2017年6月4日


「御霊によって生まれるもの」
使徒の働き 2章1〜4節

1.「はじめに」
 1章では主語が「イエスは」と始まっていることの意味をまず見てきました。それは使徒たち、教会の歩みの、本当に主体となって働いてくださるのは、イエスであるということが意味されていました。その通りにイエスは使徒たちに言葉を残すのです。「今こそ」「自分たちが」と意気揚々の使徒たちに対して、イエスは「約束の聖霊が与えられます。それまでは、エルサレムにとどまって、その約束のものが与えられるのを待ちなさい」というのです。使徒たちはその通りにエルサレムにとどまって約束を待ち祈りました。そしてそれまでの使徒たちにはなかったこととして、彼らは、全てのことを聖書を開き、神のみことばに聞いて待ち望んでいたのでした。そのように教会と宣教の土台、柱、原動力、行動の動機、そして主役は、使徒たちというよりは、すべてイエス・キリスト、そしてそのみことばと聖霊であるのだという大前提で使徒の働きは始まっていたのでした。今日のところでは、そのようにイエス様の言われた通りに、約束を待っていた使徒たち、弟子たちに約束のものが与えられるのです。

2.「みなが一つ所に集まっていた」
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」
 「五旬節」というのは「五旬祭」というユダヤ教の一つの祭りを指します。「ペンテコステ」とも呼ばれます。その日の朝に何が起こったのか、ということが大切なテーマになるのですが、その前にこの1節にもう一つの大切とことを見ることができます。
「みなが一つ所に集まっていた。」
 と。それは一つ所に集まって、彼らは聖書を開いて、みことばに聞き、そして、心一つにして祈っていたことを意味しています。つまり彼らはイエスの言葉をこの日の朝も、忠実に守っていたのです。つまり彼らはこの日の朝も約束のものを「待ち望んでいた」のでした。まずそのことがわかります。そしてそれはその日に限って行われていたことではありません。1章の14節にもありましたように、彼らにとってはそれは日常の出来事でした。そして「待ち望んでいた」という時に、それは彼らは、それがいつであるとは知らないで「待って」いたということです。なぜならイエスはこう言っていました。
「イエスは言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなた方は知らなくても良いのです。それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。」1章7節
 その通りに使徒たちは確かに約束のものを受けると約束され、それを日々待ち望んでいましたが、彼らはそれがいつとかどんな時とか全くわからなかったということです。つまり、直ぐであるかもしれないし、何十年も後であることも有りえます。しかし弟子達の側では全くわかりません。しかしそれでも待っていた。それでも彼らはイエスの約束に信仰と希望をもってこの日の朝も一つ所に集まり聖書に聞き祈っていたということなのです。そんな中で、その約束は突然、訪れるのです。

3.「天から」
「すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような別れた舌が現れて、一人一人の上にとどまった。」2節
 「炎のような別れた舌」とありますが、一体何のことでしょう。4節を見るとわかるように、この出来事はイエスが約束した聖霊が与えられた出来事なのですが、その聖霊が降る様子は、人間の言葉では描写しつくせない出来事であることを物語っているのが「炎のような別れた舌」という言葉にはあります。人には説明し尽くせないのだけれども、しかし事実、その何かそのようなものが一人一人の上にとどまったのです。
 「「激しい風」が吹いてくるような響き」という言葉もそうです。「風」はイエスが聖霊について語った言葉を思い起こさせてくれます。ヨハネによる福音書3章のニコデモの場面ですが、イエスはニコデモに「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなかれば、神の国を見ることはできません」と言った、あの場面です。その「新しく生まれる」ということは「救い」のことを指していて、イエスは「人は誰でも洗礼を受ける時に聖霊によって新しく生まれることができる」ということを伝えていたのですが、そこでイエスはこう言っています。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者はみな、その通りです。」ヨハネ3:8
 まさにその突然の激しい「風」のような響きとともに聖霊はくだって来たのです。しかしこのイエスの言葉にもあるように、人の側では「それはどこから来て、どこへ行くのかは知らない」のです。この日の朝も、まさに突然、これは起こります。いつとかどんな時とかは誰も知りませんでした。そして、起こったことや見たこと聞いたことを描写しても、「ような」としか言えません。つまり描写し尽くせない。言い尽くすことができないのです。しかし、このことの全てが物語っているのです。この日の朝の出来事は、すべて「天から」「神から」のものであると。ここに「天から」とはっきりあります。つまりこのペンテコステの日の出来事は、確かに、父が約束したことを、神がなさった、神が与ええてくれた、しかも人の思いや言葉では計り知れない、言い尽くせない素晴らしいものを。それは神から、天から、使徒たちへ、私たちへの恵みであるということがわかるのです。そしてこの恵みを受けてこそ、この約束の聖霊、恵みの聖霊によってこそ、教会も宣教も始まって行くのです。

