2017年7月2日


「福音に生かされる歩み」
使徒の働き 2章41〜47節

1.「はじめに」
イエスが約束した「聖霊」を受けたペテロと使徒たちは、聖書を開いてイエス・キリストの十字架と復活を伝えました。それは教会最初の説教であり、福音宣教の第一声でした。その説教を聞いていた人々は、ペテロの「あなたがたが救い主イエスを十字架につけて殺したのだ」という言葉によって心を刺し通されます。そして「どうしたら良いか」とペテロに尋ねました。ペテロは答えます。「悔い改めなさい。罪を赦していただくために、イエス・キリストの洗礼を受けなさい。そうすれば救われます。同じように聖霊を与えられます」と。ペテロはそのように福音によって人々を救いに招きます。そのようにして多くの人が、その言葉を受けれて洗礼を受けます。41節をみると、三千人ほどが弟子に加えられたとあります。47節でも「毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」とあります。キリスト教会の一番最初の説教、福音宣教の最初の説教は、このように大勢の救われる人をもたらしました。それは使徒達の大手柄、ペテロの大成功のように見えるかもしれません。しかしこの出来事は決して「人のわざ」や、手柄、人の思いの成功の話とは違います。それはキリストの御霊による御霊に導かれた出来事でした。そしてキリストの御霊が、み言葉を用い、福音を語り、福音を通して働くことによって、人々を救いに導いている出来事でした。説教と人の救いの全てはイエスご自身のわざに他ならなりません。「主が」毎日、救われる人を仲間に加えてくださったと、書かれている通りです(47節)。そのことが何より伝えられていることであり、ここでもイエス・キリストが私たちに指し示されているのです。

2.「これは果たすべき律法か?」
 ここで、多くの人が興味を持つことです。それはその最初の教会の姿の記述です。まず信者は「一切のものを共有していた」(44節)とあります。「資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた」ともあります(45節)。さらには、
「そして毎日、心一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事を共にし、神を賛美し、全ての民に好意を持たれた。」46?47節
 これは一つの素晴らしい教会の姿です。しかしその土台は変わりません。つまりこれらはどこまでも主が結んだ一つの結果であるということです。つまり人の思いや計画ではない、この時の状況にふさわしい、無駄のない神の御心がここにはあり、どこまでも福音による実ということです。
 確かに聖書には、多くの教会やクリスチャンの理想的に見える姿が書かれています。しかしそれが一つの目標のようになり「果たすべき律法」になってしまうということがあります。「一切を共有しなければいけないんだ」「資産や持ち物を売って分配しなければいけないんだ」と。あるいは「喜びと真心を持って食事を共にし賛美しなければいけないんんだ」さらには「全ての民に好意を持たれなければいけないんだ」と。まさに律法的理解です。しかしその場合、今度は、クリスチャン生活も宣教もすべて方法論になっていきます。つまり私たちが「賛美をするから」「全ての民に好意を持たれるから」同じように成功していくのだと。逆に「足りないから、あるいは、好意を持たれないから成功しないんだ」と。しかしその考えは「神主体」ではなく、「人が主体」の考え方に他なりません。

