2017年5月7日


「イエスから弟子たちへ」
ルカによる福音書 24章36〜43節

1.「はじめに」
 イエスは、自分の復活については前もって伝えていたことにもかかわらず、弟子たちは皆、忘れていました。さらに弟子たちは女性たちの証言があっても、弟子たちは信じませんでした。誰も信じられないことだったのです。しかしそんな弟子たちのところに、「イエスの方から」現れてくださいます。そしてみ言葉を繰り返し語り思い出させ、ともにパンを裂くことによって、イエスが彼らに信仰を与え信仰をよみがえらせ、弟子たちは「本当にイエスはよみがえったのだ」と喜びに変えられたのでした。このところもその「イエスから」の恵みが続いています。

2.「彼らの真ん中に」
「これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。」24節
 「彼ら」というのは弟子たちです。しかも11人の使徒たちだけでなくその仲間、他の弟子たちが皆集まっています。そんな彼らは何を話していたのでしょう。それは33節以下の、復活のイエスがシモンに現れたということ、そしてエマオに帰る途中でイエスにあった二人の弟子たちが伝えたことを指しています。シモンもその二人の弟子たちも「イエスの方から」現れてくださったと証しているのです。しかしそれでも弟子たちは半信半疑なのです。そんな弟子たちにも、やはりイエスは「イエスの方から」来られ、現れ、弟子たちの真ん中に立たれるのです。ですから「シモンやエマオの二人だけに現れ、あとは、その彼らの証言だけで信じろ」ということではないのです。皆にその姿を現されるのです。それは「彼らが自分たちの努力で信じることができたから」ではありません。「信じることができない彼ら」が信じるために現れているのです。このようにどこまでも恵みの原則からこのところも始まっています。しかしなおも弟子たちの側はこう続いています。

3.「信じられない彼ら」
「彼らの驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。」37節
 シモンとエマオの二人の弟子たち以外の弟子たちは驚きます。恐れます。つまりこの後のイエスの言葉にある通りに、彼らはまだ疑っているわけです。どう思ったのかというと、「「霊を見ている」のだと思った」というのです。エマオの二人の弟子たちも、女性たちの「御使いに会った」という証言について「幻」を見たのだと言っていた箇所がありますがそれと同じです。本当にイエスが復活をしたと信じておらず、幻や霊としか思っていないことを示しているのです。そんな弟子たちに対してイエスが言っている言葉が38節です
「すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。」
 もしイエスが現れなかったのなら、イエスの方から来なかったのなら、弟子たちはずっとイエスの復活を信じることはできなかったことでしょう。失望、絶望に沈み、悲しみに沈み、ヨハネの福音書にある通り、人を恐れて、戸を閉ざして引きこもっていたことでしょう。いやそれだけではない、前回の二人の弟子が失望と暗い顔で自分の村に帰って行ったのと同じように、弟子たちは解散し自分たちの出身のガリラヤの町々、村々に帰って行ったことででしょう。「イエスの方から」がなかったなら、です。しかもイエスの方から現れたとしても「霊」あるいは「幻」だと思い、取り乱すしかない、心に疑いを持つことしかできません。このように示している事実は一貫しています。それは弟子たちの側、人の側はどこまでも無力であり、自ら信じることはできない。むしろ神に対しては後ろ向きになるだけです。それはまさにアダムとエバのままの人の姿がこの復活の場面の弟子たちの姿にまで受け継がれているのを見るのです。

