2017年3月5日


「イエスの祈り」
ルカによる福音書 22章39〜46節

1.「はじめに」
 この「イエスの祈り」は、本当に神である方が確かに私たちと同じ肉体と苦しみを受けられたということ、そしてイエスが私たちの救いのために、私たちの代わりに、その身に負われたものが、いかに深刻で大きなものであったのかを伝えています。つまりそれは、私たちはまさに「そこから救われたのだ」ということを教えてくれています。

2.「誘惑に陥らないように」
「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」
 食事の席が終わり、イエスは弟子たちを連れてオリーブ山に行きます。「いつものように」、40節「いつもの場所」ともあるように、イエスがいつも祈るために行っていた場所であることがわかります。オリーブ山のゲッセマネという場所。そこで
「いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。」40節
A, 「弟子たちのための勧め」
 前回までの食事の席では、ヨハネによる福音書にもある通り、イエスは弟子たちに「神の国の教え」を伝えました。さらにはその神の国の目に見える約束である聖餐も行われた食事の席であったのでしたが、同時にイエスはその初めからその後に起こる十字架を見ていました。ですからイエスはペテロに「サタンが、あなた方を麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました」(31節)とも伝えました。つまり十字架の直前に起こる弟子たちの裏切りです。そこではペテロに「あなた」ではなく「あなた方」と言っていたように、ペテロだけでなく弟子たち皆が「麦のようにふるいにかけられる」ことをイエスは伝えていたのです。
 そのように見ていくときに、最後の晩餐は神の国の成就を伝える幸いな素晴らしい食事の席でありながら、同時にその「救いの成就」のための、イエスとサタンの最後の激しい攻防の開始であったことが見えてきます。サタンはまさに手ぐすねを引いて、イエス、そして弟子たちへの誘惑の手を強めようとしているのです。イエスはそのことがはっきりと見えているからこそ、31節の言葉も伝えましたし、この40節の祈りの勧めはまさにそのことを証ししているでしょう。それは「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と誘惑からの神の守りと助けを求める祈りの勧めなのです。
B, 「サタンの誘惑の現実」
 このところからもわかるように「誘惑」は神が与えるものではありません。むしろ神は誘惑から守るお方であるということがわかるのです。誘惑、それはサタンがもたらすものであることがペテロヘの言葉からもはっきりとしています。そして何よりこのイエスの祈りの勧めが示すことは、私たちは皆誰でも、世にあっては、サタンの誘惑がいつでも隣り合わせであるという現実を伝えていると言えるでしょう。もちろんそれはクリスチャンであっても変わらない、いやむしろ痛感する現実であるでしょう。その誘惑は事実、私たちを罪に誘います。そればかりではなく、むしろ罪を犯してしまった後でも「これぐらいはいいだろう」「人間なんだからしょうがない」「みんなそうなんだから」などなど、罪に蓋をさせたり、罪など重要なことではないと思わせたりする誘惑もあるでしょうし、「罪なんてものはそもそもない、重要なことではない」とも思わせたりする誘惑もあります。しかし、何よりもその誘惑の目的は、神と神のことばに背を向けさせ、否定させること、信じさせないことにあります。サタンはそのために働き、働きを強めます。特に、クリスチャンに対してはそうであると言えるでしょう。信仰という大きな救いの宝を受けているのですから。それを狙ってきて信仰を弱らせることこそがサタンの目的に他なりません。十字架は確かに救いですが、しかしその十字架を前にしてはむしろ十字架を愚かなもののように見せるサタンの誘惑が絶えずあることを、イエスのこの言葉、そしてイエスの戦いからも伝わってくることではないでしょうか。そのように神の国は、サタンの誘惑と隣り合わせなのです。ハデスの門は、いつでもその門を開いて私たちを偽りの別の国に誘おうとしています。
C, 「神の助けがあるからこそ祈る」
 しかしイエスは教えています。「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と。イエスは46節でも同じことばを繰り返しています。罪の世にあって、私たちは誘惑はどうしても避けられません。なくなりません。しかし、その現実に対してこそ神は働いてくださり、介入してくださり、助け守ってくださる。だから「祈りなさい」なのです。確かに誘惑の現実、そして誘惑に対して無力な私たちですが、それに対する一つの大事な恵みと希望の勧め、約束、それは「祈り」なんだということを教えらるのです。

