2018年1月28日


「この困難の先に:十字架の神学者としてF」
使徒の働き 8章1〜3節

1.「はじめに:これまで」
 7章では、逮捕され議会に連れ出されたステパノが行なった弁明と、そしてステパノが石打ちにされ処刑された出来事を見てきました。ステパノは選び出された、「御霊と知恵に満ちた評判の良い人たち」7人の一人であり、「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」とも記されている人でした(6章)。議会での弁明でも「御霊に満たされて」と何度も書かれてありました。そのように彼は「人間的な目」で見ても、教会に欠かせない大事な一人であり、神も用いていた一人です。しかしそのステパノが逮捕され処刑される。「私たちの思い」からすれば非合理的であり不条理に思えることです。「神がいるならなぜ?」とも思えるような結果になりました。「弁明」もそうです。「聖霊に満たされて」語っていたステパノであり、しかも「み言葉」を引用してのメッセージでした。つまりみ言葉と聖霊があったのですから、主ご自身が働いていたのです。それなのに「人間的な見方」で見れば何の実りもなかったようです。聞いていた人々は怒り狂って、彼を処刑したのですから。それは「敗北」であり「失敗」であるかのように私たちの目には映るでしょう。しかしそれは「神の失敗」なのでしょうか?「神が敗北」したことなのでしょうか?
 そんなことはありませんでした。その時、神はステパノに神の栄光を見せました。他の人には見えない神の栄光でした。それは「天の神の右の座に立つイエス・キリスト」つまり「十字架にかかりよみがえり、天に昇られたイエス」でした。それが神が現した答えでした。それは世にとっては敗北であった十字架にこそ、罪に対する勝利と救い、平和と永遠の命が現され、苦難と死にこそ神はおられ神の栄光が現されたように、このステパノの苦難と死にも神は確かにおられ、そこに神の栄光は現わされたのでした。そして福音と信仰の力はなんと強いことでしょう。ステパノはその壮絶な苦しみと死の中にあっても、その神の栄光を見て「主イエスよ、私の霊をお受けください。彼らに罪に負わせないでください」という信仰と愛の祈りの言葉で天に帰ったのでした。
 そのように神の御心、神のなさることは、私たちの思いや推測とは逆に現れ、私たちの知恵や理性では解らないし、計算も予測もできない。むしろ私達の思いをはるかに超えています。しかしだからと言って、私達にとって不合理、不条理、敗北や失敗と思えることにも神はいないのではなく、神は失敗したのでも敗北したのでもない。福音の力は信仰を始めさせ、信仰に進ませ、目には見えない、神の栄光へと導く、神の確かな計画がそこに現されるのだということを、ステパノの殉教は伝えていたのでした。

2.「人の目に「不条理」と思えることへ」
 このところはその序章とも言える出来事です。7章58節にこの言葉がありました。
「そして、彼を町の外に追い出して、石で撃ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。」58節
 8章のはじめに登場するのがここにあるサウロです。石打ちをした人々はその着物をサウルの足元に置いたのですから、サウルは当然その石打ちをした側の人間です。ですから、8章はこのように始まります。
「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。」
 サウロはステパノを殺すことに賛成していたのです。この「ステパノの処刑の賛成者の物語」から8章は始まります。ですから8章になっても状況はなんら好転しない感じがします。事実、1節はこう続くのです。
「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」
 このようにステパノの死だけで事はお終わりません。むしろステパノの死は一つの引き金となって、ステパノを殺した人たちの憎悪はエルサレム教会にまで及ぶのです。「激しい迫害」が起こったとあります。これまでも使徒たちが逮捕されたり、「イエスのことを話すな」という脅しがあったり、捕らえられた使徒たちが鞭打たれたりはしました。しかし積極的な教会そのものへの迫害はありませんでした。ですからこの「激しい迫害」は今までの比ではない「激しさ」であることが推測できます。それによって使徒たち以外のクリスチャンたちはみな、散らされてしまったのでした。
 これまで見てきました。聖霊は福音の宣教を通じて、信じる人を起こしてくださり、そして、信じて洗礼を受けた人を、教会の群れに加えてくださいました。それは何千という数でもありました。そのように数的にはもちろん、霊的にもエルサレム教会は大きく成長してきました。しかしステパノの処刑に始まり、それをきっかけにして、なんと教会は大打撃を受け散らされてしまうのです。教会は「使徒たち以外」とある通り、数的には最初に戻ったということになります。しかもステパノの死の悲しみにまだある只中です。
「敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ」2節
 本当にステパノが処刑された直後ぐらいの大迫害であることがわかります。「彼のために悲しみ、葬り、彼を偲ぶ、一定の期間を過ごした後」ということではないことがわかります。もうその悲しが起こったのと同じぐらいに教会は散らされたということです。

