2017年9月10日


「聖霊による真のおそれ」
使徒の働き 5章12〜16節

1.「はじめに」
 使徒の働きでは、これまで教会はみ言葉と聖霊によって始まり、聖霊がみ言葉を通して教会、クリスチャンたちに働いているということが何よりのメッセージでした。そのように聖霊に満たされたからこそ使徒たちは大胆に福音を語り、聖霊に満たされたからこそクリスチャンたちは、強いられてではなく喜んで献金をしたり、奉仕をしたり、証しをしてきたのでした。そのように教会というのはどこまでも「神の働き」であり、「神の前」にあるものであったのでした。しかしアナニヤとサッピラは「神の働き」「神の前」を見失い、「人によく見られるように」企み、「人を欺く」ような献金の献げ方をしたのでした。しかし決して「神を欺く」ことはできません。アナニヤとサッピラはそのことをペテロに指摘された時に恐ろしさのあまりに息絶えてしまったのでした。その出来事は、教会全体とこのことを聞いた人々に大いなる恐れ生じさせたのでした。前回はそこまでを見てきたのでした。
 ではその「恐れ」とはどのようなものだったのでしょうか。その恐れは、「恐怖」であったのでしょうか?もし「恐怖」であるなら、この後の教会や使徒たちは「恐怖」、あるいは「神からの脅し」を動機にして教会に仕えて行くことになりますが、果たしてそうなのでしょうか?そうであるなら、現代の私たちも「恐怖」や「神の脅し」を動機としているはずです。しかしここを見ていくときに、「恐れ」は「恐怖」とは違う「おそれ」であったことがわかってくるのです。

2.「聖霊によるおそれ」
「また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。」12節
 まず彼らは皆「一つ心」になって、ソロモンの廊にいた。とあります。ソロモンの廊は神殿の中です。つまり「聖書の言葉」「礼拝」を意味しています。彼らはこの出来事の後に、神殿での礼拝に導かれたのでした。そして「一つ心」は、まさに、ペンテコステから変わることのない「聖霊の満たし」を意味しています。さらには「多くのしるしと不思議なわざ」、そして15、16節で、多くの病人が運ばれてきては使徒たちを通して癒しが起こったことも書かれていますが、それらも、まさに使徒たち自身の力ではなく、聖霊の働きを意味しているのです。
 このようにアナニヤとサッピラの出来事から生じた「大いなる恐れ」。それは決して「恐怖」や「脅し」ではありませんでした。むしろキリストの洗礼を受けたクリスチャン、教会は、本当に教会には聖霊が支配し、聖霊が働いていることを彼らは強く確信させられ、信仰と信頼がますます深まったことをこのところは意味し伝えています。そのようにこの出来事を通して弟子たちは「教会はキリストが頭であり、聖霊が働いてこそである」と信じさせられたからこそ、彼らは、ますます神に祈り求めたことでしょう。神により頼んだことでしょう。そしてそこには聖霊は必ず答えてくださいます。その表れが多くの印と不思議なわざにほかなりません。このように、アナニヤとサッピラの出来事を通して、聖霊は、「教会は聖霊なる主とみ言葉によって歩むもの」であることを教会に知らしめたということなのです。

