2017年4月23日


「復活の約束」
ルカによる福音書 24章1〜12節

1.「はじめに」
 イエスの復活は、神から私たちに与えられた圧倒的な希望です。確かに私たちは、この罪の世にあって、様々なことに直面させられ希望を失うことがあります。そして誰もが最後には罪の報酬である死に直面させられます。その「死」は私たちの前に立ちはだかる最後の圧倒的な暗闇であり終わりであり絶望です。しかしそれはイエス・キリストが世に来られ、イエス・キリストが死からよみがえられるまでの絶望でした。イエスが来られたこと、イエスが十字架にかかって死なれ復活されたからこそ、私たちがこの罪と死の世にあって、どんなことがあったとしても、絶えずイエスの新しさに生かされるていくことができるまさに「希望」です。それはたとえ私たちの肉体が死んでもそれでも生きる終わることのない真の希望です。この召天者記念礼拝もその「復活の恵み」があってこそ記念になります。イエスが死んでよみがえったように、主にあって死を迎える者は皆、イエスと同じ復活に与る希望にあるのですから。

2.「新しい週の朝の出来事」
「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓についた。」
 過越の祭は終わり、新しい週を迎えました。前日の夜までは、その過越の祭で起こった異様な処刑、つまりイエスの十字架と、そして太陽が光を失い辺りを覆った暗闇のことが人々の話題となっていたことでしょう。いや13節以下のところにもあるように、その出来事はこの新しい週の朝でも人々は話題しています。そんな十字架の出来事の余韻がまだ強く残っている週の初めです。ここにある「女たち」については10節にある通り、マグダラのマリヤ、ヨハンナとヤコブの母マリア、さらに数人の女性のことです。彼女たちはこれまでイエスについてきた女性たちであり、十字架のもとにいた女性たちでありました。ここで彼女たちは「準備していた香料を持って墓に」やってきます。それは埋葬の時に用い使用するものです。ですから本来はこの女性のように、墓に遺体をすでに埋葬しその墓の蓋をしてしまってから用いるものではないのです。ただ23章の55〜56節にある通りに、彼女たちは「香料と香油を用意して」いたのですが、その日は安息日のために戒めに従って休んだと書かれています。ですので安息日が明けたこの新しい週の朝早くに、そのできなかった香料と香油の処理をしにやってきたということです。そして何よりこのことは、彼女たちが「復活」のことなど何も考えておらず予想もしていないことがわかります。頭の中に全くありません。ただ埋葬の処理のためにやってきたのですから。更に彼女たちはその遺体に会って処理することができるかどうかさえわからない状況です。
「見ると、石がわきにころがしてあった。」2節
 入り口の大きな石です。「転がす」とある通りに、それは複数の男性がころがして動かすもので女性たちが動かせない「石」です。他の福音書では、墓に行こうとしている女性たちが「どのようにして入り口の石を動かそうか」と戸惑っている様子もあります。つまり彼女たちは石が動いているなどとは全く思っていないでやって来ているのです。むしろ二日前に埋葬のために十分にできなかった、しかしこの朝もどうしたらよいかわからない、石が動かせなければ途方にくれるしかない。そのような心持ちで彼女たちはやって来たのです。

3.「死の前に無力な現実」
 この埋葬と女性たちの姿は何を示しているでしょう。それは人間はその死に対すして圧倒的に無力であるということではないでしょうか。たとえ十分な埋葬ができたとして、そして最高級の香料や香油を用意してそれで遺体を処理したとしても、人間の最高の扱い、対処をした、あるいはできたとしても、神が堕落したアダムに言われたように、「人は土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは塵だから、塵に帰らなければならない。」ーその現実は全く変わりません。墓はその現実の場所です。
 そしてもう一つの無力さは、人は決して「死から生へ」と変えることができない。「死んだもを生かす」ということは決してできないでしょう。「墓と閉ざされた大きな石」は、そのことの象徴です。もちろん複数の男性で石を動かすことはできます。しかしそこにある死の現実は変わりません。埋葬の処理を完成させることができてもそれ以上のことはできない。その圧倒的な現実はどこまでもあります。墓の石を動かすことができる男たちも、死んだ人を生き返らせることは決してできないのです。それは現在も変わらない現実であり、難病を直す名医であったとしても、確かに死んだ人、しかも三日も立っている人を生き返らせることは決してできないのです。彼女たちの途方感、無力感、そしてこの墓の大きな石は、死の前の人間の現実を、実に象徴的に表していることを教えられるのです。