3.「神は失敗したのか?」
 どうしてこんなにも試練が重なるのでしょう。「なぜ?どうして?」ということがなぜ続けざまに起こるのでしょうか?神はいるのでしょうか?なぜ神はそのままにするのでしょう。「神は止めることができるはずでは」と、私たちはそう思うことでしょう。そうです。神はそれを止めることができます。神は教会の人々が、落ち着いた中で死を悲しみ、葬儀を行うことを用意したり、いや、迫害を止めることも、ステパノの処刑を防ぐこともできたはずです。こんな悲劇や苦難を全て避けることもできたはずでしょう。しかし神はそうしませんでした。何度も問いたくなります。神は沈黙されているのでしょうか?神は見捨てたのでしょうか?神はあえて苦しみを与えたのでしょうか?何らかの罰でしょうか?それとも神はこの状況に何もできなかったのでしょうか?それとも神は失敗し、神は敗北したのでしょうか?
 この状況、人間の目、常識、理性からみるなら、全く理解できないことです。しかもせっかく増えた教会なのに、なぜ散らされるのか?あまりにも不合理、不条理です。神のなさることは何なのかわかりません。この時の兄弟姉妹たちもそうであったことしょう。
 そしてさらにこう続いています。そのステパノの処刑を賛成していたサウロですが、
「サウロは教会を荒らし、家々に入って男も女も引きずり出し次々に牢に入れた」3節
 当時の教会は、立派な会堂のある教会というのではなく「信じるものが集まるところが教会」でした。ですから彼らは誰かの家や「ひと所」に集まって礼拝、つまりパンを裂いて聖餐をし祈りをしていたのが教会でありました。サウロはそのようなクリスチャンの集まりであるところに入って行きます。そして男も女も引き摺り出し牢獄に入れたのでした。サウロの行動は明らかにこれまでにないエスカレートした行動でした。これまでも「使徒たち」が牢獄に入れられたことはありましたが、神殿でイエスを語っていた時でありました。家々まで入ってきて無理やり、ただ「キリストを信じている」という理由だけで牢獄に入れるということはなかったのでした。
 まさに迫害は激化しています。しかもサウロは長老ではなく「青年」でありながら、かなりの権限を持っています。9章のはじめにもありますが、彼は迫害の長として、エルサレムだけでは飽き足らず、エリコという町の迫害にまで行こうとすることが書かれています。その時に「行く許可」をもらうために大祭司に掛け合います。そのように彼は誰よりも迫害に燃え、そしてそうする権限をもらえる人間であることがわかるのです。ですから彼が、青年でも非常に有望なパリサイ人の一人であったことがわかります。彼は自分でも言っている通り、小さな時から律法の英才教育を受けてきたエリートでした。なおかつ、過激で迫害に積極的です。まさに教会にとっては手強い敵とも言える人物です。いや、ここで教会は何ら彼に太刀打ちできないでしょう。彼らは散らされるままに散らされ、引き摺り出されるままに引き摺り出され、逮捕されるままに逮捕され、牢獄に入れられるのでした。
 何という不条理でしょう。神は彼を止めることができるでしょう。彼を罰することができるでしょう。人間的には「そうして欲しい」のです。そして「教会が数的にもせっかく大きくなってきたのだから、これからも問題なく右肩上がりで大きくなっていってほしい、それが神のなさることだ」、人の思いではそう思うはずです。しかしなぜ、神はなぜこの凶暴な狼を野放しにさせるのでしょう。迫害の手に介入されないのでしょうか?この時も、クリスチャンたちは叫んだことでしょう。祈ったことでしょう。「助けてください」と。「教会を救ってください」と。「ステパノを助けてください」と。しかしサウロは教会に、家々にドカドカと入ってきました。権力と怒りと憎悪を持って。なぜですか?神はどこにいるのでしょうか?神はいないのでしょうか?神はできないのでしょうか?神は見捨てたのでしょうか?
 みなさん、これは誰も直面する問いかけです。そしてその答えは、それは「その時は」誰もわかりません。この時、叫んで祈った人たちも「どうして?」と問うた事でしょう。しかし「この時は」、誰もその答えはわからないのです。

