2017年6月11日


「聖霊はみ言葉を通して」
使徒の働き 2章5〜36節

1.「はじめに」
 ペンテコステの日の朝、イエスが約束された通りに、聖霊が与えられました。それは弟子たちの言葉では言い尽くせない驚くべき出来事であったのですが、それは天からの神の力の現れであり、聖霊は神様から贈り物でした。そしてその聖霊を受けることによって宣教は開始されていきます。その最初に、使徒たちは、皆、聖霊に満たされて、聖霊に導かれるままに、あらゆる国の言葉で話し出したというのが前回のところでした。

2.「神殿にて」
 使徒たちはここで神殿に場所を移動し、神殿で同じようにその異国の言葉で語り続けたと言われています。その騒がしさが周辺の人々に響き渡り、6節にあるように、人々がこの使徒たちのいる神殿に集まってきたのでした。そこで人々は使徒たち、弟子たちが、様々な国々の言葉で話しているのを目にするのです。しかし人々はそれを見てですが、まず「驚き」「呆れ」ています(6節)。「驚き怪しんだ」ともあります(7節)。「驚き惑って」ともあります(12節)。その反応は当然でしょう。なぜならその光景は、彼らにとっては非日常、あり得ない、信じられない出来事だったからです。その理由もあります。「この人たちは皆ガリラヤの人ではないか」と(7節)。ガリラヤ地方は地方であり田舎です。この言葉には差別や蔑みが含まれているとも言われます。イエスが育ったのもナザレというガリラヤの小さな村ですが、聖書には人々の「ナザレから何の良いものが出ようか」という言葉もありますし、「まさかキリストはガリラヤから出ないだろう」という言葉もあります。このところも、ただの田舎のガリラヤ人たちから宗教指導者が、説教者が、しかも何ヶ国語も話すような人が出るはずがない、そのように、彼らの常識や先入観ではあり得ないことであったようなのです。その国々の名前も9節以下には、書かれています。それは当時の世界であったローマ中心の広い世界を指していて、西アジア、アラブから、トルコ、ギリシャ、イタリア、さらには北アフリカに至るまでの広い地域にある国々のその言葉であったことがわかります。その国の言葉を、ガリラヤ人たちが話している。しかも神殿で、神の大きなみわざを語っているのです(12節)。あまりにも信じられない行動ゆえに、ある人々は、彼れらは酒に酔っているだけだと言ったのでした(13節)。

3.「信じがたい光景だからこそ」
 しかし、そのように人には、信じがたい光景であり、使徒たち自身ではできない行動やわざであるからこそ、4節の「御霊に満たされ、御霊が話させてくださるままに」という言葉の意味と重要性がわかってくるのです。まさしく、それはこの言葉の通り、聖霊が働いているからこその出来事であり、つまり、それは聖霊なる神、つまり「イエスご自身が」働いている行動であるということなのです。この神殿で語るただのガリラヤ人は、誰かを思い出します。イエスです。イエスの場合も、ガリラヤのナザレ出身の大工の子が神殿で教えるなど、それまではなかったことでした。しかしイエスはエルサレムでは、幼い時から神殿で、聖書を教えていました。律法の教師たちは皆、驚きました。そしてイエスがただのガリラヤ人で、ナザレ人で、大工の息子に過ぎないのに、神殿で権威あるもののように教えていて、しかもその教えが、素晴らしい福音の教えであったからこそ、そのようなことはありえないとつまずいた人もいました。パリサイ派や律法学者たちのある者たちは、妬みを覚えました。この神殿で語り出す弟子たちの姿は、イエスの姿に重なるわけです。弟子たちにとってもそれまでの弟子たちにはありえないことでした。しかしこれは全て、聖霊に満たされ、聖霊が導き、聖霊が話させているわざであるからこそです。

