2017年1月8日


「しかし、わたしのことばは決して滅びない」
ルカによる福音書 21章20〜38節

1.「はじめに:これまでをふりかえり」
 6節にありました、絢爛豪華なエルサレム神殿を見て感動し賛美する人たちに対して語ったイエスの言葉、「石が積まれたまま残ることのない日がやってきます」という言葉に始まっている、イエスが伝える未来の出来事を見てきています。そこでは神殿の崩壊だけでなく、偽キリストが現れることに注意するようにもありましたし、さらには戦争や地震、疫病、そして迫害が起こることもイエスは伝えました。けれどもそのような災いや困難は、決して無駄ではなく神の計画があり、それは、そこでキリストを証しするときになるのだと、イエスは言いました。さらにはそのとき、何を話すか考えないように心を定めるようにいい、それは神が誰も反論できないような言葉と知恵を与えるからだと約束し、だから神と神のことばにこそ信頼するようにと教えたのでした。このところも、その続きで、未来に起こる出来事やそれが起こる時の兆候などイエスは語り続けます。

2.「人の子がくる」
「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」20節
 24節まで続いていますが、そこでは、エルサレムが軍隊に包囲され、異邦人が攻めてきて踏み荒らされるとイエスは伝えています。これはやがて起こる、ユダヤ人のローマへの武力蜂起に対しての、ローマの軍隊によるエルサレムの包囲、侵攻、鎮圧、そして神殿破壊のことを指していると言われています。イエスがここで言われた通りに、エルサレムはローマの軍隊によって踏み荒らされるのです。しかしこれまでのところでもそうであったようにイエスの言葉は、そのローマのエルサレム侵攻のことだけではないこともうかがい知ることができます。24節には「異邦人の時が終わるまで異邦人に踏み荒らされます」とありますが、ローマのエルサレム侵攻以後も、現代に至るまでこのイスラエル、パレスチナは激動が続き、ユダヤ人たちは世界中に離散することになります。そしてユダヤ人から見れば異邦人がこの地に定住し、統治が続くことになります。
 そして、このイエスの言葉が、ローマのエルサレム侵攻だけではないことは、25節以下はもっとはっきりとしています。
「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住む全ての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまりに気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。その時、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて、雲に乗って来るのを見るのです。これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたからです。」
 ここでは多くの旧約預言に書かれている終末預言の言葉を連想させるような言葉が書かれています。「天の万象が揺り動かされる」ともある通り、天変地異が予測されるのですが、何より27節以下ではっきりと書かれている通りに、「人の子」、つまりイエスが再び栄光を帯びて雲に乗って来られること、「再臨」のことをイエスは言っていることがわかります。ですからイエスのこの言葉は、弟子たちが直面する近い将来の出来事と同時に、イエスの再臨を待ち望む現代の教会に向けられている言葉でもあるのです。

