2017年5月14日


「イエスはどのように私たちに働かれるか」
ルカによる福音書 24章44〜53節

1.「イエスから弟子たちへ」
 イエスは十字架にかけられる前から、弟子たちに「よみがえります」とはっきりと伝えていました。しかし弟子たちは皆そのことを忘れていました。女性たちがイエスがよみがえったという知らせを伝えてもそれでも弟子たちは信じません。ある弟子たちは失望のうちにエルサレムを離れてエマオという村に帰ろうとさえします。しかしそんな彼らのところにイエスの方から現れてくださり目を開いてくださいます。二人はイエスがよみがえられたと信じてエルサレムに帰り、他の弟子たちに伝えますが弟子たちは信じません。そんなところに再びイエスの方から弟子たちのところに現れます。弟子たちはそれでも霊を見ているのだと思い信じないのですが、イエスはそんな弟子たちを怒るのでも見捨てるのでもなく自分の身体を触らせるのです。それは弟子たちが「信じて、喜び、安心するため」です。そのようにして弟子たちは自分からは信じることができないのですが、イエスはそんな弟子たちを、たとえどれだけ悟のに遅く不完全なものであっても、そこで裁くのでも責めるのでもなく、あるいは恵みが限界があったり絶えるのではなく、むしろそのような者のためにこそ信じるように「イエスの方から」働いてくださり、イエスが信仰を与え、信仰を強め、安心させてくださる、「限界のない、絶えることのない恵み」を、教えられたのでした。

2.「どのようにイエスは働かれるか」
 そのようにイエスは私たちにもいつでも「イエスの方から」働いてくださるのは変わらないのですが、ではそれはどのようにしてでしょうか?イエスは悟らない信じない弟子たちに確かに「イエスの方から」現れ、語りかけ、触れさせ、魚まで食べて見せて信じさせるのですが、その出来事の最後にイエスはこのような言葉で結ぶのです。44節
「さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなた方と一緒にいた頃、あなた方に話した言葉はこうです。わたしについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
 イエスは、そのように「イエスの方から」具体的に関わり働いて信じさせるのですが、最も大事なことに弟子たちを立ち帰らせます。それはイエスが十字架で死んで三日目に復活するということは、それは突然、湧いて出てきたような新しい教えではなく「わたしがまだあなた方と一緒にいた頃」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時に、「その頃にすでに話していたことではないか、そして、それは旧約聖書全体において約束されてきたことであると教えてきたことではないか、そのことが全て成就するのだ解き明かしてきたことではないか」とイエスはそこに立ち返らせるのです。
A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」
 このところは何を伝えているでしょうか。まず一つは、私たちが洗礼を受ける前に小教理で必ず習ったことがここにあります。それは聖書は全てイエス・キリストを指し示している、イエスを伝え証しているということです。まさにイエスご自身が「わたしについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてある」と言っています。この時代は「旧約聖書」という言葉はなく、聖書といえば「モーセの律法、預言書、詩篇」の事です。つまりそれは私たちがいう「旧約聖書」を指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきりと言っているのがわかります。旧約聖書の言葉は、皆、キリストを中心としていて、やがてくるキリストを証しているのだということは、後の弟子たちや教会の偉い人が考え出したり編み出した教えでは決してないのです。それはイエスご自身の証なのです。ですから私たちは旧約聖書を読んでいくときに、このことは大事な助けになります。ただ律法的な言葉が並んでいるのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラエル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・キリストを中心として、しかも十字架と復活を中心として読んでいくとき、そこに私たちは福音と神の本当のメッセージを聞くことができるのです。旧約聖書にもキリストの福音は溢れているのです。
B, 「聖書の神のみことばを通して」
 第二に、イエスご自身が絶えず聖書を通してみ言葉を語ってきたという事にやはり立ち返っているという事です。それが原点であり、つまり主なる神はそのようにみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を与え続けることによって、弟子たちにすでに「イエスの方から」をし続けてきたのです。イエスはそこから決してずれません。このように具体的な介入をされたとしても、その「み言葉を通して」の一点はとても大事なんだということがここからわかるのです。
C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」
 それはなぜでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。
「わたしについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあることは、必ず全部成就するということでした」44節
 と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「神の力はみ言葉にこそある」のであり、み言葉こそその通りになる真実な力であるからに他なりません。旧約聖書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に「はじめにことばがあった」とある通りです。そして神は言葉で世界とアダムとエバを祝福し、言葉で二人を導きます。アダムとエバの堕落は、神の言葉への疑いと否定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハムを「まだ見ぬ地へ」遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ないような言葉もあります。100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑います。それに対して「主にとって不可能なことはあろうか」というその通りに、主の言葉こそ成就していくでしょう。アブラハムとサラの疑いの通りになっていったのではありません。あの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉によるものでしょう。そしてヤコブはまさに神の言葉を信じて歩んでいき、神の言葉の通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、神を見ることができませんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、言葉はその通りに成就していきます。ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。詩篇の記者もそのことの沢山、証しています。それは新約聖書でも全く同じで、まさにルカの福音書で見てきたことは、み言葉はその通りになるということであったのです。そのことで一貫しているのです。イエスはそのことへ弟子たちを向けさせようとし、私たちをもそこへと向けさせようとしているのです。

