2017年8月13日


「キリストの恵みへの応答」
使徒の働き 4章23〜31節

1.「前回」
 イスラエルの宗教指導者たちの真ん中に立たされ、「何の権威でイエスのことを語るのか」と尋問されたペテロとヨハネが、その尋問の場でもイエス・キリストの福音をまっすぐに大胆に語っていったところを見てきました。あまりにも大胆に力強く聖書のみ言葉からイエスを語るので指導者たちは驚きますが、それは「聖霊の働き」のゆえであったのでした。宗教指導者たちは、ペテロとヨハネに反論できず、結局二人を「脅して」釈放したのでした。そのように二人は帰ってくるのです。

2.「イエスが現された恵みについての証し」
「釈放された二人は、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らにいったことを残らず報告した。」23節
 2章で見てきましたように、初代教会では、使徒たちと仲間に加えられたクリスチャンたちが一つの所で共同生活をしていました。ペテロとヨハネはそこへ帰って行きます。仲間のクリスチャンたちは、前日にペテロとヨハネが帰ってこなかったので心配したことでしょうし、あるいは、足の不自由な男が癒された出来事は神殿周辺で騒ぎになりましたから、逮捕されたことも他の弟子たちには伝わっていたことでしょう。かつてイエスを逮捕し十字架にかけるように群衆を扇動して殺した人々に逮捕されたわけですから、イエスと同じことになるのではと心配したと思われるのです。人の目から見るなら望まない、マイナスの出来事でした。ある意味、イエスが約束した宣教が閉ざされる、つまり「イエスの言葉が間違っていたのではないか」とさえ思いたくなるような状況でした。しかしこの逮捕と尋問は、人の思いや心配をはるかに超えた素晴らしい出来事になりました。なぜならイエスの言葉の通り、その逮捕された場が、「イエスはキリストである」と証しする機会に確かになったからでした。このように人の目に絶望的な場所にも、キリストのわざと恵みは尽きません。その通りに、二人は帰った時に、仲間に、決して恨みや恐怖ではなく、神のその恵みを証したのでした。だからこそそれを聞いた人々の口に神への賛美が起こったことが書かれているのです。

3.「恵みの証しへの応答」
「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声をあげて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中の全てのものを造られた方です。」24節
 ここに「心を一つにして、神に向かい、声をあげた」とあるでしょう。「神に向かい」ーこのことはつまりペテロとヨハネが、その日に起こったことを仲間に伝えたのですが、ただ起こったことを伝えたのではなく、それら全てが「神の」働きであり、「神の」導きであり、「神の」恵みであることを伝えたことを意味しています。だからこそ、その神の恵みの証しに対して、人々は「神に向かい」なのです。神の恵みを信じるからこそ、その恵みへの賛美があふれ出たことを意味しているのです。
 みなさん、人の目には確かに迫害です。力あるものたちに囲まれ、尋問され、脅され帰されました。使徒たちも聖人ではありませんから、たとえ聖霊に満たされていたとしても、その迫害に対してネガティブな思いも湧き出てきても当然のことです。戦いや葛藤の中での、尋問の場であったでしょう。しかし、そのような中でも二人は神の恵みを見、その恵みを仲間への証しとしたことは何と幸いなことでしょうか。それもまた人の力ではなく聖霊の助けがあってこそです。そしてそのように、神の恵みを見、立ち返らされることは、自分たちにとって魂の益となるだけでなく、このように仲間のクリスチャンの目をも神に向けさせ、その心と口に賛美を溢れさせるのです。教会の幸いはここに見ることができるでしょう。このように確かに人生はネガティブなことがたくさん起こってきます。困難試練も数あります。イエスの言った通りに世にあっては艱難があるのです。クリスチャンになってもです。いや、クリスチャンだからこそとイエスは言っています。しかし、そうであっても、私たちがキリストにあるものであるなら、苦しみや艱難にはるかに勝る恵みも溢れているのです。私たちはそのどちらを見るかです。どちらも見ることができます。しかしその結果は180度違います。艱難よりもはるかに勝るイエスの恵みを見、それを喜ぶならその喜びは溢れ出てくるのです。それが彼らの証しを聞いた人々のこの反応、賛美ではありませんか。

4.「イエスが与える水だけが溢れ出させることができる」
イエスはこう言っています。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は、誰でも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人うちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」ヨハネ4:14
 このみ言葉は、まさにここに重なります。イエスの恵みは尽きません。どんな時もあります。それは艱難のように思える時でもです。しかしそこで恵みに背を向けるなら、せっかくの恵みがわかりません。そしてネガティブなことを見るだけに終始しても何ら良きものは溢れ出てきません。しかしイエスは、教会はそうであってはいけないと言っています。イエスが与える恵みを受けるときにこそ、恵みはあふれ出て、そのあふれ出た恵みが「イエスの恵み」であるからこそ、それは私たちの思いや期待をはるかに超えて、仲間のクリスチャンや多くの人々への「永遠のいのちの水」になる、つまりキリストの証しとなり、それは、人を生かし救いに導く、真の証、良きものになるのだと、イエスは教えているのです。恵みに目を向け、恵みにに生かされ、恵みを伝えることこそ、教会の全て、クリスチャンの全てであり、益であるのです。そしてもちろん、それも律法ではなく、そこにも聖霊のみ言葉を通しての豊かな働きがあってこそであるのは言うまでもありません。パウロも艱難が神の恵みであることをこのように伝えていることは幸いです。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、今私たちの立っているこの恵みに、信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりでなく、艱難さえも喜んでいます。それは艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5章1〜5節
 「恵みに立っている。」「信仰は恵み導き入れられた。」とあります。そしてそれゆえに、艱難さえも幸い。なぜなら艱難も恵みのうちにある。それはイエスが私たちを練り育み日々新しく生み出すためのむしろ、希望への恵みなんだと。そう言っています。そしてそこには聖霊の豊かな働きがあるのだとも。今日のところに一致しているではありませんか。その恵みに目を向け立ち返る者は幸いです。