3.「目をあげ、頭をあげよ」
 ここでイエスは、弟子たち、そして私たちに何を伝えているでしょうか。それは、ここに書かれていることは確実に起こるということです。キリスト教では「終末」とよく言いますが、艱難とともにこの世が過ぎさり、イエスによる新しい世界が始まることを伝える教えです。私たちは、豊かさや平和の中で「終末」や「再臨」、あるいは「新しい天と地」のことを忘れがちになったり、あるいは、いつまでも繁栄や豊かさが続くように思ってしまうことが時にあるものです。そしてそのような視点での聖書理解や解釈もしてしまう弱さがあるかもしれません。けれども、イエスは、このやがて起こることを決して無効にしてはいません。艱難を、弟子たちが経験するローマ侵攻だけで終わりとはしていません。むしろイエスは、私たちにもはっきりと、困難と誘惑が起こり、その先に、ご自身がやがて再び来られる時がくると伝えているでしょう。ですから、このイエスのこの言葉から、私たちはしっかりとこの預言と約束の真実さに気付かされ、目を向けていくことは、今も必要なことだと、はと気付かされるのです。
 それゆえイエスはこう続けています。
「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたからです。」28節
 「からだをまっすぐにし」とありますが、「目をあげる」とも訳されます。目をあげ、頭をあげなさいと、イエスは言います。何を見るのでしょうか。それは、「贖いが近づいたから」とあります。この「あがない」という言葉でが、これは十字架による罪の贖いとは違う言葉が用いられています。ですから贖いが「近づいた」とあるからと、私たちの贖い、救いが不完全、救いが不完全ということではありません。私たちはイエスの十字架によって罪が完全に贖われています。罪は赦されています。救われています。イエス様のいのちと霊のゆえに完全に救われているのです。けれども私たちは尚も罪の世に生きていますし、自分自身の肉体においては古い自分が私たちにはまだいますし、私たち自身はその肉の思いや行動から自由になることができません。なおも罪を犯すものです。しかし救いというのは、むしろイエスは、そのような私たちをご存知だからこそ、そしてそのような私たちのためにこそ、日々の洗礼、聖餐、み言葉で絶えず新しくしてくださるのです。そこにこそ、自分は弱くともイエスにあって強いという、今の救いの素晴らしさがあるわけですが、しかし、さらにです。やがてイエスが来られた時、その古い肉体も過ぎ去って、新しい身体が与えられるとも、聖書は約束しています。ここにある「あがない」はまさにそのことです。滅びゆく身体、罪深い肉体も贖われるのです。つまり私たちの究極のゴールは、ここにあるのです。今すでに救われています。しかし、聖霊の助けによって苦難や誘惑に耐え忍び、イエスが来られ、勝利を得るその時、今地上で直面する苦難、災い、悲しみ、痛み、誘惑、それらのものから完全に解放される時が約束されているのだと言うのです。私たちの救いの歩みの最終ゴールは、そこであることを忘れてはいけないことを、このイエスの言葉は教えてくれているのではないでしょうか。その時に向かって目をあげ、頭をあげるようにと。

4.「備えさせるために」
 さらにイエスは29節以下でこのような例えで教えています。それはイチジクの木と全ての木の例えです。木が芽を出して葉をつけ始めると、私たちはそれを見て、季節の到来を知ります。梅の花が咲き始めていましたが、それを見て春が近いことを知ります。つまり、イエスがここで多くの未来に起こることを伝えていて、それは災いや誘惑、迫害や天変地異など恐ろしいことばかりです。しかし、それは驚かすためでも怖がらせるためでもありません。それは罪の世では避けられない事実として必ず起こるものです。イエスが未来のことを私たちに伝えるのは、まさにその兆候を私たちに察知させ、目をあげさせ、頭を上げさせることです。神の国の完成の時、イエス様が再び来られる時、全てが贖われて、新しい天と新しい地がもうすぐそこまで来ていることを伝えるため、そのために備えさせるためであるのです。

5.「決してなくならない天からの宝」
 では、そのような兆候に気づかされる時、私たちはどのように備えるべきでしょうか。イエスは、このイチジクの木の例えで、こう結んでいる言葉は、私たちに大事な示唆を与えているのではないでしょうか。33節
「この天地は滅びます。しかしわたしのことばは決して滅びることはありません。」
 ここでイエスが伝えたい事は何でしょう。思い出したいのは、イエスのこの未来の預言は、絢爛豪華な神殿に感動する人々への言葉から始まっていました。石で積まれたもので、崩されないまま残る事はないと。しかしそれは絢爛豪華な神殿だけのことではありません。イエスは形あるものは全て朽ちていき、終わりがあり、消え去ると言う事実にまで目を向けさせます。詳訳聖書を見ますと、天空と地、宇宙、世界も、形あるものそれは全て消え失せるとあります。それは神が私たちに伝えるまぎれもない事実です。そのように世界も、文明も、繁栄も、人の栄光は崩れ去るものです。しかしイエスはその現実の中で、決して消え失せない、滅びない、なくならない、唯一のものを私たちに示しています。それは、
「わたしのことばは決して滅びることがありません」
 と。このイエスの言葉は、ペテロの有名な聖書の引用の言葉も思い出します。
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、いける(いつも生きている)、いつまでも変わることのない(存続する)、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えはみな草の花のようなだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることはない(永らえる)。」とあるからです。(このみ言葉が)あなた方に宣べ伝えられた福音のことばがこれです(良い知らせなのです)。」ペテロ第一1章23?25節
 ペテロはイザヤ書40章6〜9節から引用していますが、イエスのこの言葉がイザヤ書のことばの成就であり、まさに真実であったと確信を持ってこの言葉を語っているでしょう。人の栄華は草の花のように消え去るけれども、主の言葉は永久に立つ。これは聖書が一貫して私たちに伝える、神の真実であり、与えられている恵みに他なりません。