4.「聖霊が働いている証しとしての弟子たちの変化」
 そして、そのようなネガティブな反応が多い中にあって、使徒たちはどうでしょうか。ここでも以前と違う、重要な変化があるでしょう。
「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にははっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。」14節
 どのような変化があるでしょうか。周りの驚き、呆れ、怪しみ、戸惑い、「酔っ払っているんだ」という中傷、そんな人々に囲まれて、彼らは、逃げていません。イエスが逮捕され逃げた使徒たち、「イエスの仲間では」と言われて、必死で否定したペテロ。十字架の後、人々を恐れて家に閉じこもっていた弟子たちです。しかしどうでしょう。ここでは、彼らは逃げずに実に大胆に堂々と「知っていただきたい。私のことばに耳を貸していただきたい」と語り出すのです。その変化も聖霊のゆえです。

5.「聖霊は説教を通して」
 しかし、ここから最も大事な核心とも言えることを見ることができます。それはその聖霊の働きはどのようになされていくでしょうか。つまり、聖霊は何を通して働いているでしょう。そのことがこの後からはっきりとわかってくるのです。この14節からは、教会が誕生して、最初の公の説教であり、つまり、御霊は説教を通して語られるということを伝えているということなのですが、ではその説教とは何なのかということが、ここに見ることができるのです。そのペテロの説教の特徴に注目して欲しいのです。
A, 「説教は聖霊の働き」
 まず第一の点です。それは今まで見てきた通りです。説教は、聖霊に導かれ、聖霊の働きによるものだということです。ですから、説教はもちろん牧師を通して語られますし、それは牧師が意識を失って自動的にロボットのように語るのではなく、牧師の性格や信仰、知識や理解、何よりその聖書研究や教理の知識を生かして語るのですが、それでも牧師が説教の主体ではなく牧師は用いられる道具にすぎません。なぜならそこに働いているのは聖霊であり、つまり人を用いて主イエスが語っているのが説教なのです。
B, 「説教がイエスからのメッセージであるために」
 しかし第二に、それが成り立つために、つまり「説教が神であるイエス様の説教である」ために絶対になくてはならないもの、そして聖霊が働くためにとても欠かすことのできない大事なものがあるでしょう。それは聖書の神のみことばに他なりません。このところで、ペテロが聖霊に満たされ導かれ、彼は初めて神殿で説教を始めます。その時、それまでの使徒たちにはなかったことが始まっているでしょう。それは、ペテロは聖書、つまり当時の聖書は、律法の書、預言の書、歴史書、詩篇であったのですが、その聖書の言葉を開いて「聖書にはこう書いてある」と語って伝えているのです。16節以下では、旧約聖書のヨエル書を開いています。そして、ヨエル書にある神の言葉、神のメッセージを解き明かしています。しかも一度ではありません。繰り返しです。25節以下でも、詩篇のことばを引用しています。そして34節以下でも、詩篇を引用し、聖書を解き明かして、メッセージを語っているのがわかるのではないでしょうか。これが説教の最初でした。
 説教は神からのメッセージです。そこには聖霊が豊かに働いていて与えられますが、それが「神のことば」「神からのメッセージ」であるのは、聖霊が「直接」人に語るのではありません。初めの教会、初めの説教から、聖霊は、聖書の言葉を用いて、聖書を開かせて、聖書を通して「神はこう言っています」「聖書はこう書いています」と、人々に語ったことがわかるのです。説教はその時から決して変わりません。聖霊が聖書を用いて、そして説教者を用い、神の言葉を解き明かしてくださる時なのです。ですから、どんなに面白くても、どんなに人生の啓発や優れて道徳的な教訓に満ちていても、そこに聖書が開かれることも、聖書の言葉もなく、さらに言えば、律法と福音の言葉、聖書の言葉の正しい解釈と教えと解き明かしが「ないなら」、それは神のメッセージではありえません。それは「その人のいい話」にすぎないのです。説教、礼拝、教会は、み言葉が中心でありそこに聖霊は豊かに働くのです。
C, 「説教のその内容:何を指し示すか」
 さらにこのところには、その神の言葉、メッセージの内容が何であるのかもはっきりと書かれています。ヨエル書の言葉の引用の後、そのヨエルの預言は誰を指し示していたとペテロは語っているでしょうか。
「イスラエルの人たち。この言葉を聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなた方の間で力ある不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなた方に、このかたの証しをされたのです。」22節
 と。ペテロは、イエスを指し示しているのがわかるでしょう。神は預言者の口を通して、イエスのことを伝え約束していたのだと。それでは詩篇の引用の後はどうでしょう。25?28節まで詩篇の引用がありますが、その後で29節からペテロはこう言っています。
「兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなた方に、確信を持って言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫の一人を彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなた方が見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
 詩篇はダビデを示しているのではありません。ダビデは私たちと同じように死んで葬られました。彼は復活しませんでした。彼は神ではなく人でした。しかし、彼は預言者であり、彼は誰を待ち望み、誰を指し示していたとあるでしょうか。それは神が約束したまことの王、イエスであることをペテロは伝えています。しかもペテロは詩篇、ダビデは、そのイエスの復活までも約束していたとも言っています。34節以下の詩篇の引用も同じです。そのときダビデは預言者として、父なる神が、ダビデではなく、ダビデの主である御子キリストに「わたしの右の座についていなさ」と言っているのを聞いたと記していることを言っています。やはりペテロは旧約聖書の言葉を引用して、これはイエス・キリストを指し示しているのだと言っていることが解るのです。
 このように聖書、それは新約聖書だけではなく、旧約聖書も、それはイエス・キリストを私たちに指し示しています。預言者バプテスマのヨハネも、イエスを指し示して言いました。「見よ。世の罪を取り除く、神の子羊」と。このように預言者、説教者、教会、そしてキリスト者が、何を指し示すかがここにははっきりと伝えられています。それは、イエス・キリストです。そのことは最初の説教から変わることがありません。いやそれがメッセージの中心であったのです。その中心が、私たちが正しく聖書を理解し、解釈するための鍵になるでしょう。
D, 「イエス・キリストの何を伝えるか」
 そして「イエス・キリストの何を」でしょうか。そのことも書いてあります。先ほどの29節以下のペテロの解き明かしにもありました。それはイエス・キリストの復活です。つまり復活ということは十字架でもあるということです。ヨエル書の引用でもペテロははっきりと十字架を示しています。23節以下でこう続けていたでしょう。
「あなた方は、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」
 はっきりとペテロはイエスの十字架と復活を指し示しています。36節でも言っています。
「ですからイスラエルのすべての人々はこのことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、今や主ともキリストともされたこのイエスをあなた方は十字架につけたのです。」
 やはり十字架を指し示すのです。このペテロの説教、教会の最初の説教であり、使徒たちによる宣教の一番最初の説教から、説教とは何かが教えられるのです。それは御霊の働き、神からのメッセージです。それは聖書のみ言葉からのみ言葉の解き明かしです。そして、それはイエス・キリストのその十字架と復活を伝えるものなのです。イエスの十字架と復活こそ、御霊なるイエスがみ言葉を通して、私たちに与えてくださっている福音のメッセージに他なりません。それ以外のものが福音になることは決してありません。パウロは、それ以外のもの、福音が捻じ曲げられ、律法が福音として教会や説教に入り込んできたなら、そのような説教者は天の御使であろうと、呪われよと、厳しい言葉をガラテヤの教会に書き送っています。それぐらいに私たちにとって大事な一点、核心部分なのです。32節では、私たちはそのこと、「イエスの十字架と復活の証人である」ともあります。「十字架と復活の証人」であるということは、私たちが罪の赦しこそを福音として与えられて、私たちは罪赦されたからこそ、神の前に正しいものとされ新しく生かされていくということです。つまりそれは私たち自身の罪ということを決して避けて通ることができないということでもあります。しかしその私たちの罪のために死なれた十字架のイエスこそが、教会が語り続けてきている真の福音であり、この教会最初の説教、福音宣教の一番最初の説教の核心、光、ともしび、いのちであることがわかるのではないでしょうか。その福音が今日も私たちに与えられています。この十字架のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。

6.「おわりに」
 私たちが聖書の言葉に照らされ、自分のそのままを見るなら、どこまでも神の前に罪深い姿だけが見えてくるものです。しかしそこに神はみ言葉を通して、今日もイエスの十字架と復活を救いとして示してくだささり、私たちに平安と慰めと希望を、自由を、喜びを与えてくださいます。その福音による平安、自由、喜びに満たされて、今日もここから遣わされ、世にあって隣人を愛し、隣人にその素晴らしさを証していきましょう。