2018年2月4日
「散らされた人々はみことばを:十字架の神学者としてG」 |
1.「はじめに」
8章に入り、ステパノの「石打ち刑による死」によって、エルサレム教会への迫害がエスカレートして行ったところを見て来ました。それによってエルサレム教会は使徒たち以外は散らされてしまいます。その迫害の主要人物は「サウロ」というパリサイ人で、彼は、教会だけでなく、家々に入ってクリスチャンたちを引きずり出して牢獄に入れたのでした。教会は、愛する兄弟ステパノの死の悲しみとともに大打撃を受けます。数千人まで増えてクリスチャンも散らされてしまいます。ステパノの死には神の栄光が輝いていたのに、教会にとってはあまりにも大きな試練であり苦しみです。「神がいるならなぜ?」とも問いたくなるような状況です。「神は敗北し、失敗したのか?」ーそれが前回の最初の問いかけでもありました。しかし確かに、神の計画、約束、神のなさることは私たちの思い、常識、理性では理解できず、計り知れず、推測も計算もできないものですが、それでも神のなさることはそれはどこまでも真実で、完全で、私たちの良いことのためのはかりごとであり決して無駄ではない。むしろ全ては益とされることが約束されているのが、私たちに与えられている福音であり、クリスチャンはその福音に生きていくものであることを教えられられたのでした。今日のところでは、その証しを見ることができるのです。
2.「ばぜ困難の中でみことばを?」
「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」
教会に起こったステパノの処刑という悲劇と迫害。それは人間の考えや願望、理性や計算、人間の側で勝手に計算したり思ったり「これが祝福だ」ということから見るならば、全く理に合わない、祝福だと思えない、理解できない、納得できないことです。せっかく増えて、大きくなった教会なのに、その最も尊敬されている、聖霊に満たされていた執事が殺され、教会は散らされ、教会のメンバーは皆牢獄に入れられます。この状況は、人間的な思いや期待、計算からみるなら躓きとなるでしょう。マイナスであり、敗北のようであり失敗のようであり、誰かのせいにするような批判が起こる状況です。「こうであればよかったのに、ああであればよかったのに」と。まさにモーセの時代に、エジプトを脱出し荒野を旅する民が、状況が悪いときに「エジプトにいた方がよかった」と嘆いたようにです。そして、その時もそうでしたが、そのようなときには何より、神、み言葉が見えなくなり、信じられなくなる状況ではありませんか。しかし、どうでしょうか?
「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」
散らされた人たちは、そこでみことばが見えなくなり、みことばが信じられなくなったのではなく、「みことば」を宣べ伝えたとあるのは不思議です。世の中や人は、マイナスの状況だと思えると、「目に見えない」だから「みことばこそ信じられない」「みことばは力がない」となるのではないでしょうか。そして、人の力やわざや努力に頼りたくなるものです。しかしここで散らされた人々は、そのような悲劇と悲惨にも関わらず、彼らは「出エジプトの不平をいう民」のようではなく、ますます「みことば」に立ち返ったということです。なぜですか?何がそうさせたのですか?それはこの直前にあった私たちが見て来たことです。そう「ステパノの死、殉教」です。
3.「ステパノの死の意味」
これは確かに悲劇惨劇であり、人の目には理不尽であり敗北のようです。しかしステパノは天の神の右の座のイエス、つまり、十字架にかかって死によみがえられたイエスに神の栄光を見て、死にゆく中でもそのイエスを指し示し、賛美し、喜び、そしてイエスの十字架上の祈りと同じ、自分に石を投げる者への愛の祈りを持って死んでいきました。その死は人の目には理不尽で敗北であり、無駄なことのように見えます。しかし彼の死は敗北で無駄であったのでしょうか?いや違う。それは素晴らしい最高の証しとなったことでしょう。「クリスチャンは何をみるべきか?何を指し示すのか?どこに栄光を見、どこに栄光を帰すべきか?そしてどう祈るべきか?」ーその証しとなったのです。事実、そのステパノの死の最後とその祈りを見ていたクリスチャンたちは、思い出したことでしょう?何よりも十字架のイエスの祈りです。彼らにステパノの見た天の栄光が見えていたのでしょうか?いやもしステパノだけが見ていて他の人が見えなかったのであるののなら、ステパノが見たものは誰もわからないので、ここで記すことができません。ですから少なくとも、同じように天の栄光を見ていた使徒たちがいたからこそ7章の記録が断定的に書かれています。ですからそのステパノの死と祈りに、使徒たち、クリスチャンたちは、何よりも十字架の出来事、十字架のイエスを思い出し立ち返らされたことでしょう。「クリスチャンは何をみるべきか?何を指し示すのか?どこに栄光を見、どこに栄光を帰すべきか?ーそれはイエス・キリストであり、その十字架であり、福音の言葉である」と。だからこそ、散らされたクリスチャンたちは、「マイナス」のことが起こっているからと、神を疑いません。誰も批判もしません。ネガティブに考えません。敗北だと思いません。みことばを捨てません。彼らはその最も大事な、自分たちを救い、生かしている、間違いのない、真実なイエスの福音を伝えるのです。それはステパノの殉教があったからこそです。そのステパノの指し示したキリストの栄光、そして彼が十字架上のイエスと同じ祈りに導かれたからこそです。
