2017年10月8日


「御名のために辱められたこと」
使徒の働き 5章33〜42節

1.「前回までのところ」
 使徒達が語るイエス・キリストの福音が、エルサレム中に伝わることによって、神殿礼拝を司る大祭司達や宗教指導者達は妬みにかられ使徒達を逮捕しました。しかし神はみ使いを遣わして使徒達に「人々にいのちの言葉をことごとく語りなさい」と言い牢獄から解放します。使徒達はその通りに再び神殿でイエス・キリストを証しするのですが、大祭司達は、牢獄からいなくなり神殿でイエス・キリストを語っている使徒達を見つけ、再び逮捕し議会に連れ出し尋問するのです。「イエスの名によって語ってはいけないと行ったではなか」と。しかし聖霊に満たされた使徒達は「人に従うより、神に従うべきだ」といい、そのようにイエスを受け入れず迫害する彼らに対しても「対決」ではなく、「イエスこそ、十字架によって世に罪の赦しを与え救ってくださる救い主なんだ。自分たちはそのことの証人なんだ」とどこまでも「福音のメッセージ」を語るのでした。そのように聖霊なる主は使徒達を用いて、迫害しイエスを妬み憎む彼らに対しても「福音の良い知らせ」を伝えておられるという幸いを教えられたのですが、しかし福音を聞いた宗教指導者達は、その福音のメッセージに対し、どうであったのでしょうか。

2.「妬みは殺意へ」33節
「彼らはこれを聞いて怒り狂い、使徒達を殺そうとはかった。」33節
 最初は「妬み」でした。それは「心の中の小さな罪」のように思うかもしれません。しかし、それが「怒り狂う」に変わり、ついには「殺意」にまで膨らみました。しかも26節にありますに、最初は「手荒なこと」はしませんでした。周りの人々を恐れていたからとはいえ、まだ「理性的」でした。しかしどうでしょう。単なる殺意ではなく、彼らは、「殺そうとはかった」とあるように、ほぼ行動にまで至っていることが現れています。
A,「聖書はなぜ罪を伝えるのか」
 このところは「人間と罪」について色々教えられるところです。最初は「小さな妬み」でもそれは「罪は罪」であるということ、そしてそれはイエスが言った通り「パン種」のように最初は小さくても、パン種を入れたパンが大きく膨らむように、小さな罪、小さな妬みでも、その罪は大きく膨らむのだということが良く表されています。
 聖書は確かに「罪」ということを伝えています。それは「福音が本当に救いである」とわかるためには、決して避けて通れない教えです。ですから聖書も教会も、私たちに罪,「人間は罪人である」という現実を語り続けるでしょう。しかしなぜ聖書は罪を語るのでしょう。なぜ私たちにそれほどまで罪を伝え続けるのでしょうか。「罪なんて「聞くたくない」「耳をふさぎたい」」ー確かにわかるのです。「人ウケが悪いから罪は口にするな、教会、説教から排除しろ」という教会も実際あります。しかしそれでも「聖書は」私たちに罪を伝えます。なぜでしょう。それはこのところからわかるのではないでしょうか。「神のために」罪を伝えているのではありません。上から目線でただ裁くためでもないでしょう。聖書が罪を語るのは「私たちのため」です。それは神の前に罪深いのは私たちの現実であり、そして何よりその罪の影響の大きさ、私たちの心の中の小さな罪さえも、それが妬みであっても、これほどまで膨らんで大きくなっていくほどに危険なものなんだという「罪の恐ろしい結果、現実」までも私たちに教えるためであるでしょう。ですから、罪を、「示されない」のではなく「示されている」というのは実は幸いなことです。
B,「もし神が罪を伝えないなら」
 もし神が聖書や説教を通して、本当は私たちの命や救いに関わる重大なことであるのに、それを語ることはウケが悪から伝えないというのなら、それはものすごく神は意地悪で残酷だと思わないでしょうか。残酷です。私たちの滅びゆく現実であるだけでなく、私たちが今の世を生きる上でも、人の中にある一番大きく膨らむ危険な原因を全く教えてくれないで、現実ではないただ私たちの耳に優しいファンタシーを伝えるのが福音であるといいうなら、表面的には優しく親切のように見えますが、しかしそうなると、神はむしろ心の中で私たちの運命を知ってただ滅んでいくのを見て楽しんでいるだけです。もしそうであるなら十字架もイエスも必要なかったとも言えるでしょう。しかし聖書はそうではありません。イエスはこの聖書を通して、はっきりと罪を語ります。人間の罪深さを語ります。その罪は小さなパン種でも大きく膨らむ危険なものなんだと、現実を教えてくれています。それもまた神の愛ではありませんか。それを知るからこそ、罪がいかに深刻な問題であるか、そしてだからこそ、イエスの十字架とそこにある罪の赦しの大きな深さ、いや計り知れない神の大きな計画と愛がわかるともいえるでしょう。今日もこのように、大祭司だけではない、私たち一人一人、人間の心、私自身にも確かにある妬み、怒り、などなど罪の一つ一つ、私は確かに神の前に罪人だと教えられること、それは確かに痛みではありますが、同時に、神の愛の取り扱いでもあります。だからこそ私たちは十字架を見上げ、安心することができ、罪の赦しを知り、救いがわかるのですから。神の恵みに感謝したいのです。