3.「「イエスが心を開いて」とある」
 同じように神であるイエスは私たちに対しても、「イエスの方から」「神の方から」の恵みの大原則を決してやめません。今でもイエスは、私たちへ、イエスの方から、絶えず、働いています。しかしその素晴らしい恵みは、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実な約束と、その通りになるその力を与え続けてくれており、それによって私たちを力づけ、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。
 そしてみ言葉だけではありません。私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉とともに私たちに力強く働く更なる神の恵みがあります。こう続いています。
「そこで、イエスは聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなた方は、これらのことの証人です。」45節
 みなさん、今「み言葉が大事だ」と言われて、律法的になってはいませんか。「ああそうか。み言葉が大事だから、頑張って努力してみ言葉をもっと悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」「?しなければ行けない」と。しかしそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言われて、では「自分からもっと悟らなければ」と言って悟りに至ってはいません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるでしょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかったかもしれません。しかしそのイエスの十字架と復活にある恵みの真理と意味を知り、それを信じ確信し喜ぶ信仰は彼ら自身からはないのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分が」となったかもしれません。しかしそれだと実は福音を全く悟っていないこと同じです。的外れです。しかしみ言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開いたのは、彼ら自身ではなくイエスであることがここにはっきりと書いてあるでしょう。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と。
 み言葉を通してイエスは働きます。み言葉こそ力です。しかし私たちはそこで律法的に捉える必要はありません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちを喜びと平安を与えその歩みを導いてくださるのもイエスなのです。「あなたがたが自らで、信じて、確信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でしょう。矛盾するでしょう。「頑張って、喜ぶ、安心する」というのはできない、成り立たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。み言葉を持って私たちに働き、そしてイエスが心を開いて福音を悟らせてくださり、私たちに喜びと平安が与えられるのです。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法でもなく神の恵み、賜物であり、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせる、それが賜物として信仰の素晴らしさであり、それはこのところ「イエス様が心を開いて」ということにも一致するのです。

4.「何を宣教するのか。福音とは何か」
 そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまりこれは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め」こそ宣教すべきことであり福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は「罪や悔い改めは暗い言葉、聞きたくない言葉だから語ってくれるな」と、教会から敬遠され語られなくなっていると言われています。その方が人が集まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確かに愛は強調されますが、どんな愛なのでしょうか。十字架と罪の赦しのない「神の愛」などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと福音とは何か、証すべき宣教すべきは何かを伝えています。罪の赦しを得させる悔い改めだと。十字架の事だと。そしてその罪の赦し、十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです。そうです。人間の理性や常識では、罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません。「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いことです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、それが普通かもしれません。ですから人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいこと、私たちが悟り得ないことです。しかしだからこそここでそれが証されるべき福音なのだと言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身ではできない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれていることがわかるのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、十字架の罪の赦しは、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当の証し、本当の宣教になっていくのではないでしょうか。イエスはそのことを伝えてくれています。そのことを保証するように49節の言葉が続いています。

5.「み言葉と聖霊」
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなた方に送ります。あなた方は、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
 と。聖霊を与える約束です。イエスはこの後、天に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ、共にて「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。目に確かに見えません。しかし弟子たちに対してと全く変わらず、聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださり、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通して、賜物である信仰に」なのです。ですからみ言葉が語られている時、それはイエスが私たちに語っている素晴らしい時です。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持って証するように遣わすためにです。牧師はそのための道具にすぎません。私は何も与えることはできないし力はありません。イエスに力があり、イエスの言葉に力があるのです。そのようにイエスが私たちに働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。それはイエスしか与えることができません。そのようにしてまさに52?53節にある通り、弟子たちが約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たされ、賛美に溢れていたのです。その信仰、その喜びはどこから来るのか?賛美はどこから来るのか?もちろんキリストからですが、パウロはこう言っています。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
 と。あのマルタの妹のマリヤが、ただイエスの言葉を聞いていたことこそ、イエスが最も大事なことと言っている通りです。ぜひ、み言葉をとおして福音が与えられている幸い、イエスの語りかけである福音に聞くことができる幸いを賛美しましょう。そしてこの恵みに取り囲まれて、福音の喜びと平安に満たされて、私たちは罪の赦しの福音を証していこうではありませんか。