4.「迫害(困難)を前にしての備え?何が必要か?」
みなさん、イエスは教会に起こる激しい迫害を前もって伝えていました。ですから迫害は間違いなく起こることでした。しかし困難や試練にあった時、教会、あるいはクリスチャンの場合、そのときに真に力になるのは一体、何でしょうか?考えて見ましょう。人は、上手く言っている時も、そうでなくても「教会のため、神の国の完成のためには、結局は、人の力や知恵や努力や方法なんだ」と言います。しかし、初代教会の教父やアウグスティヌスにせよ、ルターにせよ、皆、注意を込めて教会で説教しています。人というのは、上手くいっている、成功していると思っているときにこそ、謙遜を忘れ、神の恵みを忘れ、人のわざを誇り、人のわざに頼り、慢心し高慢になると。それはあたかも神の言葉が無駄であるかのようになり、人のわざによって救いや神の国、成長や祝福が起こるかのようになると警告しています。それは人間の性質であり、まさしく原罪の姿です。つまり罪の根源はそうであったでしょう。神の言葉によって生まれ、導かれ、生きていた人の祖先アダムとエバが、神の言葉を捨てて、神のわざに背を向けて、「神のようになれる」という誘惑の言葉にこそ逸れていきます。それは自らが神になり、自らが中心になること、恵みを捨てて自分のわざへの依存と信仰であったでしょう。それが罪の根源です。ですから神のわざよりも、人のわざの方が安心する、信用できる、期待でき、計算できる、それは神ざへの信頼の逆であり、それが罪の性質そのものなのです。それは誰でも起こりうることであり、そして上手くいっているとき、成功しているとき、あるいは過去であってもその過去の人の成功や栄光へのこだわりから抜け出せないときほど、それは人間に起こるものです。
エルサレム教会も、主のわざによって、クリスチャンの数が大きく増えました。人間の力では計り知れない力によって、いきなり数千人になりました。しかしそれは何より神の力、福音の力でそうなっていったのに、それを忘れ、自分たちや使徒たちの力で何かができたかのように思いやすい状況でもあります。事実、人の性質の象徴的な出来事として、この後、信じる、サマリヤのシモンは、不思議なしるしはまさに「使徒たち自身の力だ」と思って、使徒たちにお金を払って、その力を買おうとしている場面があります。しかし、シモンの思いも行為も人にとっては何も異常なことではありません。人とはそのようなものです。見えない神を見ず、見失い、逆に、見える人や人のわざに依存しやすいものです。でですから、その人間の罪の性質を踏まえるときに、そのように大きくなったエルサレム教会に、やがて起こる迫害を前にして、主は一体何こそ一番大事なものであると備えさせるでしょうか?みなさんはどう思いますか?律法でしょうか?人のわざによってこうすべき、ああすべき、ということであったでしょうか?
5.「最高の力:何より必要なものを主は備えてくださった」
迫害を前にして、散らされることを前にして、イエスが与え備えた最高の力は、イエス・キリスト、十字架の恵みであり、そこに立ち返らせることであったでしょう。そのためにステパノは用いられたのです。そうであればこそ、イエスは人の目から見れば全く逆のことをします。人の目から見れば「失いたくない」尊敬されているステパノです。しかし、ルカはだからこそ記しています。「聖霊に満たされたステパノ」と。この苦難のために、備えられたステパノであり、ステパノはまさにこのためにこそ聖霊に満たされ、備えられ、用いられたのです。「信仰とは何か?クリスチャンは何をみるべきか?何を指し示すのか?どこに栄光を見、どこに栄光を帰すべきか?何が力であるのか?ーそれはイエス・キリストであり、その十字架であり、福音の言葉である」ということを示すため、証しするためです。それこそが迫害を前にしてるエルサレム教会に何よりもイエスが備え、与えた、その迫害に勝利するための力であり、答えであり、恵みであるということです。ステパノはその生きた信仰の証し、信仰の強さの証し、そのために用いられたのです。じゃあステパノ本人はどうか?かわいそうじゃないか?そう思います。しかし彼は、主の栄光を見、信仰と希望と愛の祈りで、喜びのうちに天に召されたでしょう。そこに苦痛と激痛があってもです。それも彼にそのような強さがあったからではない。聖霊に満たされ、信仰に生かされていた一人のとして主がともにあって用いたからこそです。
