2017年7月23日


「イエスによって与えられる信仰が」
使徒の働き 3章9〜26節


1.「人々の反応」
 「美しの門」で足を癒された人の姿を見た人々に、ペテロたちが再び、イエスのメッセージを語ります。
「人々はみな、彼が歩きながら、神を讃美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」に座っている男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。」9節
 彼がそのように歩いているのも、賛美をしているのも、神が彼に働かれたことの証しでした。なぜならその日、ペテロたちに会うまでは彼は全く足が効かなかったのですから。そしてそのような人が歩いている事実は、喜ぶべき出来事です。しかし人々は、男が治って喜びに満たされていることを「共に喜び賛美をする」にはならず、その状況に驚きあきれます。そして彼と一緒にいたペテロとヨハネのところにやってくるのです。そこでペテロは彼らにメッセージを語るのです。
「ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたように、私たちを見つめるのですか。」12節
 まず人々はこの出来事をどう見ていたのかが、わかります。人々は、ペテロとヨハネが、「彼ら自身に」何かそのような力があって癒した、あるいは彼らの信仰深さが、その足の不自由な人を癒したかのように見ていたわけです。そこにはその癒された彼と、ペテロとヨハネしかいないのですから、人々がそう思っても当然のことです。

2.「誰によるものか?」
 ただ注目すべきは、ペテロ自身です。この出来事について普通の人間であれば「自分が直し立たせた」かのように思ってもおかしくないことです。自分が手を取った時にその人が立ったのですから。いや以前までの、弟子の中で「誰が一番偉いか」を論じていた頃の弟子たちのようであれば「自分はこんなすごいことができるんだ」「自分がまさに直した」と自分を誇るようになってもおかしくありません。けれども、ここでペテロは、
「なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたように、私たちを見つめるのですか。」
 とはっきり言っています。つまり「そうではない」という言い方です。彼は「自分に」栄光を帰さないのです。では一体誰がこのことをなしたとペテロは言うのでしょうか。彼はこう続けます。
「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなた方は、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前で、この方を拒みました。その上、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中らよみがえらせました。私たちはこのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなた方が今見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えらえる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全な体にしたのです。」
 ペテロはイエス・キリストを指し示します。この「イエスの名」が、つまりイエスが生きて働いて、その人を強くしたのだと。

3.「イエスによって与えられる信仰が」
 さらにここには「その御名を信じる信仰のゆえに」ともあります。つまりペテロやヨハネの信仰でしょうか、あるいはこの彼の信仰でしょうか。何れにしても、「信仰のゆえ」に、つまり、「イエスが働いてくださる」と信じる信仰のゆえに、そこにイエスは働いてくださったのだとペテロは言っています。けれどもその信仰については、もう一度繰り返されています。これは「信仰」ということについて、とても大事な意味ある言葉です。ペテロは、こう言います。
「イエスによって与えらえる信仰が」
 と。確かに信仰のゆえに、イエスは豊かに働いてくださった。けれども、それは最初に彼が言ったように、「彼の信仰深さ」がそれをしたのではないというのです。「信仰」も、それは「イエスによって与えられた」信仰が、それをしたのだと。つまりどこまでも、信仰も、全てイエスのわざなのだと、ペテロは示していることがわかるのです。
 ここに私たちへの幸いがあります。確かにイエスのいう通りです。神を信じるなら、神がしてくださると信じるなら、神はその信仰のゆえに、それに答えてくださいます。「からし種のほどの信仰」があれば、山をも動かすことができるともイエスは言いました。信仰の力は決して小さくありません。ヤコブ書にもあるように信仰者の祈りには力があるのです。しかし、その「信じる」ということ、信仰さえも、イエスは決して律法、「すべきこと」「しなければいけないこと」とはしていません。ペテロを通してはっきりと「信仰とは何であるのか」がここで書かれています。「イエスによって与えられる信仰が」と。
 みなさん、信仰は私たちの功績ではありません。私たちの意思、決心、私たちの努力、私たちの業でもありません。「信仰は律法ではない」のです。信仰はパウロも言っているよに、それは賜物です。恵みなのです。それはみ言葉を通してイエスが与えてくださるものです。ですから、み言葉に聞く人は、誰にでもイエスは信仰を与えてくださいますし、既に与えられている人も、イエスがみ言葉を通して信仰を強めてくださるのです。信仰はイエスから素晴らしい贈り物なのです。そのようにペテロは、この男の癒しはどこまでもイエスによるものであることを指し示すのです。

