2017年5月28日


「父の約束を待ちなさい」
使徒の働き 1章1〜26節

1.「はじめに」
 「使徒の働き」はルカによって書かれているもので、ルカによる福音書の続きです。それは聖霊を受けることによって、教会が始まりイエスの弟子たちが宣教を開始していく、その記録です。その名の通り、使徒たちのあゆみ、そして初代教会がどのように歩んでいったのかを記録しているのですが、しかし「使徒」とあっても、この記録の終わりまでの一貫する「大事な土台」「中心となる土台」がこの書にはあります。それは、イエス・キリストの約束と、その「聖霊」です。そのことがこの1章にはよく表れています。

2.「この全記録の主語は」
 ルカによる福音書も「テオピロ」に宛てられていました。ここで再び「テオピロ」に宛てられています。そしてルカの福音書では、その終わりで、聖霊の約束とイエスが天に挙げられていくことまで記していたので、2節ではその続きを書き記すということが示されています。しかしルカの福音書のその最後の「イエスが天に挙げられていく」ところは、「離れていって」としか書いておらず詳しくは書かれていません。ルカはそのところを詳しく説明するところから始めます。しかしその書き出し3節でこう始めます。
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」3節
 使徒の働きの28章に至るまでの記録はこの言葉から始まって行きます。大事な点ですが、この「最初の書き出し」のその「主語」がわかるでしょうか。「使徒は」でもなく「教会は」でもありません。「イエスは」です。このすべての始めの主語を「イエスは」とルカが初めているのは決して無意識や偶然ではありません。使徒の働きの主語、主体、真の行為者であり原因はイエス・キリストであると、その中心を意識的にはっきりとしているのがこの言葉です。そしてそのイエスが成したことは何でしょう。それはここにある通り「十字架と復活」です。つまりこのところが伝えることは、使徒の働きの主語、主体、主役は、イエス・キリストであり、使徒たちが行動していくその原因も動機も力も源もそれはイエス・キリストの「十字架と復活」であるのです。これはこの使徒の働きを見ていくための大事な土台になります。
 ルカの福音書で見てきましたように、使徒たちや弟子たちは、イエスが復活すると言われたことを全く忘れており、その復活の知らせがあっても、イエスが自らの姿を現されても、全く信じることができませんでしたが、イエスのほうから現れ目を開いてくださりみ言葉を悟らせてくださったとありました。しかしそれは一度二度だけでなく、この3節では、イエス様は40日の間、何度も現れてくださったことがわかります。それは「神の国のことを語り」つまりみ言葉と、そして数多くの確かな証拠を持ってご自分が生きていることを示されるためとあります。このところは感謝です。イエスは本当に何度でも何度でも繰り返し、弟子たちが信じるように、確信を持てるように、喜びで満たされるように働いてくださっていたことがわかります。つまりイエスは恵みをたった一度だけ与えて「後はあなたで」と放り出されるのでは決してありません。恵みの手と働きは「いつでも、いつまでも」なのです。

