2017年4月16日


「暗闇から新しい朝へ、死からいのちへ」
ルカによる福音書 23章44〜24章3節

1.「闇が覆った」
 イースターはイエスが復活されたことのお祝いです。けれどもイースターは十字架の出来事と別々にはできない一つのメッセージです。なぜならイースターにあるメッセージは「暗闇から光」「死から命へ」だからです。イエスが十字架にかけられた時、辺りが真っ暗になりました。45節には「太陽も光を失っていた」ともあります。この「闇」にはどのような意味があるでしょう。イエスは前にこの「暗闇」を示していました。イエスは逮捕される時にこう言っています。
「あなたがたはわたしが毎日宮で一緒にいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし今は、あなたがたの時です。暗闇の力です。」22章53節
 当時の世界の権力であるローマの総督ピラトは、「イエスには罪はない。イエスは十字架の刑に値するようなことは何もしていない」と三回繰り返していました。しかし見てきましたように、ユダヤ人指導者たちの妬みと憎しみや殺意のあまりの強さと、それによって扇動された民の勢いによって、ピラトはイエスを十字架刑にしました。イエスはそうなることを知った上で、この53節の言葉を語って、されるがままユダヤ人に逮捕されるのですが、ここから始まり十字架上の死に到るまでの時を、「あなたがたの時」といい、そして「暗闇の力です」と言っているのです。イエスが十字架にかけられた時、太陽が光を失い、辺りが真っ暗になったのは、この「罪の力」「サタンの力」「暗闇の力」の時の深まりを意味しているのです。イエスは「暗闇の力」によって十字架にかけられ死のうとしているのです。

2.「十字架は人間の罪を表す」
 聖書が私たちに伝える大事なことの一つは十字架とその意味です。そしてその十字架は「人間の罪」をあらわしています。ユダヤ人指導者たちの妬み、憎しみ、殺意、そればかりではありません。ピラトは正義を司る支配者であり裁判官でありながら、正義よりも、正しい人を無罪にすることよりも、正しい人を有罪にしても自分の立場、メンツやプライドを守ろうとしてイエスを十字架に明け渡してしまいます。周りの群衆はどうでしょうか。彼らも最初は大歓迎でイエスを迎えました。しかし自分たちの期待通りにならないことや、あるいは社会の指導者たちの言葉に扇動されて、正しさに無関心になったでしょう。ピラトが「罪がない」と三度断言してるその人を「十字架につけろ」とピラトが後ずさりするほどに叫んだのは他ならないこの群衆です。それだけでありませんでした。イエスの弟子たちはどうであったでしょう。
 イエスの弟子たちは、イエスが逮捕される前の最後の晩餐で「弟子の誰かの裏切り」を伝えた時に「たとえ他の誰が裏切っても自分は裏切らない、一緒に死にまでも従う」と皆が断言したのでした。けれども実際はどうであったでしょう。弟子たちは、イエスが逮捕された時に、皆、逃げて行ったのでした。弟子のペテロは弟子のリーダーでしたが、イエスの仲間ではないかと言われた時に、彼はイエスを三度「知らない」と言ったのでした。
 このようにイエス・キリストの十字架には人間の罪が表されています。人間の罪がイエスを十字架につけたのです。そのことをイエス様はご存知の上で、「今はあなた方の時です。暗闇の力です。」と言っていることは私たちに訴えるものがあるでしょう。