4.「変わるのことのない福音とは?」
A, 「約束された救い主、それを十字架につけて殺した」
 第二に教えられることは、ペテロのメッセージはどこまでも一貫しているということです。ペンテコステの日の朝の説教と全く同じです。ただ「イエス・キリストが」とは言いません。彼は、まず13節にあるように、旧約聖書の父祖たちの信仰と神から説明し解き明かします。そのアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イスラエルの父祖たちが信じ、信頼し、その言葉を聞いていたその同じ神が、イエスにこそ栄光を与えたと。旧約聖書の言葉はこのイエスをこそ指し示しているのだと。やはりそのように彼は始めるのです。しかしその神が栄光を与えたイエスこそを、あなた方は、逮捕し、ピラトがイエスは無罪とするのにそれをも拒み、その正しい方、聖なる方ではなく、極悪人の男を釈放するように選んで、そのイスラエルの神が栄光を与えたイエスを、あなた方は殺したのだと。そのように最初の説教と全く同じで、イエス・キリストにあって、人の罪は決して無視できない事実です。ですからペテロは、ただ「イエス・キリスト」ではなく、まさに人の罪によって十字架にかけられて死んだイエス、あなた方が殺した十字架のイエスであることをペテロは強調するのです。そしてその方を神は死からよみがえらせ、私たちはそのことを見たんだ。そのことの証人なんだ。結論も同じです。その変わらないイエスキリストについてのメッセージから、16節の言葉につながっているのですが。このように、私たちが信じるキリストについて、ここは大事な示唆を与えてくれるでしょう。
 イエス・キリストが単に癒し主だけであるなら、その13節から15節までの旧約聖書から十字架までのイエスについての証しは全く必要ありません。ただ「イエス・キリストが癒した」それだけでも十分です。しかし、ペテロは「イエス・キリストは誰であるのか」「救いとは何であるのか」をはっきりと一貫性を持って伝えています。
 それは、旧約聖書で証しされている神であり、まさに待ち望まれて栄光を帰された神であり、しかしそれは十字架のキリストであり、人類がその罪で拒み、十字架につけた神、そしてその死からよみがえった神、それがイエス・キリストであると。
B, 「十字架と復活のイエス」
 このようにペテロの説教には「十字架と復活」がはっきりと示されています。そして「その証人である」と繰り返すのです。ここに私たちクリスチャンの変わらないアイデンティティーがあるでしょう。私たちの救いは、もちろんイエスです。しかしそのイエスは「十字架のイエス」です。私たちの罪のために、十字架にかかって死なれました。私たちの罪を一身に背負って、神の罪に対する怒りであり、裁きであるその十字架の死をイエスが負われました。それは本当は私たちが負わなければならない十字架、私たちが負わなければならない死であり罪の報いです。しかしイエスは、それを私たちに負わせるのではなくて、ご自身が背負われました。しかし、私たちが負うべき十字架の死をイエスがおってくださったからこそ、私たちはもはや追う必要がなくなりました。神はこのイエスの十字架のゆえにこそ、いかなる罪も、それは救い主を十字架につけるような罪さえも赦して下さいます。そのメッセージこそがやはり、ここではっきりと迫ってきていると言えるでしょう。
C, 「罪は拭われる(赦される)」
 だからこそ、ペテロはやはり前回の説教と同じように迫っています。
「そういうわけですから、あなた方の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」19節
 と。このように神はどこまでも皆が、悔い改め、神に立ち返ることを待ち望んでいます。それは罪を責めるためではありません。罪はイエスが十字架でおって死にました。神が望んでいるのは、イエスの十字架のゆえに、全ての人の罪を清めること、赦すこと、拭い去ることなんです。だから、悔い改めなさい。まことの神に立ち返りなさい。ペテロの、そしてこれこそ教会の変わらない福音のメッセージなのです。足の不自由な人が癒されたのも、もちろん彼を癒し彼を喜びで満たすことのためであるのですが、それと同時にイエスのなさる不思議なワザは、そのことを通して人々に、どこまでもこの十字架のイエス、罪の赦しを伝えるためでもあったのです。そのように教会の宣教の中心は、イエスの十字架と罪の赦しの福音であることがこのところが私たちに伝えることだと言えるでしょう。
D, 「今日もイエスのゆえに赦しと平安がある」
 今日も私たちはこのように、ペテロのメッセージ、この御言葉を通して、イエスの十字架が指し示されています。人の罪、私たちの罪がイエスを十字架つけました。イエスは私たちの罪をそのまま受けて十字架を背負い死にました。しかし、その打傷のゆえに、私たちは確かに癒され、彼への懲らしめが、確かに私たちに平安をもたらすのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの十字架のゆえに、罪の赦しという素晴らしい救いを与えられていることを賛美しましょう。そしてこの招きにある通りに、誰でも悔い改めこの十字架のイエスのゆえに罪赦されることを信じ受け入れるなら、罪は全て拭い去られます。安心して神の前に立つことができ、そこに神の国があります。この十字架のゆえに。ぜひ神に立ち返りましょう。