だからこそ散らされた人々はみことばを伝えたのです。みことばこそいのちであり、力であり、全てであると教えられ強められたからです。そうでなければ、この散らされた状況で伝えないでしょう。散らされたという状況で、それこそ主イエスとそのみことばが希望であり拠り所であったからこそ彼らはみことばを伝えたのではありませんか。そうでしょう。私たちは「これこそ希望」とするもので行動します。それこそ信頼できるもので行動するでしょう。彼らにとっては、み言葉こそ、力、希望、信頼、平安であったのです。しかしそれは神の恵みとしてそこに導かれました。ステパノの死を通して、ステパノが指し示した栄光、キリストを通してです。
6.「十字架のことば(福音)によって救われた」
この4節の言葉は私たちに大事なことを伝えています。私たちにとっても全く変わらない真理だからです。私たちも試練があります。苦難があります。「どうして?なぜ?」と思えることが沢山あります。理不尽、マイナス、失敗と思えることもあります。私たちの信仰も、いつでもモーセの時代の荒野の40年であり、ダビデが謳う「死の陰の谷」であり、イエス様の受けた荒野の誘惑であり、ゲッセマネの園です。しかし、信仰者にとって何が力であるのか?それはイエスです。イエスの福音ではありませんか。イザヤ書にあるように、イエスは全ての人、私たちのために来たのに、私たちは受け入れなかった、退けたとあります。人となられ目に見える姿で来られた神の御子イエスを人は受け入れられません。目に見える神の姿であるイエスを受けいられれないならば、目に見えない父なる神を信じることなどましてできません。しかしそれが人の罪として誰にでもある性質であり、人はどこまでも神に反逆し、その反逆の罪ゆえに神の怒りと裁きを受けるものだと、旧約の律法と預言は伝えています。しかしイエスは、その私たちのために、私たちのすべての罪を背負って、私たちのその神への負債、負い目、反逆の責任を、自分のものとしてくださり、その責任である罰をイエスが十字架で負って死んでくださったからこそ、私たちは、今、神の前に罪のないものとされたのではありませんか?そのイエスの十字架のゆえにこそ私たちは誰でも、いま、神の前に罪がないとされているからこそ、死の先は闇ではなく希望です。皆、やがて神の前に立たなければなりませんが、その時、まさにキリストのゆえにこそ、私たちは神の前に立ち、罪人の宣告をされることなく、神の前に喜んで受け入られ、私たちは神の国に入ることができるでしょう。死の先に、罪があっては閉ざされていた天国の門も、まさにキリストのゆえに「あなたに罪がない」「あなたの罪は赦されています」という宣告のゆえに天国の門は開かれ、私たちは通ることができます。先に帰った兄姉はそのようにして門を通ったのです。私たちも通ることができます。それは、イエス・キリストのゆえであり、その信仰を通してでしょう。その信仰さえも私たちのわざではありませんね。福音の力であり、イエスが与えてくださったものでありませんか?私たちがどんな試練にあっても、苦難にあっても、それが荒野の40年であり、死の陰の谷であり、ゲッセマネの園であり、「どうして、なぜ?」と思えるような状況であっても、それでも恐れることのない力、乏しいことがない力、エジプトの方がよかったと嘆かせない力、最高の武器、それは何か?それはイエス・キリストであり、その福音、いのちのみことばでしょう?ですから、散らされた人々は、この困難な時こそ、律法ではなく「恵みによって」、信仰のゆえに、みことばを伝えたのです。ピリポははっきりと書いています。
「〜キリストを宣べ伝えた」5節
と。みなさん、私たち自身には何の力もありません。私たちに何らかの力があるというのは、最大の誘惑です。力はイエス・キリストとその福音にこそあります。キリストこそ私たちの全てです。私たちはキリストの十字架と復活によってこそ、罪のないもの、義と認められて新しい命が始まりました。「福音に生きる」と私たちはいうでしょう。それは私たちは律法ではなく、福音によってこそ歩んで行くという意味です。そして、それはその福音の素晴らしさ、平安、喜びを知っているからこそ福音を伝えて行くことができます。どんなときも。死の陰の谷にあっても、乏しいことも、恐れることもなく、希望を伝えて行くことができるのです。それは福音に生かされているからこそです。
7.「終わりに」
今日も福音の力を示されています。福音を信じましょう。福音に立ち返りましょう。福音に生かされて行きましょう。今日はそのよう福音の最高の目に見える形としてイエスが定め出てくださった聖餐を通してイエスの身体と血に与ることができます。イエスは今日もご自身の体と血で、罪の赦しの宣言をしてくださって新しく遣わしてくださるのです。私たちもステパノが指し示したイエス・キリストを仰ぎ、私たちの信仰を新たにされ、信仰をもってこの聖餐を受けましょう。そして平安のうちに遣わされて行きましょう。