2017年3月12日


「捕らえられるイエス」
ルカによる福音書 22章47〜53節

1.「イスカリオテのユダが先頭に」
「イエスがまだ話しておられる時、群衆がやってきた。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけをしようとして、みもとも近づいた。」
 イエスと弟子たちのいるそのゲッセマネに「群衆」がやってきます。その「群衆」は、52節にあることからわかるように、祭司長、宮の守衛長、長老たちでした。その先頭は「十二弟子のひとり、ユダ」でした。「イスカリオテのユダ」です。この22章はその祭司長たちとユダの計画から始まっていました。2節では「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた」とありました。そのところに、サタンがユダに入り、4節でしたが、ユダはその祭司長たちや宮の守衛長たちのところに行っていました。イエスを引き渡す相談をするためでした。そこで祭司長たちは喜んでユダに合意し、ユダにお金を渡す約束をしていました。そして6節でしたが、ユダは、群衆のいない時にイエスを彼らに引き渡すことを企んでいたことが書かれているのです。
 ですからこのところはその時がきたということです。ユダは、イエスの弟子の一人ですから、イエスがいつもこの静かで寂しい人のいない場所で祈っていることを知っていたことでしょう。ですから、この時こそイエスを売り渡す時だとユダは考えたことでしょう。「先頭に立って」やってきたのですから、ユダが「ここにイエスはいる。この時こそ逮捕するにちょうど良い」とリードしてやってきたことがわかるのです。
 しかしユダの行動ですが、ユダはイエスに「口づけ」をしようとするのです。口づけは、当時の親しい間柄の親愛を伴った挨拶です。彼は裏切ってイエスを売り渡すためにやってきたのに、イエスに「口づけ」しようとしたのです。これはマルコの福音書14章に書いていますが、ユダは前もって祭司長たちと、自分が口づけをする人がイエスだと、逮捕するための合図と決めていたことでした。そのために彼は愛情の挨拶を用いることを決めていたわけですが、このことはまさに「ユダの偽善」を示しているのです。おそらく弟子たち同士の間ではユダが影で裏切りお金をもらうことなど誰も知らないわけですし、この場でも彼は公然とこの人だというのではなくて、むしろ挨拶のような形で逮捕する人を示すことによって裏切る行為を明からさまにしないようにしたと思われます。
 しかしイエスには全て明らかであるのです。
「だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。」48節
 イエスは最後の晩餐の席でも言っているように、誰が裏切るかは明らかにわかっていました。そして「口づけ」というその親愛の行為をもって裏切るための手はずを整えていたことも知っています。まさにイエスは全てを見抜いてその偽善性をユダに伝えるのです。

2.「イエスの逮捕にある神のみこころ」
 イエスの祈りを思い出してください。イエスは
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心の通りにしてください。」
 と祈りました。他の福音書では、その祈りを三度繰り返しています。このユダがやってきたのはその直後です。どうでしょうか、イエスの父なる神への祈りに対する「神の答え」は。神はこの愛する御子イエスのこの祈りを聞いています。そしてイエスの願う通りに「杯を取りのけることができる」お方です。けれどもユダはやってきます。殺意の溢れた祭司長たちとともにです。神は、そのユダにサタンが入ることも、祭司長たちが殺意のままに行動することも、そしてこのゲッセマネに逮捕するためにやってくることも止めることができました。いやまさに愛する一人子、キリストのために、天の軍勢を送り、イエスを殺そうとするもの、サタンさえも滅ぼすことができるのです。けれどもそれをされなかった。まさにユダと祭司長たちが逮捕するためにやってきたということには、そこに一つの大事な神の御心が示されていることがわかるのではないでしょうか。
「しかし、わたしの願いではなく、御心の通りにしてください。」
 神の御心は、天の軍勢を下しイエスを受け入れず殺そうとするものを滅ぼすのではなく、イエスを逮捕させ、苦しめ、刺し通し、十字架で死なせることにあるのだと。イエスの祈りへの神の答え、御心がここにあるのだということがわかるでしょう。

3.「剣による神の国でなく」
 それに対して弟子たちの思いは、なおも逆を言っているというか、対照的であることがわかります。イエスはこの状況を52節で「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒をもってきたのですか。」と言っています。祭司長、守衛長たちは、そのような装備、態度でイエスのところにやってきたのですから、弟子たちもその物々しい状況から祭司長や守衛長たちはイエスに害を加えにきたとわかったのです。
「イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で撃ちましょうか。」と言った。そしてそのうちのある者たちが、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。」49〜50節
 弟子たちにとって、この状況への答えは「剣」でした。剣、暴力で、イエスを守ること、それが彼らが真っ先に考えた事、いや、一人はすぐに行動に起こしました。大祭司のしもべに剣で切り掛かり、その耳を切り落としたのでした。
 弟子たちにとってイエスは約束のメシアではありました。しかし彼らにとっては、ローマからの圧政からの革命的な独立、あるいは地上においてイエスをダビデのような政治的な王とすることによって、かつての黄金のイスラエルのような繁栄を神の国に見ていました。ですから、イエスを受け入れない村について弟子たちは、「天から火を呼び下して焼き滅ぼしましょう」とか、あるいは地上の権威や地位に溺れ、「イエスの右と左の座に自分を置いて欲しい」とか、「誰が偉いか」とかの議論に終始していたのです。そのことが、この「剣による解決」にも表れているでしょう。
 けれども、それは最初に見た、ゲッセマネでのイエスの祈りへの神の答えとは全く逆であることがわかります。父なる神は杯を取り除けませんでした。イエスの「取りのけてください」の通りにするのでもなく、イエスを殺そうとする人々に対して、天の軍勢も送りませんでしたし、天から火もふらせませんでした。究極的には、もしイエスの飲むべき杯が取り除かれていたなら、私たち全人類が、神から見捨てられ、あのソドムのように、天からの硫黄の火によって滅ぼされたように滅ぼされたことでしょう。
 けれども神はそれをしなかったでしょう。天の軍勢も、天からの火も送らず、イエスから杯を取り除かず、イエスを逮捕するものを送ることをそのまましたのです。それは十字架に従わせるためです。それはまさに人の行い、わざ、剣によって、暴力によって、革命や武力蜂起によって神の国を実現することへの明確な否定であるでしょう。十字架に従わせることが父の御心であると現されたのですから。ですからイエスのこの後の言葉と行動は、実にこれまでと一貫しています。