6.「艱難にあって福音に聞き、生かされる」
 今日のみ言葉から何を示されるでしょう。イエスがあなた方は艱難がありますと言った通りに、クリスチャン、教会、私たちも、常に艱難を生きる存在です。そんな時、私たちだけの力は何と弱いでしょうか。罪を繰り返す古い自分を私たちはいつでも経験します。そのような私たちが、この伝えられている災いや誘惑、天変地異を前に何ができるでしょう。私たちは本当に弱さを覚えさせられます。目をあげ、頭をあげることもできず、目を逸らしたい衝動もあるかもしれません。
 けれどもここでイエスはそんな私たちをただいたずらに警告し怖がらせ、そして律法的に、目をあげよ、頭をあげよとは言ってはいないのです。むしろイエスは、その起こりうる現実を伝えてくださり、そんな時に、弱さを覚える私たちに、唯一変わることのないもの、消え失せることのないもの、揺るぐことのない、神の恵み、最高の武器を私たちに与えてくれているのです。それはイエスの言葉、み言葉であると。前回の迫害を伝える時にもイエスはこうありました。
「それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことを、心に定めて起きなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなた方に与えます。」14〜15節
 詳訳聖書では「敵が総がかりになっても対抗し、言い負かすことのできない口、言葉と知恵」ともありますが、そのようなイエスの言葉と知恵を、イエスが私たちに授けてくださる。イエスは「だから大丈夫だ。だから心配しなくていい。だからわたしに信頼しなさい。」そう励ましているともいえるでしょう。イエスはこのように一貫しています。私たちは今すでに艱難の時代にあるわけですが、そこで私たち自身は弱くても、しかしこのような神の強力な力と助けがある。唯一変わることも消え失せることもない最高の武具がある。それはイエスのみ言葉であると。そのように語られているのではないでしょうか。
 み言葉こそ、最高の備え、注意であり、防御です。34節以下でも続いていますが、最大の警護、用心はまさにこのみ言葉があってこそでしょう。み言葉に立たずして、信頼せずして、第一にせずして、私たちは最後の時まで艱難や誘惑に太刀打ちできないでしょう。目に見えるけれども消え失せるものにいくらより頼んでも、その結果は明らかです。イエスは示してくれています。
「しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」

7.「おわりに」
 私たちは、艱難な時代、このイエスの言葉があるなら、イエスの語る福音により頼み、生かされ生きるなら、恐れる必要はありません。希望を見失う必要もありません。耐え忍ぶ力もみ言葉からきます。主イエスは、このみ言葉、福音を持って、私たちに働き、力を与え、そして、最終ゴールまで導いてくださいます。そして、み言葉こそ変わることのない、消えることのない、イエスが与える平安に与らせてくださいます。私たちはみ言葉に与っているこの素晴らしさ、この幸い、この恵みを感謝しましょう。そしてイエスはこのみ言葉とともに私たちとともにある。私たちを決して見捨てることなく、終わりまで導いてくださることを確信し、今日も新しく生かされ、ここから出て行き、神を愛し、隣人を愛して行きましょう。