3.「暗闇はその人間の罪を表す」
A, 「罪人であること」
 ですからこの「暗闇」も、人の罪を象徴しているのです。どうでしょう。多くの人は自分には「憎しみや殺意はない」というかもしれませんが、しかし妬みの思いは誰の心にもあるものです。私の心にもあります。ユダヤ人たちも最初はこの妬みから始まって、そこから憎しみと殺意にエスカレートしました。そしてピラトのような心も誰でも直面することです。正しいとわかっていてもそれを行えない自分。正しさよりも自分の利益、立場、メンツ、あるいはプライドを守ろうとする思い、衝動、弱さ、これも私にはあります。さらには弟子の姿もそうです。私もクリスチャンですからイエスの弟子です。しかしそのイエスの前で立派な決意を立てても、それと裏腹のことをしてしまう自分、イエスを裏切ってしまう不完全な自分、いや不完全どころか、全く罪深い自分がいるわけです。皆さんの心はどうでしょう。自分自身を見つめさせられるところです。
B,「心の闇」
 そしてこの「暗闇」は何よりその「結果」をも象徴的に表しているのではないでしょうか。憎しみや妬み、正義に反するとき、自分勝手な時、あるいはクリスチャンであれば聖書やイエスに反してしまう時、そのような時、心が平安でしょうか。心は晴れやかでしょうか。心は暗雲が覆ったようになり、光を失ったようになり、その罪の心はまさに「暗闇」ではありませんか。そしてそのような「妬み」にせよ何にせよ、その曇った心の解決のためにさらに急場凌ぎでさらなる「妬み」や罪の心で上塗りしようとしても、心に光や「晴れ間」が見えるどころか、さらに心の闇は深くなっていくでしょう。まさにユダヤ人指導者たちが、最初は小さな「妬み」でしたが、その「妬み」がさらに募っていくことによって「憎しみ」や「殺意」に発展して、ついにはピラトが無罪と断言するイエスを十字架につけて殺すのです。「行い」にせよ「心」にせよ、その罪の最終的な結果は「暗闇」だということです。
C, 「死」
 そして聖書にはこの「暗闇」と「罪」についてもう一つの大事な結果と意味を伝えています。聖書には「罪からくる報酬は死である」という言葉があります。どういう意味なのでしょう。聖書は神様の世界や人類への愛と祝福で始まっています。神はそこでは人間に命を与え、祝福しました。その神と人の関係は、愛の関係です。神は人を愛し、人も神を愛し、信頼し、神の言葉によって安心するように生み出されたことを聖書は伝えています。しかし、その愛と言葉に背いていき、祝福を放棄し、神はいないものとして自分自身を神としていったのが、人間の堕落の意味であり、それが聖書の伝える罪の本当の意味です。そのことに対して神は怒り、本来の神との関係を失った人間は死ななければならないと、その運命を伝えました。しかしそれでも神は「そのように死んではいけない」と、人間を見捨てず愛と憐れみを表し続け、神に帰ってくるように働きかける神であることを記しているのが聖書なのです。ですから聖書は実は裁きのメッセージではなく、神からなおも変わらず愛しているから「罪を悔い改め、帰っておいで」という和解と愛のメッセージなのです。けれどもそれに応えなければ、受け止めないなら、拒み続ければ、それはそのままでしょう。罪の心が導く先が暗闇であるように、罪の状態の行き着く先、神に立ち返ることなく人は死んでいくなら、それはどこまでも死のまま、暗闇のまま、暗黒でしかない。この暗闇はその闇でもあります。

4.「暗闇の意味:イエスが負われている十字架」
 しかし最も大事な点ですが、この「暗闇」にはもう一つのさらに大事な意味とメッセージがあります。それはイエスが「その全て」をそのまま受け止めて、その身に追われて十字架にかかっているという事実からくるものです。イエスは「今はあなた方の時です。暗闇の力です」と言って、「されるがまま」「身を任せ」逮捕されました。全てこの後、何が起こるかわかった上で、そのことを全て受け止めたのです。その前には有名なゲッセマネの祈りもあります。そこでもイエスはこの十字架に至るまでの苦しみと死をご存知の上でこう祈っています。
「みこころならば、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22章42節)
 と。これから自分に起こることを全て知った上で、全てを神に委ね、お任せしている祈りなのです。その祈りと似たような意味の言葉が今日のところにもあるのです。イエスが死ぬ時の最後の言葉として書かれていますが、
「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」23章46節
 このようにイエスは、この十字架、人々の罪によるこの苦しみ、十字架、死を、神のみ心として全て受け入れているのです。聖書ははっきりと記しています。救い主は、私たちを「罪から」救うために来られると。あるいは「罪を裁くためではなく、その罪から救うためである」と。さらにはその「罪の贖いとなるため」とも。この「贖い」というのは、「代価を支払って買い戻す」という意味です。つまり、救い主は、買い戻すための「代価として」来られるということを、聖書はずっと伝えてきました。それがこの十字架のイエスに重なっているのです。どう重なっているでしょうか。それは救い主であるイエスが、罪から、暗闇から買い戻すための代価となったということに他なりません。「代価」ですから、その罪も、暗闇も、そしてこの十字架も、それは本来は罪ある私たちが負うべきものでした。「暗闇」がまさに私たちの罪ある心の結末を表していると見てきたとおりですね。全ては私たちが負うべきものでした。しかしイエスはその代価となられると言います。この「暗闇」も、そしてこの「十字架」そして私たちの神に対する「罪」の全ても、それは私たちを表していると同時に、その十字架にかかるイエス様が全てを代わりに、負ってくださっているということなのです。そしてこうあるのです。
「イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」
 その代価は完全に支払われたのです。その代価が支払われたからこそ、何が私たちに起きるでしょう。私たちは罪から、暗闇から買い戻され、神の怒り、裁きは取りされたのです。ですから、十字架の意味は、人間の罪を表すと同時に、その罪の赦し、罪からの救いこそを何よりも意味しているのです。神の前にあって罪があってはいつまでも闇です。死の先にあるのは光ではなく「闇」です。救いはありません。しかし十字架こそその解決、答え、解く鍵です。私たちの心の真の晴れ間、平安は、この十字架にこそ、イエス様にこそある、これが聖書の何よりの私たちへのメッセージです。

