2017年2月26日


「イエスがともにいることの幸い」
ルカによる福音書 22章35〜38節

1.「はじめに」
 前回は、イエスが弟子たちに対して、彼らがイエスに「ついてきた」ことを賞賛され、神の国と恵みの使命が約束されていることを伝えた一方で、シモン・ペテロがイエスを三度、知らないということを告げた場面でした。もちろんペテロは「自分はそんなことをするはずがない、死であっても覚悟はできている」というのですが、イエスがそのように語ったのは、むしろペテロや他の弟子たちの罪深い現実をそのまま伝えることにあって、そしてだからこそ弟子たちの行いや決心が救いや神の国をもたらすのではなく、むしろ人は神の国のために、十字架のためにも救いのためにも何もできないことをイエスは示していたのでした。つまり、救いはただイエスによって成し遂げられ、イエスこそが十字架にかかって死ぬことをイエスははっきりと見ていて、救いは神からの恵みであることを伝えていたのでした。このところは晩餐の席での最後の場面です。イエス様がこの最後の晩餐で、何より十字架を見ていたということから見ていくときに、ここにある一貫した恵みのメッセージが見えてきます。

2.「何か足りないものがありましたか」
「それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋も靴も持たずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」35節
 この言葉は、10章の最初の出来事のことを言っています。そこでイエスは、12人の使徒たちとは別に70人の弟子を選び、イエスが行くつもであった町や村へ二人づつ遣わしたことが書かれています。その10章4節でイエスは「財布も旅行袋お持たず、靴も履かずに行きなさい」と言って遣わしました。そのときその70人は遣わされた先でイエスが言われた通りのことが起こり喜んで帰ってきました。そして今日のところにある通りに、財布も旅行袋も靴も持たずに遣わされても何も足りない物はなかったのでした。その出来事は「イエスの名」が与えられ、イエスの名を用いることによって導かれた旅でありましたから、神が全てを満たし、神が全て働き、神が弟子たちを用いて神のわざをあらわした出来事であったからなのです。
 事実、そのように宣教の事以外にも、山上の説教ではイエスは全ての人に慰めとなる言葉を語っています。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと心配するのはやめなさい。?それが皆あなたがたに必要であることを知っておられます。?神の国とその義とをまず第一に求めなさい、そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。明日の心配は無用です」(マタイ6章30〜34節)と。そのようにイエスは主なる神はどこまでも私たちの必要を知り、与え、満たしてくださる方であることを伝えています。

3.「イエスは何を見ているか」
 しかし今日のところ、イエスはこう続けます。
「そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のな者は着物を売って剣を買いなさい。」36節
 イエスは70人を遣わした時と逆のことを言っているのです。このところで一体、イエスは何を言おうとしているのでしょう?矛盾することを言っているのでしょうか?それとも、全て必要を満たし与えることを方針転換したということなのでしょうか。鍵は37節に続いているイエスの言葉です。
「あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」37節
 イエスが何のことを言っているかわかるでしょうか。「『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてある」とイエスは旧約聖書の言葉を引用していますが、それはイザヤ書53章の最後の言葉12節の言葉の引用です。こうあります。
「それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼は自分のいのちを死に明け渡し、背いた人たちと共に数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた人たちのためにとりなしをする。」イザヤ35:12
 このイザヤ書53章は「苦難のしもべの預言」です。そしてこの12節からもわかる通り、その預言は約束の救い主の苦難、十字架を預言している言葉です。ですからイエスはこの所でも、やはり十字架のことを見て示しています。しかも37節のこの言葉は非常に強くはっきりしています。イザヤ書53章の引用ということもそうなのですが、それが「わたしに必ず実現する」という強い、確実な言い方です。「必ず」と。しかも繰り返しています。「わたしにかかわることは実現します」と。このようにイエスは、この時、明らかに十字架を見ています。自分がもうすぐ捕らえられ、苦しみを受け、十字架に架けられて死ぬことです。さらにはこの後の箇所には、来週のところになりますが、ゲッセマネの祈りが書かれていることからもわかることなのです。

4.「イエスが示していること」
 36節の言葉から何を示されるでしょう。それはこの言葉は、イエスがもうすぐ「いなくなる」ことを示しているでしょう。前回のペテロへの励ましの言葉もそのことを示唆しています。サタンがシモンをふるいにかけることを願って聞き届けられた。しかしイエスは「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とペテロに語っていました。それは「あなたが周りの兄弟たちを」と言っているように、ご自身が十字架で死にいなくなり復活するまでの間のことを示唆している言葉であったのです。
 イエスは、十字架、そしてその死を示しています。つまりご自身がいなくなることをです。もちろんやがて復活することは私たちは知っています。しかしイエスが十字架にかかって死ぬこと、そして「イエスが共にいないこと」がどれだけ深刻なことであるのかを伝えているでしょう。その「イエスがいなくなること」は、まさにあり方が180度変わ流のです。見てきましたように、イエスの名がありイエスが共にあるなら、イエスが働いているなら、全ては満たされました。明日の心配は無用です。イエスへの信頼、信仰は平安を与え希望を与えます。神の恵みにあって、歩むことができます。しかし「イエスがいない」ということは、まさにイエスが勧めるようにそれは人の行いの世界です。人は自分で備え、必要を備え、自分のものを犠牲にして必要を買ったり、自分で剣を持って戦います。もちろんこの文字通りのことは私たちは自分でします。財布も持ちます。自分で備えたりもします。しかし私たちはそれはそうであっても、イエスがまさに山上の説教で伝えたように、そして、ルカ10章の派遣の言葉にあるように、まことの生ける神がいらっしゃって、全てを備えて与えてくださるからこそ、信仰のあゆみも、財布に必要なものを「満たされる」と私たちは信じるものです。しかし「イエスがいない」ということは、そのことを失い、信仰の拠り所を全く失う、そして救いは、全ては自分にかかっていることになるのです。