5.「滅びのためではなく祝福のために」
 最後に、ペテロのメッセージの後半部分に少し触れて終わりましょう。前回の説教と違う部分があります。それはイエスが再び来るというメッセージが付け加えられているということです。それは未来に起こることですから、なかなか解釈が難しいところで、教派によって理解や解釈がかなり違って来ることでもあります。回復の時とは何なのか、とか、万物が改まるとか、天に止まるとか、何を意味しているのか、断定はできない部分があります。しかしそのやがて起こる、イエスが再び来られる時まで、しっかりと備えているようにというメッセージが伝わってきます。それもペテロは旧約聖書から語っていますが、22節後半にはありますね。これはモーセを通しての預言で「一人の預言者」というのはイエスのことです。モーセは、そのイエスが「あなた方に語ることはみな聞きなさい」と私たちに伝えているのだと、ペテロは語っています。23節には、聞き従わない時に滅びが待っていることも伝えています。しかし同時にペテロは、24節以下で改て、今度は預言者たちの約束やアブラハムへの言葉も引用して、アブラハムの「子孫によって」「しもべ」を立てて遣わすと言っています。つまりそれもイエスを示しているわけですが、全ての民はイエスを通して祝福されるとペテロは伝えているのです。
 ペテロがここで伝えていたいことが見えてきます。「イエスが語ることを聞きなさい」と勧めています。聞き従わないと滅びしかありません。しかしそのイエスが語りかけるのは、それは滅ぼすためではなく「どこまでも祝福するためである」ということなのです。
 神の御心、その神の思いと計画の実現は、全てイエス様に現されています。これから起こることでわからない事もたくさんありますが、しかしイエスが来られた目的、これから来られる目的もはっきりとしています。それはみ言葉を語るため、福音を私たちに知らせるため、罪の赦しと新しい命を与えるため、そしてそれがどこまでも全ての人を滅ぼすのではなく祝福するためであるのです。イエスはその福音において、すでに私たちの祝福を約束してくださっています。十字架はすでに私たちに神の祝福があることの最大の証しです。それは全ての人に表された神の救いです。誰でも神の前に罪赦されたものとして受け入れられています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とイエスは言ってくださっています。誰でもそのままイエスの言葉を受け入れるだけです。そうすれば安心して行くことができます。ぜひ、イエス様の福音の招きをそのまま受け取りましょう。そして今日も安心してここから遣わされていこうではありませんか。