3.「杯を取りのけてください」
 そしてイエス様ご自身も祈られるのです。しかしイエスの祈りにはさらに深いメッセージが伝わってきます。
「そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。「父よ。御心ならば、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心の通りにしてください。」41節
 それは44節に「苦しみもだえて」、「汗が血のしずくのように」とあるように、壮絶な苦しみを伴った祈りであることがわかります。これはまさにイエスが神だからと、痛みも苦しみもない、葛藤も知らない方ではないことが表れています。むしろこの苦しみの姿は、イエス、神の子である方が、まさに私たちと同じ肉体を取られ、本当に人なられた。苦しみも痛みも同じようにある、葛藤もある、同じ人となられたことがここに明らかにされているのです。その祈りの前半部分は、こうです。
A, 「葛藤」
「父よ。御心ならば、この杯をわたしから取り除けてください。」
 このイエスの苦しみ、葛藤が示すものは一体なんでしょう。まず第一に、サタンの誘惑は、弟子たちだけではなかったということです。イエスに対しても激しく攻撃してきます。その「杯」、つまり「受難」、「十字架の死」を「目の前から取りのけることができたならば」という誘惑、葛藤にイエスは苦しんでいるのです。「みこころならば」という言葉は意味深いです。やがて受ける苦しみ、痛み、それを受けることはイエスであっても壮絶な肉体的精神的な苦しみ、痛みとなります。しかもその究極は死にまで従わなければなりません。それを「取り除くことができたなら」という思いが、イエスは神のみこころではないことを当然知ってはいるでしょう。十字架をまっすぐと見て歩んできたのですから。しかしその目の前の肉体の苦しみの前に、御心なら取り除けてほしいと思い、願い、祈るほどの、イエスの激しい苦しい葛藤だということです。そのようにイエスは、聖書にある通り確かに「罪は犯さなかった」のですが、サタンの誘惑は絶えずあったということです。マタイ4章の有名な荒野のサタンの三つの誘惑も思い出します。そのところでも、イエスの苦しみは見ることができますし、その時も御使いが支え助けるために仕えていたことも書かれています。このようにゲッセマネの祈りの苦しみ、それはまず第一にその葛藤です。痛みと恥と死の恐怖はイエスであっても当然あります。そして、みこころをわかってい多としても霊は燃えていても肉体は衰え恐れ葛藤していたのです。それはまさに私たち人間がいつも苦悩し弱さを覚え経験することそのものでしょう。私たちも善とわかっていても悪を行ってしまう。パウロもそう言っています。しかしここにこそイエスは本当に神である方なのに、私たちと同じようになられ本当に人となられたということが証しされているのです。そしてその証しがあるからこそ、ヘブル書にあるこの言葉の幸いがわかってくるのです。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、全ての点で私たちと同じように、試みに会われたのです。」ヘブル4:15
 と。イエスのこの苦しみは、「私たちと同じようになられた救い主」の証なのです。
B, 「見捨てられること」
 そしてイエスが「みこころならば、取り除いてほしい」と願ったその杯、その苦しみのもう一つの意味は何でしょう。
 実にイエスはこの後、全人類の、過去も未来も、全ての罪を背負って十字架に従います。その十字架こそをイエスは見て歩んできました。この祈りの苦悩、それはまさにその罪の重さ、いや罪の結果の重さを背負うことのゆえの苦しみであったといえるのではないでしょうか。イエスは神の御子であり、父なる神に愛され、神の愛を誰よりも知って証ししてきました。そして誰よりも父なる神を愛し、父なる神の言葉にあってどこまでも歩んできました。しかし聖書が伝える人類の罪はその逆の姿です。神の愛に背を向け、拒み、その言葉に反抗し、むしろサタンの言葉を信じ従った結果として堕落は始まります。それが罪の始めであり、全ての人間が受け継いでいる原罪と呼ばれるものです。事実、それは人の神への現実として否定のしようないことです。生まれながらの人間は、真の創造の神を否定し信じませんし、神を愛することも神の言葉を信じることもできません。つまり神の愛を知り神を愛するイエスにとって、その逆の罪を負う、その罪を着せられることは実に大きな苦しみになるでしょう。
 しかしそれ以上に、その「罪がもたらす重大な結果」をその身に負うことの大きな苦しみもイエスには見えていたでしょう。それは死であり、神に見捨てられることに他なりません。聖書は言います。罪の報酬は、死であると。それは創世記の初めから伝えていることでもありますが、その「死」は、神の愛と祝福からの断絶です。罪ゆえの死と滅びは、まさに神から見捨てられることを意味しています。イエス様は、まさにその苦しみを十字架上で叫ぶでしょう。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と(マルコ15:34)。十字架の苦しみ、全世界の全人類のすべての罪を負うことはその罪の報いをまさに負うことです。それは神に見捨てられることです。もし罪の重大な結果がそのままであるなら、あるいは罪がもし贖われることなく、私たちが罪のままであるなら、つまりイエスの十字架がなかったのなら、その罪の報いは私たちが負うはずだった運命のままです。神に見捨てられる、それが滅びです。しかしイエスは、罪のない方が、私たちの罪と、そして、その罪からくる私たちが受けるべきだった報いまでをもすべて背負われた、それがイエスのこの祈りの苦しみ、イエスがこのゲッセマネで見ていて、御心ならば取り除けてほしい、そのように願った杯なのです。