4.「「信じないから」と、恵みは尽きるのか?」
 しかしです。最初は十字架の前に言葉がありました。それでもその言葉を忘れました。復活の日の朝、女性たちの証言がありました。それでも信じませんでした。シモンの証言があり、エマオの二人の証言もありました。それでも信じませんでした。そしてついにはイエスご自身が皆に現れてくださっています。しかしそれでも、弟子たちは霊だと思い、取り乱し、疑います。信じません。ではこのようにもう何度も「イエスから」の働きかけがあるのに、恵みが繰り返されているのに、それでも「信じないから」と、どうでしょう?ここで「イエスから」の恵みは尽きるでしょうか? 終わるでしょうか? ここで「もうだめだ。もう堪忍袋の尾が切れた。もうあなた方は信じないからだめだ」と、イエスの態度や働きが変わるでしょうか? それまでの恵みが、裁き、怒り、断罪、見捨てる、に変わるでしょうか? 人間だったら、忍耐、許すのは、二度まで、三度まででしょうか?いや、一度だけの失敗でも許せないと、いつまでも攻め続けたり、裁き続ける場合もあるでしょう。しかし、イエス、神はどうでしょう?神の恵みは限界があるのでしょうか?

5.「たとえそうであっても、「イエスから」の恵みは尽きることがない」
「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい、霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」39節
 イエスはそれでも、何度「イエスの方から」示し何度働いてそれでも信じない弟子たちを、イエスはそれでも見捨てたりしません。怒ったり、裁いたりしません。それでもイエスは、「イエスの方から」をやめません。これが神の恵みです。このように神の恵みは、私たちの側の足りなさ、弱さ、失敗、頑なさ、罪によって絶えたり、終わったり、取り下げられたりしていません。それでも、どんなに頑なで信じられない心にさえも「イエスの方から」です。イエスは、彼らにご自身の復活の体、肉体に触れさせます。それは彼らが疑っていた「霊ではないことを示すため」です。ヨハネの福音書にもご自身の体を触れさせることが書かれていますが、そのところでは、その手と足と脇腹にある傷に触れさせています。何のことかというと、それは十字架の傷のことで、手と足に釘を刺され、脇腹は、ローマの兵隊がイエスが十字架刑で死んだのを確認するために槍で脇腹を刺したということがヨハネの福音書にあるのですがそのことです。つまり触らせるのは霊でも幻でもなく十字架で死んだそのイエスが、その肉体が、本当によみがえったことを示しているわけですが、その体、その傷に触れさせているのです。弟子たちはそれに触れて、本当に十字架で死んだイエスがよみがえったのだと信じたのでした。
 そのようにイエスは、イエスの方からご自身の身体に触れさせることによって、信じない弟子たちを、「信じてほしい」と「信じるように」どこまでも働き、導いていることがわかるのではないでしょうか。このようにイエスの恵みは尽きることがないですし、限界がありません。その「イエスから」はどこまでも一貫しているのです。それによってどうなるでしょか?

6.「取り乱した心が、信仰と喜びへ」 
「それでも、彼らはうれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物はありますか」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは彼らの前で、それを取って召し上がった。」41?43節
 弟子たちの「取り乱した心」が、まず「うれしさ」に変わっています。ここで「うれしさのあまり信じられない」というのは、認めざるを得ない、つまり「信じざるを得ない」状況を示しています。ほぼ信じさせられているということです。そこにイエスは食べ物を求めて焼いた魚を食するのです。そのようにして弟子たちはみな、イエスからの働きかけによって、イエスは本当によみがえったのだということを信じるのです。しかし大事な点は、その信仰はまさに賜物であるということです。弟子たち自らの力では信じることができなかった。「イエスの方から」がなければこの素晴らしい出来事が真実であることがわからなかった。しかしまさにイエスの方からの優しい働きかけ、言葉によって弟子たちはこの復活の事実が真実であると悟り、悟らされることによって彼らは喜びに導かれていることが教えられるのではないでしょうか。
 これは私たちにも一貫して等しく働いている信仰生活の原則です。つまり私たちにも同じように、どこまでも「神から」「イエスから」が働いているのです。事実「イエスから」がなかれば、イエスから働いてくださらなければ、私たちも信仰はなかったでしょう。信仰は賜物だとあるのですから。いやそれどころか、イエスが世に来てくださなかったのなら、救いも何もなく、堕落のまま神の怒りの前に私たちは死んで滅んでいくだけの存在であったでしょう。しかし、誰も知らない中で「イエスの方から」来てくださいました。「イエスの方から」弟子たちを招いてくださいました。「イエスの方から」病人や、悪霊に憑かれている人々のところへ行き手を差し伸べてくださいました。「イエスの方から」社会から忌み嫌われている罪人のところに行き一緒に食事をされているでしょう。イエスの方から「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とおっしゃったでしょう。そしてイエスが、イエスだけが、イエス自らが、十字架にかかって死なれたでしょう。私たちの罪を全てご存知の上でそれを責めるのではない、裁くのでも断罪するのでも滅ぼすのでもない、イエス自らが、イエスの方から、その罪を全て背負って私たちのために十字架にかかって死なれるでしょう。そのことがこの復活でも一貫して弟子たちに現れているということではありませんか。そして、それが今も変わらず私たちに現されていることなのです。まさにその恵みがあるからこそ、クリスチャンとしての今があり、今の平安も喜びも、このイエスの恵みにこそ始まっているのです。感謝なことではありませんか。
 そして大事な点として、私たち自身はどこまでも悟のに遅く、自らでは信じることができないものであり、信仰も不完全な私たちです。そしてそこにイエスが働いてくださり、教えてくださり、信仰を与え強めてくださるのですが、それはどこまでもイエスはみ言葉を通して働いてくださるということをイエスは44節以下で続けて伝えているのです。(それは次回、見ていきます。)