3.「福音により聖霊が結ぶ実」
 ここを見ていくときに、私たちは確認できるのです。ここで伝えることは「果たすべき律法」でも「崇高な基準」でもなく、どこまで「福音によるものであり、神の御心のままにもたらされた結果」であるということをです。
 まずこの出来事は、ペテロが「聖霊によって」導かれた行った「福音の説教」への「応答」であるという前提がどこまでもあります。その「福音」というのは、罪から、曲がった時代から、イエスが約束した洗礼によってイエスが救ってくださり、イエスが聖霊を与えてくださる。それによって新しく生まれ、新しいいのちが始まるという「約束の言葉」「恵みの言葉」であったでしょう。その「福音」に答えて41節はこう始まっています。
「そこで、彼のことばを受け入れた人々は」
 と。47節に至るまで、加えられた3000人も、日々加えられる仲間も、彼らはその「「福音の言葉」を受け入れた人々」だとわかるのです。このように、彼らの回心も新しい歩みもそれは「福音」によって始まっていることがわかります。「律法」というのは、「私たちがしなければいけないこと」です。しかし「福音」というのはその逆で、「神、イエスが私たちのためにしてくださった、あるいはしてくださる、与えてくださること」です。その「福音」を「受け入れて」人々の行動のすべては始まっているのです。そして「洗礼」を受けたと続いています。「洗礼」については、ペテロは「イエス・キリストの名によってバプテスマ、洗礼を受けなさい」と言っています(38節)。それは「イエスによる、イエスの与える洗礼」という意味であり、それはイエスの救いを与えるためにイエスが用意した恵みを取り次ぐ手段が洗礼式なのです。その「洗礼」を「受けた」のです。そして洗礼についてはこうあります。
「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」38節
 と。ですからその日加えられた3000人の人々は、信じて「福音」を受け入れて、恵みであるイエスの洗礼を受けて、そして「賜物としての聖霊を受けた」人々だということがわかります。「聖霊」については見てきました。それは「助け主」と言われるように、信じて洗礼を受けてなおも不完全で罪深いものを「助ける」ためにいつでも共にいてくださる「イエスの霊である」と。その通りに、それまでは静かに祈って待っていた使徒達、それまで大胆に説教をしたことなどなかった弟子たちが、その聖霊によって導かれ、聖書を開いて説教を始めたのです。聖霊の助け、聖霊の力です。
 これのように、み言葉が伝えるように、42節以下の、教会の行動や使徒達や加えられた3000人のその具体的な姿の、その「動機」や「力」は、全て41節から知ることができます。それは私たちの業や力、律法ではなく、福音によるものであり聖霊によるのです。

4.「日々、福音に聞き受けることによって」
 ですからこう続いてます。
「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り」42節
 とあります。「使徒たちの教え」というのは、聖書を通して指し示されるイエスのことであり、イエスが弟子たちに教えた福音のことに他なりません。ですから「交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」というのも、イエスがかつてされたイエスがするように定められた聖餐のことです。彼らはそのようにみ言葉を共に開いて、イエスの教えを聞くだけでなく、同時に、パンとぶどうを通して、イエスが与えるイエスのからだと血を日々受けていたことがわかるのです。つまりそれは日々、罪の赦しを受けることによっていのちを日々新しくされてその生活があったのです。彼らにとっては福音が何よりの新しいいのちの糧だったわけです。福音によって救われた人々は、福音により生きるのです。そのことは繰り返されます。
「そして、毎日、心を一つにして、宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、全ての民に好意を持たれた。」46節
 この共同生活や、財産の共有は、初代教会でものすごく短い期間、エルサレム教会だけで行われていたと言われています。ですからそれは、あくまでも主がその時、その時の状況や必要を踏まえた、その時だけの聖霊による最善の導き、結果としての出来事なのです。つまりそのことは、同じように現代の私たちにもその時、その時の状況や必要を、聖霊は全てご存知でいてくださり、そのことへの最善を聖霊は私たちにもしてくださるのです。
 むしろ、この46節の言葉から教えられるのは、やはり「福音」こそがクリスチャンを生かすのはもちろん、御霊の御心に従わせ、しかも強いられてではなく、喜びと平安をもって、歩ませ、行わせ、愛させる力、原動力であるということです。なぜなら、まずこの46節には「心を一つにし」とあります。「喜び」と「真心」をもって、とあります。そして「賛美」とあります。皆さん、どうでしょう?考えて見てください。神からにせよ、他人からにせよ、あるいは自分自身に対してにせよ、律法で、つまり強いて強いられて、「心を一つに」することなどできるのでしょうか。同じように、強制や努力で「喜び」「真心」が生まれるのでしょうか。強いられたり、努力で、本当にそれは「賛美」となるのでしょうか。「ならない」と私たちはわかるのです。律法では「心を一つ」にも「喜び」も「真心」も「賛美」も生まれないのです。それらはどのようにして生まれるでしょう。それはイエスの「福音」に安心し、その救い、その愛、その恵みを喜ぶからこそ、自由があり、本当の「喜び」と「真心」が生まれるのではありませんか。そして、律法からは決して生まれない福音からの、本当の喜びと真心、安心と自由があるからこそ、真に心から「心一つに」なり、心からの「賛美」になるでしょう。福音こそが力です。すべてはイエスが福音のみ言葉と御霊によって私たちに結んでくださるのです。ですから、「全ての民に好意を持たれた」のもその聖霊が結んだ、福音の実です。「持たれなければならない」ではないのです。
 これと同じように私たちの日々の歩みも、奉仕も良い行いも、宣教も、そして聖化と呼ばれるものも、それらは、決して律法ではないことがここから教えられます。ある人々は救い、洗礼の日までは、福音で恵みであるけれども、その洗礼が終わった後の、クリスチャン生活や聖化の歩みは、今度は、私たちが努力で達成しなければならない、あるいは半分は神の恵みで、半分は私たちの努力でしなければいけないことと考えることがあるかもしれません。それはまさしく律法による歩みです。それはたとえ「99%は恵みでいいのだけれども残り1%は私たちのわざが必要である」と言ったとして結果は同じです。結局、恵はどこかへ行ってしまいます。しかし聖霊を受けた弟子たちや、加えられた人々もどのように日々を過ごしたでしょうか。律法によってではありません。福音によって歩んだのです。福音によって歩んだからこそ、その時の喜びをもって、聖霊の導きに従えました。福音によって歩んだからこそ、聖霊の溢れるばかりの恵みで「心一つに」導かれました。そして福音によって歩んだからこそ、偽りのない、強いられてでもない、嫌々でもない「喜び」「真心」「賛美」があったのです。それは人のわざでは決してありえない。聖霊のわざ、聖霊の実なのです。