4.「恵みである救いと聖霊」
 ここに幸いがあります。まず第一に「聖霊」は、イエスが与えると言われた約束です。そしてそれは「救い」ということ、つまり誰でも「新しく生まれ、私しく生きる」ために与えられるものだとイエスは言いました。しかしその「救い」も「聖霊」も、それは何かをするから、何か条件をクリアするから、あるいは何か社会的に立派な功績を残したとか、それを受けるに相応しい立派なものとして社会や教会が認めるから与えられるとは、聖書もイエスも決して伝えていません。それは福音書で見てきた通りです。イエスは、立派でも社会から認められたでもない、むしろ社会から疎外され、忌み嫌われていた罪人たちをどうしたでしょうか?イエスは彼らをそのまま受け入れ、一緒に食事をして、神の国、救いを語ったことが伝えられていました。あるいは、二人の人の祈りを例にイエスは伝えています。一人は社会的に立派な人。彼は自分は聖書の戒めを全て守り、社会貢献し、社会からも尊敬され、「隣にいる罪人のようではないことを感謝します」という祈りをしました。しかしもう一人は罪人です。その罪人は、顔を天にあげることもできないで、ただ自分の胸を叩いて、自分の罪を悔いて「神様、憐れんでください」というだけでした。イエスは、その二人のどちらの祈りが神の前で正しいと認められて帰ったと言ったでしょうか。イエスはその罪人の祈りの方だと言ったのでした。つまり神は、自分はこんなにも正しいと自分を着飾って見せる人よりも、自分の弱さ、汚さ、不完全さ、罪深さ、まさにそのような汚い自分こそ、自分のありのままなのですが、罪深い自分自身を神の前にそのまま認め、告白し、そのままで神にすがるもの、憐れみを求める者を、神はそのまま受け入れてくださることを聖書は繰り返し伝えているのです。
 イエスが与えると言われた約束はそこに一貫しています。聖霊の約束は「何をするから、何ができるから」は関係ありません。誰でもそのままの自分を認め、何ができなくても、いや何をする必要もありません。ただ、そのままでイエスに来て、イエスが与える救いの洗礼、いのちの洗礼を受けるものは誰でも、イエスは新しく生まれさせてくださいます。そのようにして誰でもイエスにあるなら新しく生まれることができます。そのための約束の聖霊であり、それは誰にでも与えられるものなのです。
 その通りに使徒たちは受けたのです。与えられたのです。そしてその通りにクリスチャンは、洗礼を受けた時に「自分も聖霊を与えられた」と証しできるでしょう。私たちは何か特別なことをしたから、何か立派だったから、何か私たちの功績があったから私たちの洗礼はあったでしょうか。聖霊は私たちに与えられたのでしょうか。そうではないでしょう。全くの恵みであることこそ、クリスチャンはみな証しできます。まさに罪人の祈りのように、「神様、憐れんでください」としか言えなかった私たちに、イエスの方から来てくださり、そして、まず私たちが愛したからではなく、イエスが私たちを愛してくださったからこそ、今があると私たちの証しがあるのではないでしょうか。
 イエスの約束は、すべての人に語られています。私たち一人一人にです。そしてそれはどんな自分であろとも、何ができなくても、どんなに自分の罪深さや弱さに打ちひしがれていたとしても、イエスはそんな人にこそ来られ、神の国を、救いを開かれたのですから、そのままでイエスを、イエスの言葉を、約束を受け入れるときに、救いも聖霊もすべての人に必ず与えられるのです。全くの恵みとして、天からの贈り物としてです。私たちが全く新しく生まれるためにです。幸いな約束ではありませんか。