3.「理性は万能なのか?」
 さて、今日のところにはもう一つの人間の現実を見ることができます。それは「理性」です。「理性」は神が与えてくださった一つの賜物です。しかしそれも不完全であるし、神に対しては盲目だということです。つまり理性で神や救い、福音を知ることはできないし、理性や理性的な知識や行動によって人は救われるのでは決してないということです。ここにはそのことがよく表れています。
A, 「理性的コントールを超えて殺意へ」
 まず33節の怒りや殺意もそうです。26節で彼らは最初は手荒なことはしませんでした。周りの人を恐れてそれはできなかったとありますが、周りの状況を見極め、自分の行動や感情を制することはこの時はできていました。まさに理性的です。しかし、それは万能ではないでしょう。その理性は、ある程度は行動や感情を抑制できたとしても、結局、罪に対しては負けてしまいました。妬みが殺意にまでどんどん大きくなるのを制することはできませんでした。理性が万能だというのは間違いです。理性には限界があるのです。ちなみに福音派が警戒し、敬遠する、自由主義神学、リベラル神学というのは、まさに理性によって聖書や信仰は理解できるし理解されるべきというのが考え方の土台にあります。だから警戒するするのです。理性はもちろんとても大事で有益なのですが、それを万能としてしまったり、あるいは全ての基準、土台にしてしまうと、あるいは「理性に聖書を従わせる」となると、そのように聖書の教えさえも歪めてしまうものともなり得るのです。この大祭司達や宗教指導達はまさにユダヤ教の知識と理性の模範でありエリートです。しかし、その彼らであっても理性は崩壊しているでしょう。それが理性の現実です。
B、「ガマリエルの理性的対応」
 それは実はこの後のガマリエルも違うようでしかし同じことなのです。使徒達はまさに殺されそうになったところを、一人の律法学者ガマリエルの一言で止められます。
 (34節以下)
 律法学者ガマリエル、彼は律法の先生として、大変尊敬されていたと言われています。パウロも改心する前は、このガマリエルを師匠として学んでいたと言われていますが定かではありません。このガマリエルの対応とその言葉から、彼はキリスト教徒の味方であるように理解され、それゆえカトリック教会では彼を聖人の一人に数える人々もいるようです。しかしよく見ると、彼にキリストへの信仰があったとか、弟子達の味方であったということではなく、彼の言葉と対応からわかることは、冷静で、かつ知的で、そして何より理性的であることがわかるのです。彼は律法学者でありますから、旧約聖書には良く精通し、神と律法を信じてはいたでしょう。「神から出たものなら」とも言っていますから。しかしその判断は社会の常、あるいは一般的な経験に基づいています。どういうことかというと、それまで多くの反乱が確かに起こったり、それによって急に人気を集めるリーダーが登場します。しかしその反乱者や異常な集団、あるいは世の中の人気というのは、時として現れ、急激な人気を得て、社会で騒がれたり、あるいは混乱させることは数あるけれども、それはいつまでも続くものではなかったというのです。だから放っておくのが一番だというのです。それは全くその通りです。とても冷静で理性的です。そして彼の信仰も冷静です。人から出たものであれば廃れる、しかし神から出たものならそれを絶つことは決してできないと。もし神から出たものに敵対すればそれは神に敵対することになる。そう彼は言うのでした。旧約聖書の詩篇や箴言にはそのような「人の計画よりも神の言葉と計画こそが永久に立つのだ」と言う言葉がいくつもあります。彼は律法の先生ですからその聖書の言葉があったのです。
 しかし彼はイエスをキリストとは信じていたかどうかは書かれていません。むしろこのキリスト教徒の動きを、実に客観的に見ていて、反乱者たちと同じレベルで見ていますし、「もしかすれば神に敵対してしまう」と言う言葉も信仰の確信からの言葉ではなく客観的です。つまり、彼はあくまでも優れて理性的な判断の模範なのです。
C、「理性では計り知れない神の計画と十字架の言葉(十字架の神学)」