3.「父の約束を待ちなさい」
 しかし続けて見ていくと、確かにイエスが天に昇る時が来ます。ところがその時のイエス様の言葉は単なる別れでもなければ、決して、弟子たちや使徒たちを無責任に放り出す言葉ではないことがわかるように思うのです。まず4節からこうあります。
「彼らと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いて父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなた方は聖霊のバプテスマを受けるからです。」
 おそらく使徒たちは「喜び」に溢れていたでしょう。そして今すぐにでも「伝えたい」と意気込んでいたかもしれません。彼らには「勢い」「元気」があったことでしょう。ですから弟子たちは6節にある通りに、「今こそ、イスラエルの再興の時ですか」とばかりに、イエスに問いかけているのがわかります。けれどもイエスの言葉はどうでしょうか。そのような「積極性」「勢い」「元気」「今こそ」の出て行こうという思いや意気込みに対して、イエスは「さあ、エルサレムから出て行って」ではなく、「エルサレムを離れないで」であり、「待ちなさい」なのです。ルカのところでもそうでした。24章49節で
「あなた方は、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」
 であったでしょう。イエスは確かにルカの24章の47節でこう言っています。「十字架と復活の福音は「エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」」と。それはエルサレムから世界に出ていくことを確かに示しているのです。しかしここではエルサレムに「とどまりなさい」「離れないで」いなさい、「待ちなさい」と言っているのです。みなさん。イエスは矛盾することを言っているのでしょうか?そうではないのです。
A, 「なぜ待つのか」
 なぜ待つのでしょう?それは「父の約束を待ちなさい」とあります。ルカの福音書でも「父の約束してくださったものをあなた方に送ります。あなた方はいと高きところから力を着せられるまでは」とあるでしょう。そしてこのところでは、それは「聖霊だ」とはっきりと言っています。つまり、父が約束してくださった聖霊が与えられるのだから、その聖霊が来るまでは「待っていなさい」「とどまっていなさい」とイエスは言っているのです。それにはどのような意図があるでしょうか。こう続いています。使徒たちは、その言葉の意味がわからず、6節、彼らは今こそエルサレムの再興の時かと「勢い」づきます。しかしそれに対してイエスはこんなことをいうのです。
「イエスは言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなた方は知らなくても良いのです。それは父が自分の権威を持ってお定めになっています。」7節
 その「勢い」を諌めます。そして「神の国」は「あなた方が」ではなく「父なる神の権威と定め」にこそあることをイエスは言っています。そして8節にこう続いています。
 「しかし、聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 ここで宣教を示唆しています。「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と。使徒たちが証人となっていく、まさにここから派遣され、出ていく、宣教です。しかしイエスはそれは、「聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして」と言っているでしょう。これはルカの福音書の方の、「父の約束してくださったものをあなた方に送ります。あなた方はいと高きところから力を着せられるまでは」と一致しています。ですから「それまでは」、「待っていなさい」「とどまっていなさい」なのです。
B, 「それは主の働き:誰の働き?教会、宣教とは?律法か福音か?」
 このことは初めが「イエス・キリストは」で始まっていることにも重なります。さらにこのところでは三位一体の神を見ることができます。「私たちが主体、出発点」ではなく、イエス・キリストが主語、主体であり、十字架と復活がすべての中心、出発点だと見てきました。そして「私たちの権威」ではなく「父なる神の権威、定め、計画」であり、父なる神の「約束」「み言葉」でした。そして「私たちの力」ではなく、「聖霊」が与えられ、「聖霊」により神の力が与えられる。それによって「エルサレムからの宣教」は始まっていくのだと。だからこそ「それまで」「受けるまで」は、「とどまっていなさい」「待ちなさい」と。
 ここに使徒の働きとは「誰の働き」であるのか。その土台、柱、一貫する原則は何であるのか。そして教会とは、宣教とは何であるのか。誰のわざであるのか。それは律法によるのか、福音によるのか。そのことがわかるのです。教会も宣教も決して律法で始まっていません。使徒たちの「勢い」「元気」「力」「積極性」でもありません。「使徒たちが」と彼らが主語、主体ではありませんでした。彼らの「勢い」「元気」「今こそ」に対してイエスはむしろ「待ちなさい」でした。父なる神のみ言葉、御心、権威を待ちなさい。そして聖霊を待ちなさい。聖霊から力を受けるのを待ちなさい、であったでしょう。
 このように聖書から「教会とは」、「宣教とは」の答えはすでにはっきりとしています。それは律法ではありません。福音です。福音とは「神が何をなさったか、何をなさるか」です。つまり、イエス・キリストの恵み、イエスがなさったこと、十字架と復活、父なる神のことば、愛、計画、そして、それの愛と恵み、み言葉を実現する聖霊の力によってこそ、教会は始まる、宣教は始まる、証し人は、エルサレムを出ていくのです。
 世の人は確かに「元気」とか「勢い」とか「根性」、あるいは「感情」とか「直感」とかで行動したり判断しやすいです。それを動機にしてしまう時もあるものです。もちろんそれでうまくいく時もあります。成功する時もあるでしょう。世にあってはその方が成功することが多いのかもしれません。けれどもイエスの教会とその働きがそれではうまくありません。聖書的ではありません。イエスはどこまでも「み言葉の約束と聖霊を待ちなさい」なのです。そして、もちろん出ていくのですが、それは、その約束のもの、みことばと聖霊と、その与えられる力を受けるときに「証人になっていく」なのです。
C、「礼拝はその恵みを受けるとき」
 ですから今のこの礼拝の時はその幸いな恵みです。礼拝は神が備え、神がみ言葉を与え、神が私たちに仕えてくださる時(Gottesdienst)、神がみ言葉を持って派遣してくださる時だからです。私たちには確かに洗礼によって聖霊が与えられています。しかし私たち自身はなおも罪深く弱い存在です。私たちは自分たちの力や勢いでは神の国を建て上げることなどできません。私たちはなおも罪人でしかないのですから。事実私たちが日々、気付かされるのは自分の罪汚れではありませんか。それは誰もが直面している現実です。しかしイエスはそんな私たちに自らの力や勢いや元気や根性で、自分たちで教会を建て上げなさい、神の国を完成させなさいとは言っていないのです。いつでも「み言葉を待ちなさい、受けなさい、聖霊の力を待ち望みなさい、受けなさい」なのです。そして受けることによって「出て行きなさい」なのです。ですから今の礼拝の時は、そんな罪深い私たちになおもみ言葉を語ってくださり、そこに聖霊が働いて「私たちにあなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と私たちを慰め、安心させ、力を与え派遣する、まさに約束のものを与え、それを受けている大事な時であるでしょう。だからこそ礼拝は素晴らしい恵みの時であり、私たちにとって大切な時なのです。ぜひ私たちも待ち望み、受け、そして今日も平安のうちに、ここから出て行きたいのです。

