2017年4月9日


「父よ、彼らをお赦しください」
ルカによる福音書 23章26〜43節

1.「まことに私たちと同じくなられたイエス」
 イエスは重い十字架を背負わされ「ドクロ」と呼ばれている「ゴルゴタ」へと向かっていきますが、途中クレネ人シモンがイエスの代わりにその十字架を背負って運んでいきます(26節)。クレネは今のリビアで、当時は北アフリカにも多くのユダヤ人がいて、過越の時期になると、そこからエルサレムに巡礼に大勢の人がやってくるのです。イエスの十字架を背負うクレネ人シモンは、よく「私たちの側から神へ」の敬虔さの例として語られることがありますが、このところにはそのような意味はありません。むしろこのところは、私たちと同じ、肉体、人となられたイエスこそ何よりの意味があります。「人となられたイエス」は決して超人ではありません。「神だから」と痛みも苦しみもなく、あるいは私たちより少し痛みが軽い状態で、十字架を背負って行ったということはありません。まさにその重い十字架で、途中でもうフラフラになり負っていけないほど、ローマ兵がシモンを召し出して代わりに負わせなければならないほど、イエスの肉体はボロボロであったことをこのところは伝えています。つまり神である方がまさに人となられ、その身体にいくつもの重い傷、痛み、疲労など、壮絶な肉体的精神的苦しみを本当に負っていることをこの記録は私たちに証ししているのです。むしろ私たちは十字架の苦しみを負うことなどできません。シモンは確かに運びはしました。しかしシモンが十字架にかかるわけではありません。シモンはイエスが人となられ肉体の壮絶な苦しみと不完全さを負っていることを私たちに示すために用いられた一人に過ぎません。神である方がまさに人間になった、そして肉体をとられ、このイエスが、その肉体が、十字架にかけられるのだということです。

2.「エルサレムへの涙、嘆き」27〜31節
「大勢の民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスの後について行った」
 イエスを見て嘆き悲しむ女たちは、イエスにいつもついて行っていた女性たちのことをさしています。しかしイエスは彼女たちにこういうのです。28節以下ですが、
「しかしイエスは、女たちの方に向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子供達のことのために泣きなさい。なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』という日が来るのですから。その時、人々は山に向かって、『我々の上に倒れかかってくれ』と言い始めます。彼れが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょうか。」
 イエスはいったい何のことを行っているのでしょう。ドクロと呼ばれるところは、エルサレムの門の「外」です。イエスはエルサレムを「出て」そこに向かっているのですが、そのイエスがエルサレムを「出るとき」に、「涙」、「泣く」、「悲しみ」ということをイエスは口にしてのです。ではエルサレムに「入るとき」に何があったのかを見るときに、実は、同じことを見ることができます。
「エルサレムに近くなった頃、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。『おまえも、もし、この日のうちに平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。そしておまえとその中の子供たちを地に叩きつけ、おまえの中で、一つの石も他の石の上に積まれたままで残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」19章41節
 こうあるのです。エルサレムに「入ろう」という時、この時は群衆は大歓迎でした。しかしイエスご自身は泣かれています。エルサレムのためにです。「主の都エルサレムが救いの時を気づかない。そればかりか、エルサレム、特に神殿が破壊される時がやって来る」ーイエスはそのことを未来に見て泣いていました。それは具体的には近い将来に起こるユダヤ人蜂起に対するローマ軍の進行と鎮圧のことを指していると言われています。そして大事な点としてイエスはその歴史的な出来事は、必然というよりは「エルサレムが平和の到来を知らないがゆえに」起こることだと語っている点です。彼らはメシアを待ってはいても、霊的なものに盲目になり、地上の政治的なことばかりに期待していました。ですからイエスにも革命を期待している人は大勢いましたし、だからこそイエスの十字架はその人々にとっては失望にもなりました。ゆえに彼らは救い主イエスを悟ることができませんでしたし、霊的な平和、魂の真の平安もまさに知らなかったわけです。地上のメシアと目に見える繁栄を追い求めていたからこそ、そのような民衆が、やがてローマへの武力放棄に走るというのも繋がります。イエスはそのことを言っています。この19章でも子供のことを言っていますが、23章でも同じように女性や子供達に起こる悲惨を預言しています。事実そのエルサレムの崩壊、神殿の破壊の時には大惨事になり被害者は女性、子供でした。そのことをやはりイエスはここで指し示しています。そのことの方が悲惨だと。嘆きであり、涙であると。
 このイエスの言葉も意味深いです。自分が負っている十字架の苦しみと死。イエスはそれ以上に、真の平和の到来を知らないこの地上の人々の現実こそ、十字架の苦しみや死以上に深刻な嘆きであると示しています。神の目にあってはそうであるのです。十字架は確かに苦しみと死です。しかし神の目にあっては、そのイエスの十字架の死は、世の罪の赦しでありいのちとなるでしょう。それは「世界の救いと平和のための」十字架の苦しみであり死です。しかしその真の平和、霊的な平和を知らないことは何と悲惨で希望のないことであるのか、その結末は何と悲惨であるのか、イエスはここで示しているのではないでしょうか。そしてそれはイエスはご自身ではなく、世の「私たちを」どこまでも見ていて、ご自身にとってではなく、「私たちにとって」、いったい何が良いことであるのか、何が大事なことであるのかを教えてくれているとわかって来るのです。21章のところでもありました。どんなに豪華絢爛な神殿であっても、崩れずに残ることはないとイエスは言いました。しかしその時、イエスはいつまでも変わることのない神の本当の救いの恵みである、神の国の福音、つまり、イエスに、イエスの十字架に開かれる真の平和の国こそを語り続け、そのことを知ることこそ何にも勝る幸いであることを伝えてきました。今この時、このところ、この言葉でも、イエスはその真理と恵みを語っていることが伝わって来るのです。