 この一人の理性者の理性的な判断を通して、使徒達は殺される寸前で助けられました。鞭打たれますが、彼らは解放されます。このように理性は社会が正しく進んでいくために大事な役割を果たしている、その一面がガマリエルの記録でもあるわけです。しかし実はその冷静な理性的判断も、神の計画に対して用いられているにすぎない実に小さなものでもあるのです。彼は過去の反乱の事件から状況を分析していますし、その理性的判断はその通りでもあります。しかしイエスの計画はそれを超えているでしょう。事実、エルサレムのキリスト教会は実は散らされて小さくなり地下教会化していきます。そしてイスラエルやエルサレムでは、今に至るまで、キリスト教会はなくなりはしませんでしたが、決して繁栄してきたわけではなく、ユダヤ教やイスラム教との関係でずっと試練の教会であります。まさにガマリエルのような「理性」による判断、歴史的事実、経験からの判断従えば、まさにキリスト教会は廃れて行ったと言うことになるでしょうし、その歴史の一部だけを見るなら教会は「人から出たもの」とも判断できることかもしれません。
 けれども神のなさることは実にその理性的判断以上でしょう。むしろ彼の神への信仰の一言、「しかしもし神から出たものならば、あなた方は彼らを滅ぼすことはできないでしょう」と言うこの言葉だけがその通りになっていきます。エルサレム教会への迫害はますます強くなります。ヤコブが殉教し、ステパノが殉教します。エルサレム教会はサウロによって大迫害を受け、クリスチャンはみな逮捕され、教会は散らされます。しかし、その散らされた先で、人々がキリストを証しし、福音を伝えることによって教会は世界へと広がっていくでしょう。まさに「あなたがたは地の果てまでわたしの証人」となると言うイエスの言葉の通りになっていきます。そして迫害者パウロはイエスによって召され、大回心を経験し迫害者から180度逆のキリストの宣教者となっていくのです。それによって宣教も教会も世界へと前進し、彼を通して教会の教理もしっかりと伝えられていきます。
 それはガマリエルには予想できなかったことでしょう。いや誰もそうなるとは思いませんでした。最高の理性、知性、冷静さ、尊敬であっても、それは神の愚かさの前には実に小さく、不完全です。そのようにまさに十字架の出来事がそうであったのと同じように、人の目には愚かさや敗北や失敗だと思えるところに、実は神の不思議な計画があり、そのことを通してこそ十字架の言葉はむしろ広がっていき、そこに一つの教会は、廃ることも自滅することもなく、今に至っているのです。それはこそ理性を超えた神の言葉の真実さではありませんか。パウロの言葉の通りです。
「十字架のことばは滅びに至る人々にには愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それはこう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする。〜25節」」第一コリント1章18〜25節
D,「御名のために辱められるに値するものとされたことを喜びながら」
 最後にまさに理性では説明できない弟子達の姿で結ばれているのは実に印象的です。そのように鞭打たれて釈放された後です。
「そこで、使徒達は、御名のために辱められるに値するものとされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家家で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」41節
 人の目に見るなら大きな試練です。鞭も当然痛かったことでしょう。当時の最高議会から罰を受けたのです。人の目から見るなら望まないことです。敗北です。辱めとある通り、侮辱であり挫折です。使徒達もそのことをわかっています。しかしです。使徒達は、この試練と苦しみを、「御名のために辱められるに値するものとされた」と「喜んだ」と言うのです。そして禁じられ、辱められても、ますます、彼らは福音を伝えて行ったのでした。これは私たちの理性、基準、価値観、期待では計り知れないことです。しかしまさにイエスの苦しみと死、十字架にこそ私たちの救い、神のみこころ、真の祝福があったように、このマイナスだと思える出来事にこそ、彼らはそこにイエスを見、そこにこそイエスがいてくださり共にいて働いていること、福音の真実さを見、真の祝福を見たのです。だからこそ喜びがありました。人が何か良いことをした先に、あるいは人から見て成功しうまく行った先に神がおられ祝福があるのではない。苦しみ、試練、挫折にこそ、神はおられる、イエスはおられる。そこにすでに祝福はあるのです。だからこそ、信仰は理性では説明できないほど強いことを、このところは伝えているのではないでしょうか。

4.「おわりに」
 私たちは、その信仰を賜物としていただいています。それは私たちの力で得たものでもなければ、私たちの知恵や理性で導き出した結果でもありません。どこまでもイエス様が福音の言葉、十字架の言葉を通して与えてくださった、最高の宝物、救いなのです。ぜひそのことを確信し今日も安心しようではありませんか。