4.「わたしの願いではなく、みこころの通りに」
 しかしイエスの祈りは続いています。、
「しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください。」42節後半
 と。みなさん、イエスの願いは、「取り除けてください」にあるのではなく、こちらにあることがわかります。「わたしの願いではなく」とあり、「みこころの通りにしてください」と願っているのですから。大きな苦悩と苦痛に葛藤したイエス。罪の深刻な結果をその身に受けなければならない壮絶な苦しみ。しかしイエスの祈りは、イエスのその苦悩ゆえの願い以上に、いやその「わたしの願い」を打ち消して、神の御心の通りを何よりも願っていることがわかります。そしてそれはまさに私たちに向けられている願いではありませんか。イエスが、その父の御心がなること、十字架で死に全人類の罪とその私たちが受けるべきだった絶望的な報いを受けることによってこそ、まさに世に罪の赦し、癒し、救い、平安をもたらすことができます。イエスは何よりそちらを願っていることがはっきりとわかるのです。それほどまでにイエスは十字架を見ている。しかしそれは私たちが神に見捨てられ滅びるのではなく、罪赦され、義と認められ、神の子とされ、平安に祝福のうちに生きることに回復されていくことを見ていたということに他なりません。それはイエスはそれほどまでに、自分の命を犠牲にするほどに、私たちを愛しているというメッセージがここにはあるのです。
 そして父なる神はどうされるでしょう。父なる神は、そのイエスの「取り除けてください」を御心とはされないでしょう。神は取りのけることはできます。しかしそれをされずに、イエスにその杯をそのまま飲ませるでしょう。十字架に従わせるのです。むしろ神は、みつかいをイエスに送り力づけるほどに、そのご自身の御心をイエスに果たさせようとされていることもわかります。そうです、まさに父の御心は御子であるイエスを十字架で死なせることです。つまり私たち人類すべての罪とその報酬、結果、責任を、すべてそのイエスに負わせることによって、私たちに負わせないこと、私たちを赦すこと、私たちに神との平和を回復し、平安を与えることをどこまでも見ていて果たそうとされている、その真の神の御心が伝えられているのです。

5.「おわりに」
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころだった。もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」イザヤ書53章10節
 この神の御心であるイエスの十字架から溢れ出る、神の愛、イエスの恵みをぜひ感謝し賛美し聖餐を受けましょう。そしてそこに与えられる平安と喜びに満たされて、ここから遣わされていこうではありませんか。