2017年8月6日


「迫害者たちの真ん中にて」
使徒の働き 4章5〜22節

1.「それはイエスが言った通りに起こる」
「翌日、民の指導者。長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほかの大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなた方は何の権威によって、また、誰の名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。」5〜7節
 イスラエルの宗教指導者たちが一堂に顔を揃えます。ユダヤ人社会では非常に地位が高く尊敬されていて、神殿に仕え、聖書に従って祭り事を行い、人の目からは神に一番近いと見られているような人々です。前日に逮捕されたペテロとヨハネはそこに引き出され、その「真ん中」に立たされ尋問されるのです。彼らは問います。「何の権威によって」と。この社会では「彼らこそが権威」であることは明らかであり、彼らこそ伝統的には神殿と神の名の管理者でもありました。ですから「その自分たちの権威を超えて」あるいは「誰の名を受けて、この聖なる神殿こんなことを」と鋭く厳しく問いただしている質問です。
 この出来事はイエスがかつて言ったことが、ここにその通りに起こっていることに気付かされます。ルカの福音書21章12節のところで、イエスは弟子たちに「人々はあなた方を捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなた方を王たちや総督たちの前ねえに引き出すでしょう。」と言いました。もちろんこの4章の場面は王や総督たちではありませんが、「牢に」入れられ、イスラエルの指導者たちの前です。そして「イエスの名のために」引き出されています。そして一度だけではありません。これは始まりで、何度も逮捕されますし、そして事実、やがて王や総督の前にも立たされることになります。全て「イエスの名のために」です。つまりイエスが前もって伝えていた通りの迫害の中に二人はいるのです。

2.「それは証し、宣教の時となる」
 しかしここでペテロとヨハネは、イエスの言った通りに迫害が始まり、逮捕され、留置されたからと、あるいは、イスラエル中の宗教指導者たちの面々の真ん中に立たされ「権威のないお前たちが何の権威で」と脅されたからと、二人は引き下がらないのです。
「その時、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、並びに長老の方々、私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行った良いわざについてであり、その人が何によって癒されたのか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなた方の前に立っているのは、あなた方が十字架につけ、神が死者の中らよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。」8〜10節
 二人は、はっきりと言います。足の不自由な人が癒され立っているのは、「イエス・キリストの名によるものだ」と。そしてそのイエスは、神が死者の中からよみがえらせたイエスであると、はっきりと伝えるのです。この出来事が私たちに伝えていることは、先週触れた通りです。繰り返しますが、
A,  「福音を妨げることはできない」
 まず、第一は、このような世の権威、権力による逮捕や妨げ、脅しとも言えるような出来事、迫害があったとしても、しかし決して、福音を妨害し妨げることはできないということです。そしてこの逮捕され宗教指導者たちの真ん中に連れ出されるような出来事であっても、しかし何と不思議なことでしょう。その場が、迫害する彼らに福音を語る場になりました。それもまたイエスが言った通りです。先に引用したルカ21章12節ですがその後13節ではこう続いているからです。
「人々はあなた方を捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなた方を王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。それはあなた方の証しをする機会となります」12〜13節
 その通りではありませんか。「証しをする機会」となっているでしょう。彼らは、このように尋問し、脅す彼らに、まっすぐとイエス様の十字架と復活を語っているのです。
B, 「聖霊に満たされ」
 第二にこの二人の証しは、彼ら自身から出る力のわざではなく、聖霊のわざであることもここでははっきりと書いています。「聖霊に満たされ」と。決して逃げず、この場でさえも福音を語りイエスを指し示すペテロの姿は、以前のペテロには考えられないことなのですが、その変化の答えが聖書にはっきりと書いてあるのです。「聖霊に満たされ」と。全ては、聖霊の働き、聖霊のわざ、つまり神ご自身が働かれているからこそ、ペテロはこの場でこれほどまでに強く、大胆に語り出すのです。
C, 「み言葉を通して」
 第三にですが、ペテロはこう続けます。
「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。」というのはこの方のことです。」11節
 これは、旧約聖書、詩篇118篇2節の有名な言葉です。ペテロは、このように聖書のみ言葉を通してイエスを指し示します。この「家を建てる者たち」は、まさに神殿を運営し守る、宗教指導者たちのことです。その「家を建てる者たち」は、救い主を捨てましたが、しかしその「彼らが捨てた石」の上に、救いと真の神の家が建てられたのだとイエスを指し示すのです。このこともペンテコステの朝の最初の説教から変わりません。それは同じように「聖霊に満たされ」たペテロでしたが、そこでもこのところでも、ペテロに働いている聖霊がみことばを通してペテロに教え、そしてみことばを通して教えられたペテロが、やはりみ言葉を通して、イエスを指し示しイエスの福音を伝えるということです。このことはイエスのメッセージもそうでしたし、使徒の働きでは一貫していることです。

