2017年2月12日


「ペテロのためのイエスの祈り」
ルカによる福音書 22章28〜34節

1.「はじめに」
 捕らえられる直前に、弟子たちとの過越の食事の席で、イエスはご自身がパンを裂き、ぶどうの杯を与える恵みの聖餐を行い、そのことを通して、神がどこまでも仕え与えてくださるところに神の国は実現することを示されました。しかし弟子たちは、その仕えてくださるイエスや聖餐に学ぶことができず、「誰が一番偉いだろうか」という議論を始めました。それでもイエスは弟子たちに繰り返し「仕える」ことにこそ神の国があり、それは十字架においてこそ実現することを示されるのでした。今日のイエスの姿、言葉には、さらに恵みと憐れみが表されているのです。「仕える人のようでありなさい」言った後、イエスはこう続けます。

2.「「ついてきた」ことへの賞賛」
「けれども、あなた方こそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについてきてくれた人々たちです。わたしの父がわたしの王権を与えてくださったように、わたしもあなた方に王権を与えます。」28節
 このところは不思議です。聖餐の恵みよりも「誰が偉いか」を論じ始めた弟子たち。それに対してイエスが繰り返し同じ教えを教えている場面。そのように弟子たちはどこまでも不完全で罪深いのですが、しかしイエスはそんな弟子たちを賞賛するのです。ここで大事なポイントですが、イエスは弟子たちの何を賞賛しているかわかるでしょうか?それはあなた方こそ「わたしについてきてくれた人々たちです」と言っているでしょう。つまり「ついてきた」ことです。前回のメッセージで私は、「イエスの喜び、幸いは、私たちが自分たちで完全になってついていくことではなく、イエスは、むしろ罪深いままで、イエスとその言葉を信じてついて来る弟子たちこそがむしろ喜びであった」と伝えましたがその根拠はここにあるのがわかります。わからない、なおも罪深い弟子たち、しかし「私についてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」のその言葉に信じて、そのままで、なおも未熟で無知で、罪深くとも、そのままで「ついてきた」弟子たちです。イエスはまさにそのこと「ついてきた」ことを賞賛しているのです。それが天の神が何より見ていて、それこそ賞賛されること、神が報いてくださることです。そのままで「ついていく」ことです。
 繰り返しますが「自分の力で完全になったから、完全にできるから、成熟した信仰や行いを自分で達成したから、真にクリスチャンになる、なれる、認められる」のではありません。もしそうであるなら、キリスト教の教えは「行為義認」の宗教となり、他の宗教となんら変わりません。それは救いが私たちの行いや何かに全てかかっているということです。それは確信も、平安も、喜びも、自由もありません。絶望的です。けれどもイエスの福音はそうではないとこのところは教えてくれています。罪深い弟子たちであっても、そのままで、信じてついてきたそのことこそが天の喜びなのです。

3.「神が与える恵の王座」
 そしてそれだけではありません。そんなついてきた弟子たちに、イエスは「王権」を与えて、神の国の食卓、それは「王座」ともあります、そこで、イスラエルの十二部族を裁くのだというのです。裁くは「治める」という意味でもありますが、このことは何を意味しているかというと、イスラエルからイエスの教会が世界に広がっていくことを意味しています。つまりイエスはそんな罪深い不完全な弟子たちだとわかった上で、この彼らに教会を託し、世界へキリストの名と福音が伝えられていくために彼らを用いる、その幸いな地位を用意していることを示しているのです。しかもその働きを「食卓、食事、王座」という言葉を使っていることも幸いですし、それが「与えられる」と言っています。ここからもわかるのです。その教会の働き、召命、使命、宣教は、それは律法ではなく、どこまでも恵みであり福音であるということです。教会は、神の国の食卓の食事なのです。それは聖餐から繋がっている表現でもあるのですが、教会がどこまでも神の恵みの食卓における福音の交わりが原点であることをイエスは一貫して示しているのです。これが教会の真の姿であり、幸いなのです。そればかりではない、イエスがそんな弟子たち、そして私たちを教会のために用いることを、いかに私たちの思いをはるかに超えた希望と計画において見ていたのかも続けて示されています。この後のイエスのペテロへの言葉は驚きです。

