2017年3月19日


「ペテロを見つめるイエス様」
ルカによる福音書 22章54〜62節

1.「はじめに」
 弟子のペテロがイエスを三度、否定する。この出来事は、聖書の中でも有名な箇所で、クリスチャンでない方でもよく知っているエピソードかもしれません。けれども聖書がそのことをこのように記して私たちに伝える本当のメッセージは何でしょうか。それは「ペテロのように否定してはいけない」「裏切るな」、「従うなら完全に従え」というような「命令」、あるいは「道徳の教え」なのでしょうか?人の目から見るならそう見えるかもしれませんし、そう理解しやすかもしれません。けれども神の目、イエスの目は一体どう見ているでしょう。そこに聖書が私たちに伝えることは、そのような道徳や裁きではない、むしろ神からの慰めと平安のメッセージがそこにあるのが見えてくるのです。
 まずこのところはこの前のところから続いている出来事です。イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にした後、ゲッセマネという静かなところで祈っている時に、イスカリオテのユダという弟子が神殿に仕える祭司長たちの家来を連れてやってきます。イエスを逮捕するためです。ユダはイエスを裏切って、金のためにイエスを売ったのでした。その逮捕の時、弟子たちはなんとかイエスを守ろうと、剣で捕らえにきた人々に抵抗しました。その弟子のふった剣で一人の衛兵が耳を切り落とされます。しかしイエスはそんな弟子たちに剣を収めさせ、その衛兵の切り落とされた耳を癒してあげました。そしてイエスは捕らえにきた人々に抵抗せずに「今はあなた方の時です。暗闇の力です」と言って、何も悪いことをしていないのですが、彼らのするままに逮捕されるのです。

2.「一緒にいたと指摘されるペテロ」
「彼らはイエスを捕らえて、引いて行って、大祭司の家に連れてきた。ペテロは遠く離れてついて行った。」
 逮捕されたイエスは「大祭司の家」に連れてこられます。当時の大祭司、カヤパという人物ですがユダヤ教の礼拝を司るトップです。22章の初めのところにあるのですが、彼やエルサレムのユダヤ人の長老たちや宗教指導者たちは、イエスをどのように逮捕して殺そうかと考えていましたから、まさにそのことを実行したわけです。彼らはまずイエスを尋問するためにこの大祭司の家に連れてくるのですが、弟子の一人、ペテロはその後をついていくのです。他の福音書を見ると、他の弟子たちはみな逃げてしまったともあります。イエスが逮捕されて怖くなったわけです。ペテロはついていきますが、堂々とではありません。「遠く離れて」とあります。ペテロも恐る恐る、ついて行ったわけです。そして彼もその大祭司の家に入り、中庭にまでくるのです。そこで55節
「彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわりこんだのでペテロも中に混じって腰をおろした。」55節
 中庭には火がたかれ、その周りに捕らえに来た衛兵やその家の使用人たちが腰を下ろすのです。それに混じるようにペテロも腰をおろしたのでした。そんな中です。
「すると、女中が、火あかりの中にすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人もイエスといっしょにいました。」56節
 女中の一人がそのペテロを見つけ見つめます。そしてペテロを指して「この人はイエスといっしょにいた人だ」と言うのです。そう言われたペテロですが、ペテロはこの少し前、33節でイエスがペテロが否定することを前もって示唆した時にこう言いました。
「シモンはイエスに言った。「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、市であろうと、覚悟はできております。」33節
 と。他の福音書でもこうあります。マルコの福音書では
「たとい全部のものがつまずいても、私はつまずきません。」(14:29)、「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたをしらない、などとはも決して申しません。」皆のものもそう言った。」(14:13)
 ペテロはこう言ったのです。他の弟子たちもそう言ったとあります。ですから、そう言っていたペテロですから、ここで女中に「この人はイエスといっしょにいた人だ」そう言われた時、その決意と言葉の通りに堂々と、「そうだ。私は一緒にいた弟子だ」と言うはずです。しかしです。57節、こうあります。

3.「否定するペテロ」
「ところが、ペテロはそれを打ち消して「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。」57節
 ペテロは打ち消して「知らない」と言うのです。この後さらに続きます。58節、他の男も言います。「あなたも、彼らの仲間だ」と。ペテロはそれに対しても「いや、違います」と言うのです。2回目の否定です。さらにです。
「それから一時間ほど経つと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。」59節
 3度目は一時間も時間が経ってからです。ですから、ペテロは冷静に理性的になることもできたはずですが、そこで3度目の「このイエスといっしょだった仲間だ」と言う証言がくるのです。それに対してペテロはどう答えているでしょう。
「しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。」60節
 ペテロは三度目も、イエスといっしょにいたことを打ち消すのです。そればかりでなく、「その質問を理解できない。なんのことかわからない」とさえ言うのでした。ペテロは三度、イエスを知らないと言うのです。実に、彼の「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、市であろうと、覚悟はできております。」「たとい全部のものがつまずいても、私はつまずきません。」(14:29)、「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたをしらない、などとはも決して申しません。」(14:13)と言った決意、言葉。それらは、全くその通りにはならなかったのです。