5.「賛美は、キリストの証人としての証し」
 そしてここで幸いなのは、その神への賛美が、キリストの証人としての一つの証しとなっていることです。ペテロとヨハネの恵みの証を聞いての、彼らの神への賛美の声は、こうあります。
「主よ。あなたは天と地と海とその中の全てのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒立ち、もろもろの民は虚しいことを計るのか。地の王たちは、主とキリストに反抗して、一つの組んだ。』ー事実、ヘロデとポンテオは、異邦人やイスラエルの民と一緒に、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの京都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめ定めになったことを行いました。」24〜28節
 25〜26節の引用は、旧約聖書、詩篇からの引用であることに気づきます。ペテロとヨハネもみ言葉を通して神の恵みを伝えましたが、このように、それを聞いた恵みへの応答も、このようにどこまでも聖書のみ言葉に裏付けられていることがわかるのではないでしょうか。そしてその神のみ言葉の通りに、イエスがあらかじめ定めていた通りに起こったからと、そのことを神に向かって賛美しているのがわかるのです。

6.「応答:賛美、証し、そして祈り?それは神の恵み・福音から始まる」
 さらにその恵みの証しから生じた、神への応答が、最後は、「求め」で結ばれていることがわかるでしょう。つまり、賛美は証しであり、祈りでもあるわけです。こう続いています。
「主よ。今彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみ言葉を大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」29〜30節
 このところから、「応答」とは何のかが教えられます。応答、賛美、祈り、全ては、み言葉を通しての聖霊の働き、イエスの恵みあってこそなのです。イエスの恵みにこそ立ち返り生かされる、そしてその恵みを口にし、証ししていくからこそ、真の応答、真の賛美、真の祈りが生まれるのだということを教えてくれているのです。私たちが自分たちの力で自分たちの何かを溢れ出させるのではなく、イエスが与える恵みがあふれ出ることによって教会は泉となり、宣教はそこにあるのだと言うことです。むしろその逆は何も良いものを生まないと言えるでしょう。ネガティブなことや危機感をあげつらうやり方は合意的かもしれませんが、律法は何も良いものを生まないどころか、むしろ裁きあいなどで傷を追うことにもなります。私たちを救い、新しい命を与えたのは何でしょうか。「私たちがしなければいけない」という律法でしょうか?そうではありません。イエスが与えてくださった福音が私たちを救いました。律法ではなく、恵みの福音のみによって私たちは新しく生かされています。イエスの恵みの福音が、私たちを喜びと平安で満たします。クリスチャンの新しい歩みも、そして応答も、良い行いも、その恵みに始まります。聖書の言葉の通りであるなら、恵みによらないものは、人々に恵みを及ぼすことはできないのです。「恵みの福音」を伝えるのが私たちの証しであり宣教であるのなら、私たちもこの使徒たちのように、恵みに目を向け、恵みに立ち返り、恵みに生かされることが全てであることが教えられているのではないでしょうか。今一度、私たちが受けている神の恵みの素晴らしさを覚えようではありませんか。

7.「聖霊がどこまでも働くからこそ」
 終わりに、この日の出来事はこのように結ばれています。
「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語った。」31節
 聖霊は洗礼の時にすでに与えられています。なんども与えられたり下るのではありません。しかし聖霊の満たしは、一度ではなく、何度も必要な時に起こることがわかります。そしてその日、ペテロとヨハネが、宗教指導者たちの前でまさに、大胆に力強く語った、その通りに、聖霊は、そこでペテロとヨハネの証しを聞いていた人々にも、働いて、同じように働いたのでした。このように聖霊の働きは、人の思いでは計画も予測もできないものです。イエスがニコデモに語ったでしょう。聖霊は風のように、どこからきてどこへ行くのかわからないと(ヨハネ3章)。しかし、それはただ一方的であるだけではなく、祈り求めるものにイエスが答えてくださるものであることも教えられていることは幸いです。私たちの力では聖霊はコントールできません。聖霊云々は私たちのわざではないのです。しかしイエスは求めるものには聖霊を働かせてくださり、用いてくださるのです。もちろんこの時はすぐにその答えはきました。しかし、そのようにいつでもすぐではないかもしれません。しかしすぐに答えがないからと、イエスは、祈りに対して決して無視をしているのでもありません。むしろイエスは私たちにも聖霊を与えてくださっているのですから、その聖霊を必要な時に働かせ、そして私たちに神の御心を豊かに行ってくださるお方であると言うことなのです。幸いではないでしょうか。私たちはこのように、あのヨハネ1章にあるように、「恵みの上にさらに恵みを受けている」と言うのは真実なのです。イエスはこの恵みにこそ全ての人を招いています。クリスチャンだけではありません。全ての人にこそイエスは愛とこの恵みを与えているのです。私たちはその贈り物をそのまま安心して受け取るだけでいいのです。ぜひ受け取りましょう。そして、イエスの福音の言葉、愛の言葉にいつでも耳を傾け、イエスに求め、そしてイエスがなさる完全な導きを信じ、ぜひイエス様に任せ、安心しようではありませんか。