2017年7月30日


「妨げられない福音の声」
使徒の働き 4章1〜4節

1.「はじめに」
 ペテロは人々に、イエスこそキリスト、救い主であることを指し示し、イエスがしてくださったこと、イエスが与えてくださるいのちと平安の福音をどこまでも伝えていったことがわかるのですが、しかし4章では、その宣教の歩みが、決して順調ではないことが記されていくのです。

2.「妨げ」
「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、」1節
 祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人とは誰でしょうか。それはほんの数ヶ月前、イエスをどのように殺そうかと相談し、そして偽りの証言でイエスを逮捕、裁判し、ピラトにイエスを引き渡して、十字架刑を扇動した人々です。彼らは、神殿に仕える人々でもありますから、この日のこの騒ぎは、彼らの耳にも当然、入ったことでしょう。そして、その奇跡を行なったのが、そのイエスの弟子たちであり、その弟子たちがイエス・キリストのことを語っているとなれば、彼らは黙っているわけにはいかなかったのです。そしてこう続いています。
「この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活のことを宣べ伝えているのに、困り果て、」
 彼らは困り果てます。どうしてでしょうか。それは使徒たちが「イエスのこと」を伝えていることが一つです。イエスを抹殺する計画には、彼らの他に、パリサイ派とか律法学者と呼ばれる人々もいたのですが、そのような行動に彼らが走ったのは「妬み」のためであったということが福音書には書かれています。その妬みは人々がイエスのところに集まってくることや、彼らが蔑み裁くような取税人などの罪人とイエスが食事をしたり、律法で「働いてはいけない」と定められている安息日に、イエスが病気の人を癒したりすることに対して、彼らは批判をしたのですが、それに対して、イエスが旧約聖書から理路整然と正しく答え、それに全く反論できなかったことも、その「妬み」の理由としてありました。そのようにしてなんとか社会からイエスを抹殺することに彼らの地位と知恵を用いておしすすめ、十字架で彼らにとってはその企みが成功したような形にはなったのです。しかし、そのイエスとイエスの伝える福音を彼らは社会から葬ったはずなのに、その使徒たちがイエスとその福音を語るのです。正確に言えば、2章から見てきたように、「聖霊に満たされた使徒たち」ですから、イエスご自身が使徒たちを用いて語り続けているといってもいいでしょう。

3.「福音を妨げるこは決してできない」
 みなさん、ここからもわかることがあります。それは、福音の働きは、人のわざではなく、神のわざであり、だからこそ、人がどんなにそれを妨げても、封印しようとしても、消し去ろうとしても、それはできないのです。人から出たものであれば、必ずそれは終わります。人の力で消し去ることも可能でしょう。しかし福音は神から出たものであるからこそ、決して妨げることはできないのです。
 ルカによる福音書19章37節以下で、イエスがオリーブ山に近づいた時に、弟子たちがイエスを賛美しました。その時、パリサイ人たちがイエスに「弟子たちを叱ってやめさせよ」と言いました。しかしイエスはこう言いました。
「わたしはあなた方に言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」19章40節
 と。福音の力、福音を通して働く聖霊の言葉を、人は黙らせることはできないのです。もちろん、使徒たちをも人ですから、同じように抹殺すれば、物理的には黙らせることはできるでしょう。しかし、それでも福音の声を、黙らせることはできないとイエスは言います。事実そうです。このあと、使徒たちは、皆、各地に散らされます。ヤコブが処刑され、ステパノも処刑されます。そして他の使徒たちも皆、殉教していくでしょう。しかしそれで福音は絶えたでしょうか。そのあとも、多くのクリスチャンが殉教していきました。あるいは様々な間違った福音も数々出て来て教会はいつでも混乱して来ました。しかしイエスの福音は絶えたでしょうか。そうならないでしょう。サタンの企みは、いつでも福音を黙らせることや捻じ曲げることです。今でもそうです。しかしそれは決してならない。誰かを黙らせることができても石が叫ぶというのです。そのように、イエスを黙らせても、使徒たちが叫んだのでした。ペテロはこのような有名な言葉を教会のクリスチャンたちへ伝え励ましているでしょう。
「あなた方が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生けるいつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに変わることがない。」とあるからです。あなた方に宣べ伝えられた福音の言葉がこれです。」第一ペテロ1章23〜25節
 その朽ちない種に、止むことのないいのちの言葉、イエスの叫びに、わたしたちが今まさに与っていることはなんと幸いなことでしょうか。そのことを覚えさせられます。