3.「福音と聖霊によって」
「他の人々は、一人もこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。」13節
 前回、信仰によって教会の共同生活に加わろうとするのではなく、敬虔な生活や人間の理想への憧れや「人間的な思い」で教会の共同生活に加わろうとする人々は少なからずいたと少し触れましたが、アナニヤとサッピラの出来事は、そのようにまだ信仰を与えられていない人々にも、教会の共同生活は単なる人間的な思いや力での集まりではなく、何か不思議な力が支配していることを思い知らせたことにもなったのでした。しかし、それは「教会が閉鎖的で誰も受け付けない」ことを決して意味していません。こうもあるでしょう。
「そればかりか、主を信じる者は男も女も増えていった。」14節
 「信仰が与えられた人々」が増えて教会に加えられているのです。つまり、これまで見てきた「財産の献金や共同生活」は、やはりみ言葉と聖霊によって導かれた人々が、自由に喜んでなしたものであって、決して教会が「全員これはしなければいけない」と決めたルールであるとか、強制していたことではなく、まさに導かれた人々が喜んでそうしていたことをうかがい知ることができます。しかしその共同生活=教会ではなく、共同生活は教会の一部であり、クリスチャンたちには共同生活している人も、そうでない人もいて、しかし礼拝の日には、一つ所に集まり、礼拝をしていたことを伺い知ることができます。なぜなら、まさにその礼拝、福音の説教の場に未信者もいて、その福音を聞いたからこそ、「信仰が与えられた人々」が起こされ、教会に加えられる人が増やされたと言えるでしょう。そればかりでなく、多くの病人や悪霊に苦しめられている人々が運ばれてきては、使徒たちはその彼らに手を差し伸べてもいるのです。このように教会は人の思い、人の力がまず最初にあるのではなく、どこまでもみ言葉と聖霊の力、わざ、導きが最初にあったことをルカは記録し、私たちに伝えていることがわかるのです。

4.「それは今も変わらず同じ恵み」
 みなさん、幸いなことです。なぜならそれは今も同じ、今も変わらないからです。イエスは今日もこの聖書のみ言葉を通して私たちに語りかけています。「どこまでも聖霊と御言葉によるのだから、あなた方は、人の力、人の知恵により頼むのではなく、どこまでも「わたしに求めなさい」「わたしにより頼みなさい。」」と。イエスは、人々を喜びに導き、自由を与えることによって人を用いてくださいます。人の思いや力による教会形成を計画していません。つまり「まずあなた方が自分たちの力と知恵、思いと熱心で、教会を建て上げなさい。宣教しなさい。人を救いなさい。神の国を建設しなさい。」とは言っていないのです。しかしそのような教会論は度々起こっています。宗教改革の時もそうです。ルターは「キリストのみ、聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」と、み言葉と聖霊による救いと教会を回復させ主張しました。決して「行い」に消極的であったのではなく、どこまでも福音と救いの与喜びを動機とする真の良い行いを教えて、そのようにイエスに用いられるところにこそ真の教会があると教えたのです。しかしトーマス・ミュンツァーなどの熱狂主義的な宗教改革者たちは、「それでは生ぬるい」「み言葉だけではだめだ」と言って、ただ「人の力による教会や神の国」を主張していきましたが、結局は、律法主義に陥り、強制によってクリスチャンを服従させ、結局は、暴力と農民戦争になっていきました。イエスはそう教えていません。イエスははっきりと言っています。
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。〜いつとかどんな時とかいうことは、あなた方は知らなくても良いのです。それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし聖霊があなた方のうちに臨まれる時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」1章4節
と。「わたしの証人となりなさい」と言わずに、聖霊を受けるとき、聖霊の力を受け、「あなた方は証人となります」とイエスは言っています。つまり聖霊がそうしてくださるという意味です。それも「いつとかどんな時とか私たちはわからないけれども、神はその権威によって定めている」と。どこまでもキリストの聖霊の主権的なわざと導きがあることをイエスは言っているでしょう。そしてそのことは、まさに「律法から」私たちの歩みは始まるのではなくて、イエスが与えてくださった「十字架の福音から」始まることを意味しているでしょう。なぜなら、「律法」は平安や自由、喜びを与えるのではなく、それこそ「恐怖」と「絶望」しか与えませんが、まさに「福音」を通してこそイエスは、本当の平安、自由、喜びを与えてくださると約束しているからです。そのようにして「福音」にこそ教会とクリスチャンの歩みはあるのですから、私たちはどこまでもイエスが与えてくださる福音に聞き、福音を受けることがまず第一のことです。それはルカの10章のところのマルタとマリヤの姉妹の場面で、イエスがマルタに「どうしても必要なことはわずかです。いや一つです。マリヤはその良い方を選んだのです。」(ルカ10:42)と言った通りです。そのどうしても必要な一つのことは「イエスの言葉を聞く」ことであったではありませんか。十字架の福音を聞き、「罪赦されて安心する」所にこそ、キリストはおられ、聖霊は働いており、教会はあり、そこから、「「証人」にならなければいけない」ではなく、聖霊の力によって「なる」「ならされる」。どこまでも恵みなのです。ですから、「あなた方は何より福音に「聞き」「安心しなさい」、わたしに、聖霊に「信頼し」「求め」「待ち望みなさい」、そして「安心しなさい」」。それがイエスが今日も私たちに語りかけているメッセージなのです。