4.「サタンがふるいにかける願いを聞き届けた」
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなた方を麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。」
 これまでの賞賛と希望の言葉が、180度、変わっているかのようなイメージがあります。ペテロがサタンに誘惑されふるいにかけられると言い出すのです。それは何のことかというと、34節からわかるように「ペテロが三度知らない」ということを言っています。シモンはおそらく、21節以下の「裏切るものがいる」という言葉をすぐに思い出したのでしょう。ですから33節にあるように
「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」
 と答えるのです。自分は決して裏切らないという「自信と決意」です。
 イエスのこの言葉は、本当にこれまでの流れを変えるような唐突な言葉です。この言葉から教えられることも幾つもあります。
 まず前提は、誘惑や試練はどこまでもサタンによるものであるということです。つまり主なる神は決して誘惑や試練を与えないということです。しかし実に不思議な言い方です。「サタンがシモン・ペテロをふるいにかけることを願って聞き届けられた」とあるのですから。これはヨブ記を思い出します。ヨブ記でも、サタンがヨブがどんな災いに直面しても本当に従うかどうかを試していいかと神に願うわけです。その時に、神はそのことを許可します。そのようにしてヨブにサタンによる災いや試練が下理ました。
 「結局、神様が災いをもたらしたんではないか」、そう思わされます。この神がサタンによる試練を許可するということは、なかなか私たちには理解できないかもしれない難解なところです。しかしヨブの場面でも、確かに許可しヨブはサタンの与える試練に苦しみますが、でも最後にヨブは、主の前にあって自分がいかに小さいか、それなのにいかに傲慢であったのかを悟って、悔い改めと神の計り知れない恵みの大きさ、そして新たな信仰が与えれて、神のヨブへの愛と祝福は一貫して変わらなかったことに結ばれます。サタンは敗北するわけです。同じようにイエスの苦しみと十字架の死はもっと分かりやすいではありませんか。「できますなら、この杯を取り除けてください」とイエスは三度願います。血の汗を流して祈り願います。もちろん神はその願いを聞き入れて、杯、十字架を取り除けて、イエスの命を助けることはできるのです。しかし神はそうしません。まさにサタンの計画の通りに、ユダが誘惑に落ちることをそのままさせ、そしてイエスの願いではなく、サタンの計画の通りに、イエスを十字架にかけて殺すことをさせるでしょう。しかしどうですか。その結果は?イザヤ書にある通りです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた。?しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」(イザヤ書53章5節、10節)
 サタンは結局は敗北します。その十字架にこそ、罪への勝利があり、律法の完全な成就があり、そして、私たちの罪の赦しと新しいいのち、救いがあったわけです。