4.「この出来事は律法?道徳的教訓?」
 このことは一体何を伝えているでしょう。それは人の決意の脆さ、弱さ、人の言葉の不完全さです。しかしこの記録は、単に道徳的教訓や、聖書の言葉で言うと、読むものに戒めを迫る律法として語られているのとは違います。「このペテロのようではダメだよ。ペテロのようではなく、あなたはどんな状況でも「知らない」と言わない、強い意志を持ちなさい。意志を持って言葉を実行しなさい。」ーそのようなことを言っているのではないと言うことです。これはルカという弟子の一人によって書かれていますが、書かれた当時にはペテロは教会の監督でした。しかしルカは教会の監督が聖人だとか立派な様をあげつらうのではなく、むしろ「あからさまな人間のそのまま」を記録して伝えていることがわかります。「人とはみなこのようなものである」と。ペテロのような今や監督と呼ばれる人間であっても、どんなに立派な決意や言葉がその口や行動にあったとしても、しかし人は、神の前にはどこまでも不完全で、弱い存在である。ルカはまずそのことを明らかにしているのです。
 そしてそのことを踏まえてルカはイエスのどんなメッセージを私たちに伝えているのでしょうか。この後、読んでいくと見えてきますが、60節の後半から、
「それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。」
「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う。」と言われた主の言葉を思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。」60節後半〜61節
 この場面は、激しい、ペテロの涙で終わっています。ここでも一人の人間、ペテロという人が見えてきます。彼は立派な決意、意志、言葉、リーダーシップがありながらも、イエスの十字架の前に、恐れ、イエスを否定します。イエスが負おうとしていることの前に、彼は恐る恐るついては行きましたが、共に負うことは何もできませんでした。三度否定し、イエスのいる大祭司の家を出て、そして激しく泣くことしかできませんでした。それはまさしく、彼は一人の人間、弱い不完全な人間、罪深い一人なのです。ペテロの記録はそのことを私たちに明らかにしています。そして弟子たちも皆逃げ去ったわけですから、イエスの弟子であってもそうであるし、その弟子たち、ペテロの姿は、イエスの弟子の姿そのもの、つまり現代のキリストの弟子である私たちクリスチャン一人一人の姿、わたし自身の姿でもあるということを伝えているのが、このところに他なりません。

5.「イエスの眼差しが示す神の愛」
 そして、それが道徳や律法、あるいは教訓や反面教師の教えではないことは、そのイエスの眼差しとイエスが本当に前もって語っているその言葉からわかるのです。それは22章の34節、ペテロが「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と言ったのに対してイエスがいうのですが、
「しかしイエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
 イエスは前もってそのことを伝えていました。ペテロの言葉、決心はなりませんでした。できませんでした。けれどもイエスの言葉はその言葉の通りになることがわかるのです。この箇所のペテロの涙はまさにそのことを思い出した涙です。イエスが言った通りであったと。しかし重要なのはその前の言葉です。そこではイエスはこんな大事なことも言っていました。32節ですが31節から読みます。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」31節
 このように弟子たちが皆、裏切り逃げることをわかって示唆している言葉なのですが、この後ですがこうあります。
「しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」32節
 みなさん。ペテロが三度否定し、鶏が鳴いた時に、ペテロを見つめたイエスのその眼差し、ペテロはそこに何を悟ったのでしょう。「イエスの言った通りであった」。ーまずそのことです。「自分はなんて弱い、愚かなものであろう。」ーそのことも悟ったでしょう。しかしそれだけではありません。イエスは全てを知っていた。あんな立派な決心を建てたとしても裏切り、三度知らないということもみんな知っていた。しかし知った上で、知っていても、イエスは、ペテロを責めるのでも裁くのでもない、何をしたでしょう?
「しかしわたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 と言ってくださったででしょう。神にとりなしを祈ってくださったでしょう。「立ち直ったら」と見ていたでしょう。そして、他の弟子たちを励まし、慰め、力づけるようにと召してくださったでしょう。ペテロはそのことを何よりも思い出し泣いたのではないでしょうか。実にそのイエスの眼差しには、その言葉の通りの思いが溢れているのです。裁くためではない、責めるためでもない。まさにあからさまにされた人間の現実、弱さに打ちひしがれたどうしようもない魂、そのものを、イエスは、へし折り打ちのめすのではなく、むしろ受け入れて、むしろそこから立ち直るように、さらには、周りの同じように失敗した人々を慰めるように遣わすイエスの思い、愛、眼差しではないでしょうか。このところには、そのイエスの思いが溢れています。ですから決して道徳の教えではありません。律法でもありません。教訓や反面教師でもないのです。私たちは神の前ではどこまでも弱く、不完全です。神の前ではどこまでも罪深い一人一人です。しかしそのことを受け止めてくださる。そのまま受け止めて、祈ってくださる。そのイエスが私たちの救い主なのです。

6.「十字架はその愛と救いの完全な実現と証」
 十字架はまさにそのことのはっきりとした証であり、実現であることを聖書は何よりも伝えています。十字架は、本当は、私たちが受けるべき刑罰でした。しかしそれをイエスが負われたと聖書は何よりも伝えています。それはイエスが代わりに十字架にかかって死に罰を受けることによって、神は私たちを罪に定めない。イエスを罪に定めたから、私たちをもう罪に定めない。罪の赦しを与え、そしてペテロのための祈りのように、罪を犯しても、むしろそれを責めるのではなく、悔い改めを起こさせて、罪の赦しを与え、安心させ、立ち直らせようとしている、それがイエスと十字架にも表されている神のメッセージです。私たちを裁くためではなく、罪の赦しを与え救いたい。それがイエスの眼差しに込められている思い、願いなのです。
 このところは、そのように私たちをこのイエスの愛の眼差しに招いています。ペテロの全てを知った上で受け入れておられるイエスの素晴らしい愛。そのための十字架。それは私たちのための十字架であり、イエスは私たちのために存在しています。裁くためではない、責めるためでもない、重荷を負わせルためでもない、罪を赦すことによって、私たちに平安、安心と、喜びと希望を与え、立ち直らせるため、遣わすためです。これは全ての人々のためにです。誰でも信じて受け取るだけでいいのです。誰でもそこに新しいいのちのあゆみは始まります。ぜひ受けましょう。