3.「聖霊が直接ではなくみ言葉を通して働く幸い」
 いつの時代も、現在も、「聖霊がみ言葉なし、つまりみ言葉を通さなくても、クリスチャンに直接働く」と強調するグループがあります。しかし実は初代教会の時代からキリスト教会は、そのことを明確に否定してきています。これは大事なことです。なぜなら、もし「聖霊がみ言葉なしに直接働く」とするなら、結局、聖霊が働いているかどうかを誰がどのように判断できるでしょう。それは結局、自分が勝手に判断するしかありませんし、それができてしまうのです。例えば、そういう人々は、クリスチャン生活で何かうまく行くことがあったり、自分の気持ちや感情がいい方向に高まっていれば、聖霊が働いていると言います。しかし逆に自分の望まない悪いことや上手くないことになれば、聖霊が働いていないというのです。あるいは、自分が心の思っていることや、自分の願っていること、ひらめいたことさえも、聖霊の語りかけだとも言い出します。しかしそれらは結局は、聖霊がいるいない、聖霊が働いているいないは、自分が基準となって自分が判断しているにすぎなくなりますし、何より、それは「確信の根拠が自分」なのですから、確信はなく、いつでも不安なのです。つまり聖霊が働いているかどうか、本当はわからないのです。
 しかし、聖書ははっきりと示しています。聖霊は何よりみ言葉を通して働き、み言葉を解き明かし、神様のメッセージを語りかけます。そのようにして聖霊はみ言葉を通して信仰を与え、救いを与え、教え、戒め、励まし、慰めを持って、その信仰を保ち、成長させるのです。自分の曖昧な思いや行いに根拠があるのではなく、神が与えてくださったみ言葉という揺るぎないものを土台としているからこそ、曖昧でも不安でもありません。ですからみ言葉を聞いている時、み言葉から教えられ慰められ励まされるとき、それが聖霊が自分に働いている時です。つまり聖霊が働いているという確信は自分ではなく聖書の約束にあるのです。そしてこのことは私たちの問題ではありませんか。皆さん、私たちは、信仰生活にどうすれば、救いの確信や平安をもているのでしょうか。もし自分の行いや自分の判断に確信の拠り所があるなら、どこまでも不安や重荷はつきまといます。助け主なる聖霊が働いているかどうかは自分にかかっているのですから。しかし「イエス様はこう言われた。これを私たちのためにしてくださったと、聖書は約束している。」という、み言葉の約束に土台を持つなら、私たちの安心も救いの確信も決して揺るぐことはないのです。このことは幸いなメッセージではないでしょうか。