5.「福音は望まない結果になっても強い:十字架の神学者」
 そうであるからこそ、この後の聖霊がなさることにも彼らは耐え忍び、信仰を持って歩んでいくことができることにもなります。共同生活や財産の共有は、短期間、エルサレムで行われた出来事にすぎません。そして3000人加えられたということも、毎日、救われる人を加えてくださったことも、ずっと変わらず続いたわけではありませんでした。ステパノの殉教もありますし、事実9章では、改心する前の迫害者パウロ(サウロ)の迫害によって、多くのクリスチャンが牢に入れられたり、増えたクリスチャンは散らされることになります。エルサレム教会は、散り散りバラバラになり、人数もごく少数になります。そのように「数的な」ことを見るなら、教会は挫折であり危機であり、失敗であり敗北です。しかしどうでしょう。もちろんクリスチャンたちはそこで悲しみ葛藤し、信仰の戦いがあったことでしょう。しかしそこには聖霊なる主、イエスの人の思いをはるかに超えた完全な計画とその実行が確かにありました。その災いを通して、散らされた長老ピリポはエチオピアの宦官にイエスを伝え、そのエチオピアの宦官は洗礼を受けます。そのように散らされた各地で福音宣教が始まっていきます。このように人の側で危機や挫折のように思われることであっても、イエスにとってはそうではないということです。そのように私たちが思い描く理想のようになればそれが祝福ということとは限りません。3000人の洗礼や、毎日加えられることも、もちろん祝福です。しかしそれだけが一つの絶対的な祝福の形というものではありません。それはどのような結果如何に関わらず、イエスがしてくださり導いてくださるからこそ、それは祝福であるということです。ですから散らされたことも艱難であり同時に、それは主の祝福でもあったのです。同じようにたとえ私たちも望まない、期待していないような状況にあっても、それが危機であったとしても、しかしそこにも主イエスの御心は必ずあり、主の祝福は必ずあるということです。イエスの確かに十字架はそのことを何よりも伝えているでしょう。それはイエスの苦しみであり死の十字架です。確かに世にあっては重罪と敗北です。しかし、それが神の御心だったとあります(イザヤ53:10)。それによって私たちは癒され、赦され、救われるとあるでしょう。その通りに、私たちは「十字架によって」救われました。そのイエスの死は、世の光でもあります。そのように世にあっては敗北でも、苦しみと死であっても、そこに神の祝福は確かにあったのです。ですから聖書の通りであるなら、イエスの十字架にあって私たちはすでに祝福されているわけです。そのように、十字架の光に照らされるなら、私たちが何かをするからその先に祝福があるのではありません。すでに祝福されているのです。そしてやはりここでも福音と同じです。すでに祝福されているからこそ、喜んでしていくことができるのです。福音を知ること、福音に生かされることは、この方向転換を私たちにもたらします。律法によってではなく福音によって。「私たちが何かをするからこうなる」ではなく「イエスがしてくださったから、だからする」です。そこに本当の喜び、平安、自由な行いがあります。心からの賛美、そして心からの一致が生まれるのです。私たちも日々、困難があるからこそ、福音に、日々、罪の世にあるからこそ、なおさら、イエスがしてくださったことに日々、立ち返りましょう。十字架に立ち返りましょう。共に恵みの聖餐に与りましょう。そして福音に生かされて今週も歩んでいこうではありませんか。