4.「イエスはよみがえられた」
 しかしです。まさにその現実が覆る出来事が起こるのです。
「入って見ると、主イエスのからだはなかった。」3節
 イエスのからだはそこにはありませんでした。どこに行ったのでしょうか。誰もわかりません。女性たちは当然ですが途方に暮れるしかありません。しかしそこにです。
「そのため女たちが途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た二人の人が、女たちに近くに来た。」4節
 二人の天の御使いが彼女たちの前に現れるのです。クリスマスの場面の母マリヤもそうでしたが、この当時の人は天使などは見たことがないわけです。ですから天使に出会うということは、私たちが描くようなロマンチックなことでは決してないわけです。母マリヤも恐れを抱いていました。この彼女たちもそうです。「恐ろしくなって、地面に顔を伏せ」るしかないのです(5節)。しかし御使いは彼女たちにこう語るのです。5〜7節
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」女たちはイエスのみことばを思い出した。」
 御使ははっきりと彼女たちに言います。注目したいのは、この御使は、そのことを当たり前のように伝えている点です。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか」と。御使にとってはイエスの復活は決して驚くべきことではないというのです。むしろ墓や死人にイエスを求めるのも、イエスを探すのも全くナンセンスだとさえいうのです。なぜでしょうか?それはイエスは生きているからです。三日前に確かに死んだイエス。ローマの兵隊が、わき腹に槍を刺して、足の骨を折って死んだのを確認しました。アリマタヤのヨセフという議員がその死を確認して埋葬しました。確かに墓の入り口は重い石で閉ざされました。誰がどう見てもイエスは死んだでした。しかし御使は違います。「イエスは生きている」と。「生きているのだから、墓にイエスを探すというのは不思議ではありませんか」と。けれども御使いは、冷静にその理由と根拠を伝えています。「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」6?7

5.「みことばの約束のゆえに」
 ここが大事な点です。御使いはいうのです。これら全ては「イエスがあなたがたに話したことではありませんか。思い出しなさい。イエスは必ず十字架の後、三日目によみがえる、よみがえらなければならないと、言っていたでしょう」そう言っているのです。復活はイエスが、主なる神が約束されたこと。神がなさると約束していたことだったのです。その約束の通りのことが起こってイエスは復活されているのです。イエスは生きておられるのです。決して死んではいない。墓の中にはいない。イエスは生きておられる。なぜなら神はそのように約束してその通りになさったのだから。御使はそのことを伝えていのです。そして女性たちもこうあります。
「女たちはイエスのみことばを思い出した」
 と。彼女たちは「イエスのみことば」を思い出して、そのみ言葉の通りにイエスはよみがえったことに立ち帰らされるのです。大事なことは、このイエスの「みことば」は落ち込んで悲しんでいた彼女たち、途方に暮れ、恐れていたこの彼女たちに、「信仰」を新たにしているということです。そしてその「信仰」は彼女たちの行いや思いを180度、方向転換させているのがわかります。彼女たちの「イエスはよみがえれた」「イエスのみことばの通りであった」というこの信仰は、彼女たちを喜びと希望で満たし、それでもう墓に背を向けて、つまり死の現実に背を向けて、弟子たちのところに走らせているでしょう。