4.「み言葉と聖霊、そして信仰の時代:約束を前に見て」
 この後、イエスは天に昇って行きます。復活の体のイエスには会うことができません。しかしこれからはまさに信仰の時代の始まりなのです・これまでは見えるイエスが導いていました。しかし使徒たちにとってこれからは、まさに父なる神の約束してくださったものを前にして、それをまっすぐと見て、つまりイエス・キリストと十字架、み言葉と聖霊を前に見て待ち望み、「受けて遣わされる歩み」に入っていくことになるのです。聖霊はそのために決して欠くことのできないものなのです。しかしそれがあるなら、何にも勝る、神の言葉と宣教を実現していく神の力が神の御心のままに働いていくということでもあるでしょう。感謝な約束ではありませんか。
A, 「帰り、とどまり、祈る」
 使徒たちは、この後どうするでしょう。12節、彼らはイエス様が言った通りに、エルサレムに帰ります。待ちます。そして、14節、そこで皆で心合わせて、祈りに専念します。「祈り」は待ち望むときの助けになります。主を待っている、待ち望むということは、それは決して簡単なことではありません。何よりも信仰がなければできないことでしょう。しかし祈りはその時の何よりの福音の力、助けです。なぜなら祈る時、イエス様は聞いているし、イエスが必ず御心のままに答えてくださるからです。使徒たちだけではありません。他の弟子たち、女性たちも、皆一緒に祈っていました。信仰者の祈りには力があると、ヤコブは書いています。ですからイエスは私たち一人一人に祈るように招いています。それはイエスが「私は必ず聞くから祈りなさい」と言ってくれているのです。ですから、祈って悪い人などいません。祈りに力のない人などいません。信仰者の祈りには必ず力があり、イエスは必ず聞いて働いて答えてくださいます。ですから、むしろそれを信じないこと、疑うこと、しないことはもったいないことですし、イエスは悲しんでおられます。ぜひ私たちが「待ち望む者」であるなら、ますます祈り求めましょう。
B, 「弟子たちはみ言葉を前にして:くじ引きの意味」
 そしてこの後の「もう一人の使徒を選ぶくじ引き」も実は、その流れに沿っています。注目したいのは、ここで使徒たちは、み言葉を開いて、イスカリオテのユダの出来事を解釈し、そしてくじ引きもまた箴言の言葉から彼らは判断しています。つまり彼らは、約束、「み言葉を先に」見ています。これは大事なことです。なぜなら。それはこれまでは使徒たちにはなかったことだからです。しかし彼らは今や、み言葉に従って行動し、祈りを持って待ち望むのです。その最初の出来事が、このマッテヤを選ぶ出来事に他なりません。

5.「おわりに」
 このようにして彼らは約束の聖霊を受けて教会は誕生していくのです。みなさん、その大事な原点、土台、そして原動力、源泉が今日、教えられたのではないでしょうか。私たちにも溢れるばかりの恵みとみ言葉の約束があります。私たちにも示されているみ言葉は同じです。ですから、私たちもみ言葉と聖霊を前に見て、十字架と復活を仰ぎ、「あなたの罪は赦されている」という宣言に安心し、主を待ち望みつつ、祈りと信仰を持って歩んでいきましょう。主は約束のうちに私たちを通して私たちの思いをはるかに超えた素晴らしいことを必ずしてくださるのです。その信仰と希望と安心でここから出ていき、神を愛し、隣人を愛し、恵みを証ししていきましょう。