5.「イエスの計画は変わらない」
A, 「全てをご存知の上で」
 この場面もそうなのです。このところ、このイエスの言葉にある幸い。
 まず第一にイエスは、どこまでもシモン・ペテロのことを知っているということです。誰が偉いかを論じる、それだけではない、シモンが裏切ること、三度否定することも全てご存知であるということ、いや「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」という素晴らしい決心の言葉があったとしても、それでも三度否定する。シモンの決心は実に脆くも消え去っていく、そのことも全てご存知であるということです。
 しかしそこまでもご存知の上で、イエスは「ついてきたこと」を賞賛し、王権、王座に与らせることを伝えているということです。そんなシモンであったとしても、計画は変わらない。教会の計画、宣教の計画、それはシモンを通して、弟子たちを通してされることは、なんら変わらないのだということがわかるのです。どうでしょう。人は、この人がやがて裏切るなら、信頼できない、任せられないとなるでしょう。いや伝えたことも伝わらず、誰が偉いかを論じた時点で、がっかりして、何も任せられないとなるのが、人であり、会社などもそうかもしれません。けれどもイエスはそうではないということです。イエスは三度否定することを知っていても、弟子たちが皆逃げることを知っていたとしても、28?29節の賞賛のことば、王権、王座を与えること、神の教会と宣教の計画を、希望をしっかりと持って語っているのです。イエスはそのようなお方です。
B,「イエスの招きの言葉にどこまでも忠実」
 そしてそれはイエスが弟子たちを招いた時の言葉に実に忠実であることも分かります。イエスは、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげます」と言ったのです。どんな弟子たちであると知っていたとしても、これほどまで揺るぎない計画と弟子たちへの希望を語られるのは、それは、イエスの救いも、教会も、宣教も、それらが、弟子たちの何かによってではなくて、どこまでもイエスが、旧約の時代から変わらず、万軍の主、戦い勝利してくださる主として、全てのことを導き、行ってくださる、与えてくださる、それによって主が用いてくださる、まさに「主が人間をとる漁師にする」、全てがイエスのわざであることが、どこまでも貫かれているからとわかるのです。つまりもし弟子たちの行いやわざや決心に、計画の成功の根拠があるとするなら、どこにも確かさはありません。しかしイエスが、そんなシモンであっても、イエスがなすことであるからこそ、イエスがシモンや弟子たちを用いてなす教会であり宣教であると見ているからこそ確信と希望があるのです。
C, 「シモンを用いる計画」
 そして三度否定するシモンに、イエスはこう言っているではありませんか。
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」32節
 サタンの願いは聞き入れられシモンは三度否定する。必ず。しかしイエスは、シモンの信仰がなくならないようにシモンのために祈ったと言われます。この試練はシモンをどん底にまで引きずり落とします。最大の試練です。信仰を失ってもおかしくない出来事です。しかしシモンの信仰は無くなりませんでした。それはイエスの祈りがあり、神が働いてくださったからこそです。このようにシモンも私たちと同じ人間です。私たちの信仰、私たちは自分たちで保つことはできません。自分たちの力では信仰を強めることもできません。しかしイエスはその信仰のためにいつもとりなしてくださっている。いやイエスが与えてくださった信仰であるからこそ、イエスはこのようにいつでも信仰を支えてくださり、弱った時には強めてくださり、信仰に始まった歩みを信仰に進ませてくださるのだということをこのところは伝えていると言えるでしょう。そしてもちろんそれは29?30節で述べたような、シモンに神の計画が確かなものとしてあるからこそでもあると言えるでしょう。
 それは教会ということだけでなくて、試練の直後であってもそうです。こうあります。
「だけら、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 落ち込み絶望する、信仰が弱り果てるのは、シモンだけではないことをイエスは知っています。兄弟たちも絶望し弱り果てるのです。しかしその彼らを力づけるためにこそシモンは用いられるのです。それはそのような苦しみを同じように知っており、その苦しみにイエスの憐れみと恵みが豊かにあることを知っているからこそシモンは励ますことができるでしょう。決して試練は無駄にはならないのです。いやむしろ、主はそこまでも見ていて、そしてサタンがふるいにかけることも許されたとも言えるのです。サタンは誘惑し貶め、信仰を捨てさせるために誘惑します。しかし神はたとえそれを許したとしても、そのサタンの悪事さえも用いて、全て建て上げる、全てのことに働いて確かに益とされる。豊かに用いてくださる。そのことがわかるのではないでしょうか。

6.「おわりに」
 みなさん、イエスはこのようにどこまでも恵みに満ちています。その恵みのうちに私たちを決して見捨てず、どこまでも与え、導き、全てを益としてくださる完全な神です。そのお方が私たちの救い主として私たちと共にいるのです。ぜひ私たちは十字架のイエス、恵みと憐れみに満ち、完全な計画と希望を私たちに置いてくださっているイエスを、どこまでも見上げ信頼しついていきましょう。素晴らしい恵みの使命に、イエスの食卓の座にあることを喜び賛美しましょう。そしてぜひ確信と平安のうちに、今日も遣わされてい、平安のうちに、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。