6.「復活の約束の幸い」
 みなさん、このところが私たちに伝えているメッセージは何でしょう。
A, 「復活は神のみわざ」
 第一に、イエス様の復活、それはどこまでも天の神がなさった神のみわざであるということです。先ほども言いましたように、女たちも弟子たちもイエスの死に対して全く無力でした。彼女たちも弟子たちもイエスを死なせないようにも当然できませんし、死んだのを生き返らせることもできません。いやそれどころではありません。心も信仰ももっともっと弱り果てていました。イエスはよみがえると言っていました。しかしそれでも誰一人信じていなかったでしょう。弟子たちに至っては女性たちが伝えた後も信じていません。死に対して力においてもまた心においても、人は無力です。何もなすこともできません。まして死んだものを生かすことなども全くできません。しかしそんな彼女たち、弟子たちのためにこそ、神が、神の方から、全てこの驚くべきしるしを、証しを表しているのがわかるのです。神は死者をよみがえらせることができると。イエスを復活させたのは、まさしく神であるのだと。
B, 「み言葉の通りに」
 第二に、イエスの復活はみことばの約束であるということです。みことばの通りのことを神は必ずなさるのであり、そこにこの復活があるのだと教えられるのです。神はこのことに一貫しています。イエスの誕生の場面でもみことばがあったでしょう。御使いはイザヤの預言を引用してマリヤにイエスの誕生を伝えました。それは神の預言、約束の成就であると御使いは伝えました。それでも疑うマリヤに御使いは「神にとって不可能なことは一つもない」と言いますが、これは創世記のアブラハムへの言葉そのものです。主は約束されたことをなされるという意味です。そしてマリアもこう答えているでしょう。「どうぞ、お言葉の通りこの身になりますように」と。そしてイエスも「みことばの成就として」の神の国の福音を伝え続け、「みことばの力によって」悪霊を追い出したり病気を癒してきました。このように神の言葉は神のわざを行い、神の国を実現し神の国を与える力だとわかります。天地を創造したのも神の言葉であり、人に命を与えたのも神の言葉でした。一貫しています。復活は神のひらめきや気まぐれ、神の突然の心の変化などでは決してない。神だからと当たり前のように湧いて出てきた出来事でもない。復活は約束であり、みことばのわざ、約束の成就なのです。

7.「私たちへの恵みとしての復活」 
A, 「未来の復活の希望」
 だからこそ、このことは現代の私たちへの希望でもあるのです。私たちも死に対して無力です。誰でも死を迎えなければなりません。そしてその死に対して、私たちの心も引き刺されんばかりの悲しみに突き落とされます。しかしこの「復活のイエス」とその「みことば」にあるなら、私たちはそこから希望へと引き上げられるでしょう。なぜなら私たちにイエスは聖書を通してはっきりと約束しています。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きる」(ヨハネ11:25)またこうも約束しているでしょう。第一テサロニケ4章13〜14節
「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスと一緒に連れてこられるのです。」
 このようにイエスとその約束にあるなら私たちはいつでも復活のいのちの中にあります。それは死に打ち勝ったいのちであり永遠のいのちです。私たちにとってイエスにあるなら死は終わりではありません。死んでも生きるのです。約束なのですから。私たちも死んでもイエスと同じように復活するのです。約束なのですから。墓で終わりではありません。墓は空っぽになり、私たちは復活の身体でイエスとそして主にあって死んだ聖徒たちと再会できるのです。神の約束なのですから。
B , 「今の日々新しいいのちの恵み」
 そして、これは未来だけでなく「今の」希望であり平安でもあることを忘れてはいけません。肉体の死からの復活はもちろんですが、信仰と洗礼によってイエスの復活のいのちに私たちが今与っているということは、日々私たちの心、霊は、イエスがよみがえったように新しくされているということに他なりません。「みことば」がそのように「日々生きる私たちへ」の慰めと平安の言葉として語られています。彼女たちがみことばによって信仰が新たにされ、喜びの知らせを伝えに行かせたように、私たちもみことばによって日々新たにされて遣わされています。私たち自身はいつでも弱い罪深いものです。いつでも神の目にかなうものではありません。しかしイエスのゆえに私たちは神に受け入られ、イエスは私たちにいつでもみことばを持って教え、十字架に立ち返らせてくださいます。そして日々「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言って平安のうちに送り出してくださるでしょう。イエスはそのように福音で私たちを平安にし喜びで満たしてくださり世で用いてくださるのです。それもまた復活の恵みなのです。イエスの復活のいのちに生かされている証です。それを与えるのはイエスの言葉、福音に他なりません。それは信仰の聖徒たちが歩んだ道もその道です。私たちもこのイエスのいのちにあって同じ歩みに生かされ行こうではありませんか。