を語らせます。そのような議論、逮捕、尋問、そして石打ちによる殉教が待っているのであるなら、御霊で満たさなければいいのに、語らせなければいいのに、素晴らしい不思議なわざとしるしを行わせなければいいのに、そう思うかもしれません。あるいは、やがて殉教する人であり、結局、運営上、教会に痛手になるのなら、神は7人の一人に選ばせなければ良かったのに、とも思うかもしれません。このように人間的な合理性や理性で推論し、「もしこうであったら」と考えれば神の導きは全く矛盾します。不条理で不合理です。イエスのなさることは不完全で残酷で意地悪のように見えることもあるでしょう。「なぜこのような苦しみに?」「なぜ聖霊に満ちた人を死に?」そう思っても当然です。そう、イエスの計画、思い、なさることは私たちの希望や願望、合理的な考えや理性、価値観ではもはや計り知れません。しかし、イエスは矛盾しているのですか?イエスは間違ったのですか?イエスはステパノを見捨てているのですか?全くそうではありません。15節にこうあります。

3.「イエスはどこにいるのか?祝福はどこにあるのか?十字架の神学と栄光の神学」
「議会で席についていた人々は皆、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔はみ使いの顔のように見えた。」15節
A, 「ステパノの顔の輝き」
 彼の顔が御使の顔のようになった。それはルカ24章4節、復活の墓の前で女たちが見た御使のまばゆさのように「天の輝き」を意味しています。それは復活のイエスがともにおられることを伝えています。
 みなさん、このところが伝える意味がわかるでしょうか。この偽りと妬み、人間の残酷さによって迫害を受け死んでいく、人間から見れば絶望と敗北と屈辱、不条理の状況です。しかしこの状況に、このステパノに主イエスはともにおられ、天の輝き、祝福の光、栄光の光を放っていると言う事実です。つまり私たちの救い主イエスは「ここに」おられると言うことです。繁栄と成功、なんでも人間の側の期待通り、願い通りになったところではありません。努力して立派に完全に振る舞うことができたそこにではありません。この私たちから見て、絶望と敗北と屈辱、不条理の状況に、まさに死の陰の谷のどん底に、イエスはおられると言うことです。みなさん。これが「十字架の神学」です。その逆にあるのが「栄光の神学」ですが、栄光の神学は、私たちが願った通り、頑張った先、行った先、そして上手く言った、成功したからそこに神はおられ、だから祝福される。だからそこに神の栄光はあると言う考え方です。しかし初代教会を見ていくとき、そしてまさにこのステパノの殉教を見るときに、そうではないことがわかるではありませんか。この人の目から見れば偽りと屈辱で死にゆくステパノにこそイエスはおられ、栄光の天の輝きを輝かせているでしょう。そうです。イエスは「そこに」おられるのです。私たちがたとえ信仰が弱り果て、途方にくれるとき、どうして何も変わらないと嘆く時、罪に苦しみ絶望するとき、敗北と挫折を感じ、なすすべなく点を見上げることもできず胸を叩くしかないとき、そのどん底の苦しみ、死の陰の谷のどん底を歩いているとき、イエスはそこにいないのではない。失敗し、挫折したから、信仰が弱いから、そこにイエスはいないのではない、祝福は遠のいているのではない。そこにこそイエスはいるのです。それが聖書の伝えることです。
B, 「十字架にこそ神の救いがあり、イエスの栄光は輝く」
 まさにこの十字架はその人間の罪のどん底にこそ立ったでしょう。大いなる闇が覆ったそこに十字架は立ったでしょう。その人間の罪の真ん中に、その闇の中に、イエスは来られ、十字架にかかり、私たちに罪の赦しを与えたでしょう。その罪の報酬である死からよみがえられ、その死からいのちへと私たちに新しいいのちをもたらしてくれたのではありませんか?イエスの目的は最初から変わりません。貧しい家畜小屋に来られ、飼い葉桶に寝かせられた時から、そして、世の人々が忌み嫌い見捨てる罪びとの心にこそ来られ触れられ、ともに食事をするでしょう。あの酒税人マタイ、ザアカイの救いを心から喜ぶでしょう。罪に打ちひしがれ顔を天に見上げることもできず、胸を叩き、憐れんで下さいとしか祈れない一人に罪人こそ、義と認められて帰ったとイエスは言いました。その彼らに確かにイエスはいらっしゃったではありませんか。その彼らに神の国は確かにあったでしょう。その彼らにイエスの祝福は溢れるばかりに注がれたではありませんか。イエスは、何かをしたから、頑張ったから祝福してくださるのではありません。十字架ですでに祝福してくださっているのです。
C, 「死の陰の谷にこそ祝福はある」
 私たちは試練を覚えます。様々な苦しみを経験します。失敗や挫折、罪も日々覚えます。そして、弱り果てます。信仰は確かに賜物。しかしその信仰さえも弱るように思えます。しかしそこにイエスはいないのでありません。そこにこそイエスはおられるのです。イエスはそのみ顔を輝かせてくださっているのです。そのように絶望とまでも思えるようなどん底にこそ、イエスはおられ、それでもイエス様は祝福してくださっています。「すでに」です。それは十字架のゆえにです。私たちは弱いのですが、しかしそのイエスの恵みと祝福にあってこそ、私たちは決して弱いままでは終わらないのです。私たちをもどん底にあって、平安を与え、輝かせてくださるのです。詩篇にあるでしょう。
「たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」詩篇23篇4節
そしてパウロはこう言っているでしょう。
「しかし、主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。と言うのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、わたしは、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからです。」第二コリント12章9〜10節

4.「むすび:十字架のことば、福音に生かされる平安」
 これがイエスが与えてくださった信仰の素晴らしさ、信仰の平安、イエスの恵みの素晴らしさです。もちろん、ステパノに起こった一つ一つのことは一切無駄ではないこともこれから見ていくことではありますが、ここで教えられること。私たちは罪の世にキリストのものとして遣わされています。そうであるなら、イエス自身が艱難がありますと言われたように、私たちはこの世にあって艱難の連続です。ステパノの現実、使徒たちの現実は、私たちの現実です。キリストのものであるからこそ、人の目には敗北や屈辱、挫折や失敗と思えることばかりです。「どうして?」と思えることばばかりです。しかしイエスは、言われました。「恐れることはありません。勇敢でありなさい。あなた方は世に勝ったのです」と(ヨハネ16:33)。十字架のイエスはその証しであり、私たちにとっての真の平安です。ぜひ今日もイエスの十字架にあって、私たちは世にあって愚かと思えることでも、救いを受ける私たちにとっては神の力、神の救い、神の平安があること、受けていることを確信し、感謝して、世に使わされていこうではありませんか。