4.「神は真実である」
 しかしです。それでも、神はいないのではありません。神は見捨てたのでもありません。神は失敗したのでも敗北したのでもありません。その答えは、神の言葉、神の約束にこそあるのです。
 みなさん、聖書が伝えてきた神の真理はいつでもそうでした。神の思いは人の思いでは計り知れず、しかしその言葉と約束は真実で確かであると。アラブハムとサラに子供が与えらえるという約束の時、どうであったでしょうか?「アブラハムとサラの常識」では、信じられない事です。100歳の二人に子供が与えられるはずがない。サラは笑い、アブラハムは約束を忘れたかのように、奴隷の子のイシュマエルを跡取りにしようとします。彼らにとっては神のなさることは信じられない事、不可能な事であったのです。しかし神はその約束の通り、人の思いを超えてサラに約束の子を産ませるでしょう。
 あのヤコブとヨセフはどうでしょう。信じられないような苦難の連続です。ヤコブは愛する子を失い、ヨセフは兄達に憎まれ、エジプトに売られ、エジプトでも何度も牢獄に入れられます。苦難と悲しみの生涯です。まさに「どうして?なぜ?」の人生であったでしょう。ヨセフの思いでは、試練は不条理です。しかし彼はその試練の先に神に与えられた答えがあったでしょう。兄たちが自分たちを奴隷にしてでも許してほしいと言った時です。
「ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか。あなた方は私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして多くの人々を生かしておくためでした」創世記55:19〜20
 と。人のなすことを超えて、神は全てのことに働いて、良いことのための計画としてくださった。しかもそれは神ご自身のためではなく、多くの人々のためにそのことをしたのだと。それは苦しみの中にあったその時には、ヨセフには全くわからない、理解できないことであったでしょう。しかし神の思いとわざはそのヨセフの思いをはるかに超えて大きい。計り知れず、完全である。神の約束なのです。
 それはその後の、出エジプトとモーセにおいても然りであり、サムエルの言葉に反して神が王を与えるとき、しかもそれがあのサウルであることも然り、そのあとのダビデを選ぶ時の不思議も然りです。さらにはダビデ自身の苦難の生涯においても然りではありませんか。

5.「真実はイエスの十字架において」
 そして何よりもそのことが現れているのがイエスの十字架でしょう。救い主である方が、罪人を愛された。罪のない方が、十字架の極悪刑に処せられる。苦しみと屈辱の果てにです。罵られ、唾をかけられ、鞭打たれ、辱められての十字架です。イエスもその十字架の前に、「この杯を取り除けてください」と三度、苦しみの血の汗を流して祈ります。しかし、イエスは祈りをこう結ぶでしょう。「しかし主の御心がなりますように」と。このように神の計画、神の約束にこそ揺るがない真実がある。確かさがある。多くの人を生かしておくため、救うために。そして、事実、その十字架の死と復活にこそ、神の罪の赦しと永遠のいのち、神の国が現されたと福音は伝えているのです。
 私たちの地上の歩みは艱難があります。「死の陰の谷」です。事実、私たちは死んで行きます。しかし神のなさること、神が与えること、そのことの約束と計画は、私たちの思いや計画、苦しみや悲しみ、「どうして?」ということを、はるかに超えて、完全であり、それは私たちを益とするため。私たちに良いことをもたらすための、はかりごとであることこそ、聖書が一貫して伝えてきた約束なのです。

6.「迫害は恵みが現れるとき」
 今日の箇所の迫害の記録は「そのはじめ」です。ですから今日の箇所は私たちへの大事な問いかけの箇所です。この後、一体どうなって行くのか?散らされた教会はどうなって行くのか?迫害者サウロは一体どうなって行くのか?その答えはこの先にあります。このような聖書の言葉があるでしょう。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8章28節
 この後、散らされた教会はまさにこの言葉の通りになって行くのです。その答えを、ぜひ見て行きましょう。そしてこの約束の言葉は一体誰が語っているのか?そのことも私たちの思いをはるかに超えた素晴らしい神の出来事を物語っています。ぜひこれからそのことを見て行きましょう。イエス・キリストの恵みを感謝しつつ。