5.「御霊が話させてくださる通り」
 そして4節では、さらにこのように続いています。
「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる通りに、他国の言葉で話し出した。」
 「みなが?他国の言葉で話し出した。」ーこれも実に不思議な出来事です。彼ら使徒たちの多くは他国の言葉を学んだことがない人々です。3年前までは漁師だった人が何人もいます。マタイという弟子は罪人と呼ばれ嫌われていた取税人でした。当時の公用語であったギリシャ語を喋れる人は一人や二人はいたでしょう。しかし5節以下では、あらゆる国から来ている人々のその言葉を話していたことがわかるのです。ヘブル語やアラム語、あるいはギリシャ語だけではなく、この五旬節の日に、世界各国から集まっていたその国の言葉を使徒たちは語り出したというのです。実に不思議ですし、考えられない、信じがたいことです。けれどもその出来事は彼ら自身の能力とかではないことが書かれています。
「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる通りに」
 と。その不思議な出来事、ありえない、彼らにはできない出来事、それらは御霊、聖霊の働きだった、御霊が話させてくださる通りのことだったのだと伝えています。
 この出来事は、世界への宣教を示唆しているとも言われます。もちろんそのように福音は世界に広がっていくわけですから、そのことの一つの雛形となり先駆けとなる出来事ではあるでしょう。けれどもその前提となる大事なことは、誰でもこの約束のものを受けて始まるその新しい命の歩みは、このように聖霊が働いてくださり、聖霊が導いてくださるのだということに他なりません。この言葉は、クリスチャンになること、洗礼を受けることは、何も恐れる必要はないということを伝えています。つまり「何かとんでもない重荷を課せられるのでは、何か自分で定めた目標を自分で達成していなかければならないのでは、あるいは、何か自分で聖さを達成していかなければならないのでは」とか、そんな恐れや心配を抱く必要はないのです。なぜならこのみ言葉の通りです。聖霊がみことば、約束をもって導いてくださるからです。皆さんが洗礼を受けて、聖霊は必ず与えられます。しかしそれでも私たち自身は何も変わらない、それまでの自分の体と心です。弱いままでもあるし、不完全のままです。罪も何度も繰り返してしまうものです。十戒の第一の戒めは、他のものを神としてはならないであり、それは心を尽くし、精神を尽くし、神を愛しなさいです。しかし、クリスチャンになっても「本当に自分は、完全に心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、神を100%愛しています」と言える人は誰もいません。みな第一の戒めにさえ不完全さを覚えるのが当然なのです。しかし新しく生まれるというのは、イエスの新しいいのちと聖霊が私たちに与えられるからであり、聖霊によりイエスのいのちが不完全で罪深い私たちに生きていて、常にそのいのちを燃やしてくださるからです。私たちが聖くなったのではなく、イエスが聖いのであり、イエスのゆえに私たちは聖いのです。それが聖霊が与えらえることの示すことに他なりません。聖霊は、むしろ弱い不完全な私たちを絶えず助けてくださる助け主なのです。そしてそればかりではない、私たちにはできないことも、聖霊は私たちにさせることができる力もあるのだということをこのところは伝えているでしょう。証しすることは難しいことだと誰もが思います。しかしこのところと同じように、祈りつつ待ち望む時に、いつとかどんな時とかわからなくても、イエスはイエス様の時に、そのことを私たちにさせることがありうるのです。確かに「キリストの証人」とイエスは言いました。しかしもし「証し」が自分でしようと思って「できる」ということであるなら、人のわざとなり、今日のところともこれまでとも全く、矛盾するでしょう。ですから「証し」は自分でしようとして「できる」ことというよりは、今日のところが示す通り、聖霊、御霊の働きなのですから、それは「風がどこからきてどこへ行くかわからない」ように、神が必要な時、神の時に、私たちを用いてくださる素晴らしい恵みのわざと言えるのです。そうであるなら、キリストの証人であることは平安であり、自由であり、イエスにある希望はいつでも満ちているのです。

6.「むすび」
 イエス様の約束の通り、聖霊が与えられた素晴らしさを喜びましょう。そして、イエス様が約束された通りに、救いは全ての人に与えられています。聖霊はその救いを生き生きとしたものとして、そして最後まで完成させるために、洗礼を受けるときに全ての人に与えられます。全くの恵みとして。