5.「聖書全体の一貫した福音」
 それは聖書全体、つまり旧約の信仰者たちにとっても変わらない大原則です。アブラハムやヤコブ、モーセなどもそうですが、特にダビデの詩篇にはそのような証しが溢れているでしょう。彼は偉大な王と言われますが、実に罪深く弱い人間でした。彼も弱さゆえに自分の思いや力でことを解決しようとします。あるいは王になっても、自分の思いのままに王としてふるまうともしたことがありました。しかし結果は罪に終わり、自分の罪深さに打ちのめされ、弱さのうちに彼は叫びます。そのような神の前の自分のおごり高ぶりを砕かれてこそ、彼の詩篇は生まれてきています。しかしその証しの最大の特徴は神のみ言葉による助けから生まれる神への信頼です。詩篇23編は、羊飼いなる神への信頼とそこから生まれる平安、そしてその神の恵みは終わりまで尽きないことの証です。
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、溢れています。まことに、私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいましょう。」詩篇23篇
 そしてダビデは詩篇で「待ち望め」という言葉を繰り返します。その中の詩篇27篇7節以下をお読みしましょう。
「聞いてください。主よ。私の叫ぶこの声を。私をあわれみ、私に答えてください。あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。どうか、御顔を私に隠さないでください。あなたの僕を、怒って、押しのけないでください。あなたは私の助けです。私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。私の父、私の母が、私を見捨てる時は、主が私を取り上げてくださる。主よ。あなたの道を私に教えてください。私を待ち伏せている者どもがおりますから、私を平らな小道に導いてください。私を、私の仇の意のままに、させないでください。偽りの証人どもが私に立ち向かい、暴言を吐いているのです。ああ、私に、生ける者の地で主のいつくしみを見ることが信じられなかったならー待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。」詩篇27篇7〜14節
 とてつもない苦難と絶望の中で歌っています。父母にさえ見捨てられるような思いが綴られています。しかし、それを主は見捨てない。主は拾い上げる。主は語ってくださる。主は導いてくださる。だから主を待ち望め。主を待ち望むことにこそ真の強さがある。これがダビデの証です。ダビデは、律法によって自分の罪を教えられることは数知れずありました。しかし彼は「自分が何かをしなければいけない」という律法によって平安を得ていません。いや律法によって平安を得ることは決してできなかったのです。ただ打ちのめされるだけでした。しかし彼はどこまでも「神が何を自分にしてくださったのか」「してくださるのか」というまさに福音にこそ立ち返り、福音によって平安に導かれていることがこれらの詩篇からわかるのではないでしょうか。しかしその恵みの原則が新約聖書になって、イエスの現れと十字架によって、180度、教会やクリスチャン生活のあり方が、再び、律法の歩みに戻ってしまうということはあり得ないことでしょう。矛盾します。むしろ聖書の神が一貫した恵みと哀れみの神であるなら、イエス・キリストが十字架の犠牲で、神の愛を私たちに現したのであるなら、なおさら、私たちの歩みも教会の歩みもダビデや旧約の信仰者たちと同じでしょう?聖霊はその確信です。私たちも同じように、「主を待ち望め」なのです。「主は私の羊飼い」なのです。「私の父、私の母が、私を見捨てる時は、主が私を取り上げてくださる」、「主が道を示し、導いてくださる」なのです。

6.「おわりに」
 感謝ではありませんか。ぜひ、今日もイエスの十字架の福音によって、罪が赦され救われていること、今日も新しくされていることを、確信しましょう。安心しましょう。そしてぜひ、その福音に信仰が満たされ、喜びと平安を持って遣わされ、神を愛し、隣人を愛して行こうではありませんか。