5.「そして復活:暗闇から新しい朝へ、死からいのちへ」
 そしてイースター、復活は、そのことがまさに私たちに実現することの神からの証しでありメッセージです。まずイエスの死はユダヤの議員であるアリマタヤのヨセフが死を確認し、葬るための様々なことを行い、彼がイエスの死んだ体をまさに葬ったということを伝えています。そしてその出来事を55節にあるように、女たちも見届けたともあります。死は明らかでした。イエスは死んでいなかったという人もいますが、しかしもしイエスが死んでいないなら聖書の伝えるメッセージが全て矛盾しますし、贖いも、代価も、罪の赦しも、皆、辻褄が合わなくなり、私たちと何ら関係なくなります。しかしこのことは本当に、イエスは確かに罪の報酬である死を負われ、暗闇のどん底にまで落ちたことをこのところは示しています。しかしです。
「週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料をもって墓についた。見ると、石が墓から脇にころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。」1?3節
 三日目の朝の出来事でした。墓は空っぽだったのです。イエスの遺体はありませんでした。イエスは最後の晩餐で十字架の出来事を伝えた時に、死んで三日後によみがえるとも約束していました。その通りのことが起こったことをこのところは伝えています。これが、十字架と復活、イースターの出来事に他なりません。このことは一体何を伝えているでしょうか。
A, 「朝は来て太陽は再び光を」
 第一に、暗闇は過ぎ去っています。朝は来たのです。日が陰り光を失っていた太陽は再び光を放っています。みなさん、暗闇は終わったのです。過ぎ去ったのです。
B, 「埋葬は必要なくなった:贖いは完了した」
 そして第二に、それは準備していた香料はもはや必要なくなりました。墓は空いていました。遺体はありませんでした。墓は空っぽでした。これは何を意味しているでしょう。死は過ぎ去り、死は打ち負かされたのです。それは「罪からくる報酬の死」の終わりです。つまり、罪の贖いは完了したという意味です。墓は空っぽだったということは、私たちの罪の赦しの確かさです。罪は贖われ、代価は完全に支払われ、罪は完全に赦されたのです。十字架でそれは果たされ、このように空っぽの墓、復活のイエスで、それは「私たちのところへ」ということが明らかにされているのです。
C, 「罪から罪の赦しへ」、「闇から光へ」、「死からいのちへ」
 そして第三にそれは「罪から罪の赦しへ」、「闇から光へ」、「死からいのちへ」がイースター、イエスの復活の意味なんだということです。聖書にはこうあります。
「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」第二コリント5章17節
 古いもの、罪の状態、暗闇、死は、十字架と復活のイエスにあって全て過ぎ去ります。それらはイエスが全て負ってくださるだけでなく、イエスによって過ぎ去られ、そしてイエスが全く新しいものとしてくださるのです。復活はそのイエスのいのちと新しさが私たちへ、私たちも死からいのちへと、新しいいのちをまさに私たちに約束しているのです。

6.「おわりに」
 聖書は、洗礼を受ける時に、誰でもこの十字架の罪の赦しが宣言され、そして誰でもこの復活の「新しいいのち」が与えられることが約束されています。それはイエスが約束している通り、一時ではない、なくならない、本当の平安を与えるものであり、死んでも生かす、死んでも暗闇ではなく光へと導く、いのちだと約束しています。ですからイースターは救いの時です。誰でもここに招かれています。この十字架と復活において、神はイエス・キリストにあって私たちをも神に帰るようにと私たちを招いているのです。