4.「聖書を通して何を私たちに伝えているのか」
 そして、その聖書を通して指し示しているのは、何でしょう。ペテロはここで「裁きの神」を示していません。迫害する彼らであっても、その彼らに律法と裁きを伝えません。滅びを伝えません。聖書を通して、ペテロはどこまでもイエスとイエスの御名を指し示しているではありませんか。彼はこのように続けます。
「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名の他に、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」4章12節
 この言葉は福音です。「救い」が指し示されています。「イエスこそ、救いである」と。私はいつもこの言葉に考えさせられます。迫害者たちの前です。イエスを十字架につけて殺した人々です。一方で、ペテロの横にいるヨハネは兄弟ヤコブと共に、かつてイエスを信じず受け入れなかった町について、イエスに「天から火を呼び下して、焼き滅ぼしましょう」と言った一人です。かつての使徒達は裁きの人達でした。しかしやはりこの180度の変化です。語っているのはペテロですが、これは二人で語っているのと同じです。相手は、迫害する相手、イエスを十字架につけた相手、普通であれば憎むべき権力者、あるいは自分に害を加えようとする者です。しかしこの12節の福音の宣言は、滅びや裁きや、責める言葉ではありません。「あなた方はやがて裁かれます。滅ぼされます」ではなく、そのような相手にも「イエスこそ救い主である」「イエスによって救われる」と彼らの真ん中で明確に福音を伝えている言葉なのです。それは彼らの力やわざではありません。「聖霊に満たされた」という言葉が全て物語っているのです。このようにイエスはいつでもどこでも、私たちにもみ言葉と聖霊を通して「滅び」でも「裁き」でもなく「救い」を語っているのです。「この方こそ救い主、この方以外には救いはありません。この方は救いを与えてくださいます。救いを受けなさい」と。それはたとえ私たちがどんな人間であっても変わりありません。イエスを否定し、殺した迫害者にも聖霊は裁きではなく福音を語るのです。同じようにイエスは、私たちにどこまでも福音を語ります。私たちがどうであっても。罪深くても、信じられなくても、どんな状況、境遇、人間性であっても、関係ありません。いや罪深いからこそ、信じられないからこそ、足りなさ、弱さを覚え、悲しみ、苦しみ、絶望、そのような中に私たちがいつでもいるからこそ、イエスは聖霊とみ言葉を通して、福音を私たちに語るのです。教会も語るのです。この方こそ救い主、この方以外に救いはないと。この方は「救い」を与えてくださいます。聖書がこのように約束しているのですから。だから救いを皆受けなさいと。そのようなイエスの招きの深さ、広さ、愛の深さ、広さがこの言葉には現れているのです。ぜひクリスチャンもそうでない方も、皆に語られ招かれています。そのまま受け入れましょう。

5.「神の前にあるからこその強さ」
 さて13節にある通り、この大胆さ、そして、聖書を正しく語る二人に、指導者たちは驚きます。「無学な普通の人」とあります。ユダヤ人社会では、聖書は、子供の時からエリート聖書教育を受けた教師たちが語っていましたから、漁師出身でイエスという犯罪人と一緒にいた彼らがそのようなことができるはずがないというのが彼らの常識でした。しかし見てきた通り、「聖霊に満たされた」こその彼らの宣教であったわけです。そして、癒されたその40代の男性がそこに立っている事実もあるわけです。宗教指導者たちはあえて二人を退場させて議論をします。二人には面前で尋問するのに、自分たちは、二人の面前では議論できない皮肉な姿があります。そして議論してもペテロとヨハネの正しさに彼らは反論できないのです。そして下した結論は18節ですが、厳しく戒めて命令することでした。聖霊は二人を通して福音を語ったのに、人の側の方策は律法でしかないという対照もわかると思います。彼らは言います。「イエスの名によって語ったり教えたりしてはいけない」と。しかし二人はこう返します。19〜20節
「神に聞き従うより、あなた方に聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
 どちらにすべきかの判断は明らかです。神の前で正しいことは、神に聞き従うことです。そして、自分は偽りや作り話ではなく、見たこと聞いたことを話しているのだという「証言」ですが、「証言」はいかに強いかを示している言葉でもあります。二人のメッセージは「キリストの証人」の証しそのものです。彼らはそれでも脅すことしかできません。しかも周りの目を気にしてもいます。彼らは神の前よりも人の前にあるのです。
 どちらが力強く、確信に満ちているでしょうか。明らかです。ペテロとヨハネです。人の目には、二人は逆境でした。しかし、聖霊と福音によるものは、どんな逆境にあっても、迫害にあっても、これほどまでに強いのです。確信に満ちています。

6.「おわりに」
 私たちが日々のクリスチャン生活で、皆、罪の世に生きていて、様々な逆境があり、苦難があります。イエスの言った通りです。私たち自身も罪人で罪に苦しむものです。しかし、そんな現実で、確信と平安がどこにあるのかを今日のところは教えてくれています。それは私たち自身が何をするか、私たちの判断、思い、意思、熱心、行いには確信はありません。確信は、イエスとそのみ言葉にこそある、イエスの約束、福音にこそ、私たちの確信と平安があるのだということを教えているのです。このイエスにあって、福音にあって生かされていきましょう。