3.「父よ、彼らをお赦しください」
 そのようにしてイエスは「ドクロ」と呼ばれる場所、いわゆるゴルゴダの丘で二人の犯罪人と一緒に十字架にかけられるのですが、その十字架上でイエスはこう祈るのです。この祈りはまさにその真理と福音を証しています。
「その時、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」34節
 何という深い神の愛がここにあるでしょう。イエスは、その自分を痛めつける相手を「何をしているのかわからないのです」と擁護して、そして彼らを「赦してください」と祈っているのです。ヨハネ3章17節はここにも証しされています。裁く祈り、言葉、叫びではありません。罪を責めるのではない、それは「わからないからだ」と、「盲目だから」と、言ってくださり、だから「その罪を赦してほしい」、それがイエスの変わることのない思いなのです。イエスは「主の祈り」を教えてくれました。そこでも神が赦してくださるのだから、「罪を赦してください」と神に求めるように教えました。そしてその教えは、ステパノにも受け継がれます。彼も石打ちの刑を受け、死ぬ間際、叫んでいるのです。
「そしてひざまずいて、大声で叫んでこういった。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」使徒の働き7章60節
 ステパノは最初の殉教者でした。しかし彼は「革命の心」で、ローマへの武力蜂起で死んだのでも、ローマの攻撃で死んだのでもありませんでした。まさに「イエスの心」「福音の心」で死にます。そしてその死の直前に、彼は「天が開け、人の子が神の右に立っておられる」を見た(使徒7:56)と天の御国を証ししていることも書かれているでしょう。つまりこの迫害と死の状況でステパノは、そのようにイエスが指し示した「エルサレム崩壊の時の嘆きの側」にいなかったことがわかります。彼は真の救いの訪れ、神の国の到来、そして真の霊的な平和をまさに知って死を迎えています。その彼がイエスと同じようにいうのです。
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」
 これは福音を知り生かされているものの応答です。イエスの十字架が示す福音、神がイエスの十字架を通して私たちに与えようとしている神の国、それはまさに
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
 にこそ現れています。それは罪人が、このようにイエスの弁護で、イエス様の身代わりで、罪の赦しに与ることそのものだということです。それが愛であり福音です。ステパノの祈りはまさにそこから出ているからこそです。むしろ罪の赦し、義認以外のものを福音に置き換えることは決してできません。それはイエスの思いを損ない、十字架を無駄にすることになります。しかしいつの時代も、罪の赦しや義認は耳に優しくないからと、福音を別のものに置き換えようとする教えはたくさん出てきました。今もあります。しかしその教えは結局は人々、クリスチャンを平和、平安にはしませんでした。律法的なクリスチャンにズレて行かせ、心を重荷で疲れさせました。いや人間は罪の性質ゆえに、その律法的な教えの方が一瞬、一時、心地良く思えたり、目に見えて合理的なように思えてくるものです。しかしそこにイエスが与える平安はありません。しかしキリスト教の歴史はいつもそのような間違いの繰り返しです。しかし聖書を通してイエスはこのように変わることのなく福音を私たちにいつでも語っています。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」
 と。その祈りの通りに、神は十字架を通して私たちに罪の赦しこそを今日も与えてくださり平安のうちに遣わしてくださいます。その具体的な出来事が39節以下の出来事です。