5.「剣」
 この「剣」という言葉はわかりやすいです。旧約聖書の戦いの場面を思い出してください。選びの民も敵も、実際に、剣を持ち武器を備え敵との戦いに備えます。しかし、そこには、主の民、ヨシュアもダビデも「これは主が戦ってくださる、主の戦いである」と言います。そして、そこに主が共にいること、主が主導権を持って勝利を与えてくださるという信仰の告白を賛美するでしょう。そして実際に生ける神が万軍の主として戦ってくださり、主が勝利をもたらすことが書かれています。「生ける神が共にいるから」であり「家ける神が全てを満たす」なのです。それは信仰者の歩みへの大事なメッセージです。
 しかし「主がいない」なら、万軍の主が共にいないなら、戦ってくださる主は共にいません。主がいないなら、悪に対して、サタンに対して、自分で剣を持たなければなりません。悪や、サタン、誘惑に対して、自分で戦い、その結果も、自分に全てがかかっていることになります。そしてそれはつまりのところ、救いは自分の備えやわざに全てがかかっていることになることを意味しているのです。「イエスがいなくなる」「イエスがいない」ということはそういうことであることをこの言葉は私たちに伝えているでしょう。ちなにみ38節の「剣が二振り」、「それで十分」と答えるところも意味深いです。まさにその剣は、ヨハネの福音書にあるように、イエスを捕らえに来た人々に対して、弟子の一人が剣を抜き、衛兵の耳を切り落とす場面があります。しかしイエスはその行為をやめさせ、切り落ちた耳を再び、その衛兵につけて癒してあげます。「剣」は、弟子たちのイエスへの「期待のずれ」、福音や神の国への誤解の象徴です。弟子たちは、神の国や救いはイエスによる戦いや革命、そして弟子たちの協力、人のわざや力の協力によって成し遂げ、彼らもそれで名をあげ、だからこそ誰が偉くなるかを論じていました。「剣」は、まさに彼らの罪深さの象徴であると同時に、まさに人のわざや剣によって十字架や神の国が成し遂げられるのではないことを、イエスはしっかりと見ていて、それゆえの「それで十分」という言葉であるとも見えるのです。イエスはそこまでも見ているし、まさに十字架をまっすぐと見ている。そして、イエスを通してこそ、救いはあり神の国はある。人の手によっては何もなし得ない、そのことが一貫して貫かれていることが教えられるのです。

6.「イエスがいるからこそ」
 イエスがいなければ、神の前に人は何もできません。救いも神の国も人の手にかかってしまいます。そしてそれは絶望です。決して成し遂げられません。しかし幸いです。イエスはよみがえられ、弟子たちに現われました。弟子たちは喜びに満たされました。弟子たちは、イエスはいつまでも共にいることで安心しました。そしてイエスは「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と言って再び、弟子たちを世界に遣わしました。そして聖霊を与えるという約束の通りに、イエスはイエスの霊である聖霊を与え、その聖霊によって教会と宣教は始まっていきます。その聖霊に関してイエスはこう言っています。
「一人の助け主をあなたがたに与えます。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)
 このようにイエスの約束の通りであるなら、イエスは「ともにいる」ことによってこそ、私たちを助けてくださり、全てを満たし、全てを助け、全てを導き、パウロが言っているように全てのことに働いて益としてくださるということだとわかるのです。
 イエス様がいないなら、救いはありません。しかしイエスがいること、ともにいることは、なんと素晴らしいことなのか、なんと幸いで、なんと平安で、希望に満ちている、失望させられることがない、そのことが教えられるのです。

7.「むすび」
 私たちが今、イエスによって信仰を与えられ、洗礼を通して罪の赦しと新しいいのち、そして聖霊を与えられていること、その確かさを今日覚え、ぜひ感謝しましょう。私たちは信仰により先例を通して確かに救われています。イエスがともにいます。そのことを確信しましょう。ぜひ十字架のイエスからの平安に満たされて、イエスの備えを信じて、ここから遣わされていきましょう。その恵みにあって、私たちも神を愛し、隣人を愛し、恵みを証ししていきましょう。