7.「信仰は天からの賜物」
 信仰はどこまでも賜物であることは幸いです。信仰を与えてくださるのもイエスであるし、信仰を強めてくださるのもイエスであるという事実が、私たちへ与えられている福音のメッセージです。復活の信仰を与えられていく弟子たちの姿はその一つの証しなのです。ですからもし自分は「信仰が弱い」と思うことが誰でもあるとしても、しかしだからと、自分の力、努力で「信じなければいけない」「信仰を強めなければいけない」とするなら、それは神からの賜物を「自分からの何か」にすることになります。神のわざを退け、自分が行動の主役になってしまいます。それは表向きや見た目は敬虔そうには見えます。しかし、実はそれは不可能なことであるということは十字架と復活の前にした罪深い弟子たちの姿、言葉、行動が示す通りです。そして何よりそのような誤解した信仰や、信仰を行いや律法にしてしまうことは、結局は信仰生活に平安がなくなり、重荷になってしまい息苦しくなってしまうことになります。行き詰まってしまうわけです。そのような経験は私自身もあります。誰もが直面することではないでしょうか。
 しかしイエスは感謝な方です。イエスは私たちから平安を奪い、重荷を負わせるために来たのではないことこそこのところでもはっきりとわかることではありませんか。私たちちが信じることができないものだから、頑なななものだから、悟に遅いものだからこそ、イエスは働いてくださる、イエスの方から来てくださる。だからこそイエス様は語ってくださる。教えるために。信じさせるために。信仰を強めるために。何度でもです。そして、信仰を強めることによって重荷ではなく、喜びと平安を与えるためなのです。そのことがこのところでも見事に重なっています。そして次回のところ、そのことをイエスはみ言葉と聖霊の働きを通して、私たちに働いて導いてくださり、イエスがその信仰の道を、救いの道、そしてその良い働きまでもイエスが与えてくださりイエスが全てを完成させてくださるのです。それが聖書の伝える恵みであり救いの完全さに他なりません。パウロはそのことを伝えています。

8.「おわりに」
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」エペソ2:8〜10
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」ピリピ1:6
 信仰はどこまでも賜物です。神が与えてくださるからこそです。神であるイエスは、今日も私たちのために、私たちに与えてくださった信仰のために、さらなる恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。私たちの安心のために、私たちの救いの完成のためにです。み言葉がそれであり、聖餐もそれです。ぜひ感謝を持って受けましょう。受けることによって恵みが真実であることを実感し、受けることによって救われていることを確信しましょう。そこに平安があります。平安のうちに私たちはここから遣わされていくことができるでしょう。