4.「イエスは、神の国はどこに?」
 イエスと一緒に十字架に架けられている二人の犯罪者。一人はイエスに悪口を言います。周りの群衆の罵る声と同じですが、
「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」39節後半
と。しかしもう一人はこう言います。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。我々は自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになる時に、私を思い出してください。」40節後半から
 この二人は、かつてイエスさまの語ったパリサイ人の祈りと取税人の祈りと重なります。18章9節以下ですが、パリサイ人は自分は何も悪くないと自分の行いを沢山あげて誇り、逆に取税人の罪深さを蔑みます。しかし取税人は天を見上げず胸を叩いて、罪深いものを憐れんでくださいと祈るだけでした。どちらが神の前に義と認められて帰ったとイエスは言われたでしょう。それは取税人でした。
 この場面。最初の罪人は、やはりパリサイ人のように自分の罪を見えていません。だからこそ人を裁き批判し、人に責任転嫁しています。しかしもう一方の犯罪人は、自分の罪深さを知っています。そして「助けてください」と言わないで、「思い出してください」と神の憐れみを求めているのがわかるでしょう。その彼に対するイエスの答えです。
「イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」43節
 神がイエスを通し、十字架を通して与えてくだる救い、神の国、真の平和、平安は、それは罪の赦しです。義認です。しかしそれは自分が神の前にあっていかに罪深いものであるかが痛いほど、刺さるほどわかり、苦しんでいる時こその光です。罪を避けたり隠したりする時にではなく、罪を悔いる時にこそイエスはそこにおられ、神の国がそこにあり、福音はいのちとなるのです。イエスは言っているでしょう。「心の貧しいものは幸いです。神の国はその人のものだから」と(マタイ5:3)。事実その通りに、罪深い取税人たちはイエスとの食事でその福音、罪の赦しに触れ喜んで安心したのです。それが神の国です。本当の平安です。
 ですから、私たちが聖書を通して、律法を通して、罪を示される時、幸いです。その時は、苦しみがあります。痛みがあります。嘆き苦しみがあります。しかしその全てを負ってイエスが十字架で死んでくださり、何よりそこに「彼らの罪を赦してください」の祈りが成就しているからこそ、そこにこそイエスはおられます。そこにこそ福音の輝きと希望があります。私たちはそこに十字架に福音を見、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」のイエスの言葉によって、福音によって、罪の赦しと平安が与えられからこそ、確信と平安のうちに行くことができるのです。それが救いです。それが世にあっての「神の国」の素晴らしさです。私たちはそのことに与っているのです。このイエスのゆえ、十字架のゆえに。