4.「捕らえられても」
 さて、彼らが困り果てたことはもう一つあります。それは使徒たちが「死者の復活」のことを語っていることでした。ここにあるサドカイ人たちというのは「死者の復活」を信じない人々と福音書にありますから、それだけでも都合が悪いのですが、何より「イエスのことを例にあげて」とあるでしょう。マタイの福音書を見ると、彼らは「イエスがよみがえる」と言っていたのを覚えていて、弟子たちがイエスの遺体を盗み出して復活したと言いださないようにと、お墓に番兵をつけている場面があります。そのように弟子たちの方はむしろイエスの「よみがえる」という言葉を全く忘れていて、イエスと会うまで思い出せなかったのに、彼らは覚えているほどに、イエスが復活するということに非常に注意を払っていて、そのことが世間で大騒ぎされることを嫌がっていることがわかるのです。ですからただ「死者の復活」だけでなく、その「イエスの」復活をまさに弟子たちが伝えていることに彼らは困り果てたのでした。
 そこで彼らはどうするでしょうか。
「彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。」
 彼らは、やはり力で抑えようとします。留置するということは、牢に入れられることを意味しています。そして「翌日まで」とありますが、5節以下でわかるように、翌日、大祭司の前で、尋問するためです。ですから、その日その時、一時は、福音の声は止みます。しかしやはり、黙らせることは決してできません。次回の場面になりますが、彼らは民の指導者たち、つまり、長老、律法学者、大祭司たちの前に連れて行かれ尋問されるですが、どうでしょうか。彼らは牢に入れられたからと、尋問されるからと、語ることを止めるでしょうか。そうではありません。彼らはその尋問する相手に、やはりイエス・キリストを、そのキリストの福音を語るのです。

5.「聖霊の力のゆえに」
 みなさん、イエスが逮捕された時に、皆逃げた彼らです。ペテロは「イエスの仲間ではないか」と言われ、三度「知らない」と否定した人物です。しかし逮捕され牢に入れられても、彼らはその翌日、その尋問するイスラエルの指導たちに福音を語り続けるのは驚くべきことではありませんか。何が彼らを180度変えたのでしょうか。彼が変わったのではありません。まさに2章でずっと見て来ました。聖霊の力なのです。イエスが、「今こそ」と自分たちの力や勢いではじめようとする弟子たちに、あえて、神が与える約束の聖霊を受けるまで「待ちなさい」「留まっていなさい」と言った意味がわかるのではないでしょうか。彼ら自身から出たものであるなら、つまり彼らの「力」「勢い」「熱心、熱意」「情熱」などなど、彼らから出たものであるなら、まさにそれは「野の花のよう」です。人の心はどんなに崇高でも、必ず浮き沈みがり、不完全で、独りよがりです。一時の情熱と熱心です。野の草のように衰え、萎れるのです。しかしみなさん。イエスとその聖霊、その福音は、決して衰えることがありません。イエスは完全です。いつまでも残るのはイエスの言葉です。福音です。そこに働く聖霊です。それを権力が抑えようとしても、決して抑えることはできない。石さえも叫ぶ、石さえも叫ばせることができる、父と子なるイエス、聖霊の力なのです。そのことがまさにこのペテロの180度の変化の理由です。彼自身から、つまり「朽ちる種から」ではありません。イエスのゆえ、イエスの言葉のゆえなのです。

6.「朽ちないもの(福音)によって」
 みなさん、「朽ちゆくもの」にあって生きるのか、「朽ちないもの」にあって生きるのか、どちらが幸いでしょう。平安はどちらにあるでしょうか。「朽ちない種」こそです。イエスこそ、イエス様の福音こそ、朽ちない種です。それはこの世にあって、この地上にあって、どんな谷あり山ありであっても、たとえ「死の陰の谷」を歩くことがあっても恐れることがありません。イエスとその福音は、いつまでも残るいのちの言葉、朽ちない種なのですから。ですから、ダビデはこう賛美しています。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。〜」詩篇23篇
 ぜひ真の救い主であり「羊飼い」であるイエス、そして「朽ちない種」である「福音」に魂を新たにされ、平安を得ようではありませんか。

7.「神は人の思いをはるかに超えて」
 この後、これによって迫害は始まります。逮捕は、人の目から見るなら実にネガティブなことです。逮捕されては語れなくなると普通は考えます。神の約束は嘘ではないかと、安易に考えてしまうような状況です。しかし神のなさることは、人が見、評価することをはるかに超えています。まず先ほども言いましたし、次回見ていく通り、逮捕を通して、彼らは、イスラエルの指導者たちに福音を語るように導かれます。そして、4節ではこうあるでしょう。
「しかし、み言葉を聞いた人々が大勢信じ、男の数が5千人ほどになった。」
 男で5千人ですから、女性や子供も入れるとそれ以上になったことでしょう。福音の言葉は、驚き怪しんでいた人々に信仰を与えました。彼らは悔い改めて神に立ち返ったのです。このように、逆境と思える状況であっても、福音は止むことがありません。そしてこの信じた5千人も洗礼を受けて弟子に、教会に加えられ、そして彼らも証人として、用いられていくことになるわけです。このあと、エルサレム教会は迫害によって散らされます。しかし、その散らされた石は、世界各地に落ちて、その石がまさに叫ぶわけです。福音を。聖霊の力は、素晴らしいではありませんか。私たちの思いをはるかに超えています。いかに迫害が激しく、逆境やマイナスと思えるようなことがあっても、あるいは間違った福音で教会が混乱し試練の中の教会であったとしても、福音宣教は主にあってはなにも無駄なことはない。マイナスと思えることにも主の意味があり、主の計画と、主がすべてのことに働いて益としてくださる偉大な計画と祝福があるのです。
 ぜひ、今週も、この福音に生かされていきましょう。朽ちるものではなく、朽ちない種を賜物として受け取っているのですから、それによって生きていきましょう。そしてイエス様が与えると言われ、世が与えることができない平安にあって遣わされ、世にあって神を賛美し、隣人を愛していこうではありませんか。