4.「救うために」
「するとイエスは、「やめなさい。それまで」と言われた。そして耳にさわって彼をいやされた。」51節
 イエスは弟子たちの行為をやめさせます。そしてその耳を切り落とされた大祭司のしもべの耳にさわって癒してあげたのでした。そのしもべは自分を捕らえにきた一人です。イエスにとっては彼は自分への殺意に満ち殺そうとしている大祭司のそのしもべです。俗的に言えば敵の一人です。しかしイエスにあっては目の前の痛み、苦しみ、悲しんでいる、いやおそらく耳を切り落とされて、怒りや憎しみや復讐心があってもおかしくないその相手であっても、どこまでも癒しの対象、憐れみの対象、救いの対象なんだとイエスは見ていることがわかるのです。しかもこの逮捕されようというこの危機的状況にあってもです。
 神がイエスを遣わした、私たちに与えてくださったその目的もさることながら、イエスの思いと目的もまさにその行動に一致していることが伝わってくるではありませんか。それは私たち罪人、イエスを受け入れることができない、神のみ心も戒めも命令も守ることもできない、いやそれどころか何度でも裏切り反抗してしまう罪深い私たちを、神、イエスは、決して裁くためではない、どこまでも憐れみかわいそうに思い、むしろ時がよくても悪くても、その痛み、悲しみに触れて良くなるようにしてくださる。癒してくださる。その思いがわかります。そして私たちに「滅び」ではなく、「暴力による革命」でもなく、イエスの命を犠牲にすることによって、私たちを神に受け入れられる神の子としようとしておられる。救おう、神の前に正しい、義としようとしておられる。罪を責めるのではなく、どこまでも罪の赦しを得させ、平安を与えようとしておられる。その神の思い、みこころが、この癒された耳には現されていることがわかるのではないでしょうか。

5.「暗闇の時」
「あなたがたは、わたしが毎日宮で一緒にいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗闇の力です。」53節
 ここには神のみこころが良く表れています。イエスはその有罪に当たるようなことは何もしていませんでした。むしろ福音を伝え、病の人を癒し、悪霊に憑かれている人を追い出し、そして毎日、宮で礼拝していました。み言葉を語り伝えていました。神の前にあって正しいことをしていました。そしてその間、彼らが手出しをしなかったということは、それは彼らが手出しもできなかったということももちろんあるのですが、それは神の守りが絶えずあったということ、そして何より、それはまだ「十字架の時」ではなかったからこそ、神が手出しをさせなかったということをその後の言葉から見るならばわかるのです。イエスは言っています。
「しかし、今はあなたがたの時です。暗闇の力です。」
 今こそその「時」が来た、それは暗闇の力、サタンがその思いのまま働く時です。実に22章、最初のユダにサタンが入ったとあったところもそうですし、そしてサタンが、ペテロが「麦のようにふるいに掛けられることを願って聞き届けられた」ともあるように、神は、サタンがまさに思いのままに暗闇の力を表すことを許可していることが所々に現れています。そしてこれは「みこころのままに」と結んだイエスの祈りの直後です。まさに「暗闇の力の時」にイエスも身を委ねようとしていることもここに見えてくるのです。
 なぜイエスはその暗闇の力の時に身を委ねるのでしょうか。まさにそれは十字架のためではありませんか。イエスは、どこまでも十字架を見ています。壮絶な苦しみ、痛みを持って、十字架にかかろうとしています。しかしそれはサタンに敗北し、サタンのいいなりになるためではないでしょう。まさにサタンも思いもしなかった。誰も思いもしなかった。その十字架においてこそ、全ての人類の、私たちの過去、未来、全ての罪を磔にして、悪の力を滅ぼすためでしょう。その十字架で罪人のかしらとなり、罪の報い、神に見捨てられ、死ぬことによって、罪と悪の力を滅ぼすことに「神の御心」があるからこそではありませんか。そのためにイエスは暗闇の力に身を委ねるのです。私たちの救いのためです。罪の赦しと新しいいのち、本当の神の国を、私たちに与えるためにです。そのためにこそ、イエスは逮捕され、これから十字架に従われるのです。私たち一人一人の救いのために。それが神がイエスの祈りへ出した答え、神の御心。私達一人一人への神の思いなのです。

6.「むすび」
 その愛は、十字架にこそ成就して現されました。私たちはこの十字架によってこそ、神の前に罪は赦されています。この十字架があるからこそ、イエスは今日も私たちに「あなたの罪は赦されました。安心していきなさい」と遣わしてくださっています。そのイエスの約束の言葉、宣言の言葉、福音のゆえに、もはや私たちは恐れることは何もありません。その福音のゆえに、私たちは安心して今日もここから行くことができます。ぜひ行きましょう。福音を携えて。福音に生かされて。その喜びと平安を持って、世に遣わされ、ぜひ、私たちは神を愛し、隣人を愛し、その恵みと喜びと平安を、証しして行きましょう。