2016年11月6日


「惑わされないように気をつけなさい」
ルカによる福音書 21章5〜9節

1.「はじめに」
 36節まで、イエスはこれから起こることを話し始めます。それはこの時から「近い将来」はもちろん、私たちにとっての未来まで含んでいるかと思います。それはいわゆる「終末」に関することをイエスが伝えているところですが今日は9節でまです。

2.「宮の素晴らしい石」
「宮が素晴らしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。」5節
 前回は神殿の庭の、献金箱の出来事でした。貧しいやもめがレプタ銅貨2つを献金したのを見ていたイエスは「彼女は誰よりも献金した。なぜなら彼女は生活費の全てを献金したから」といいました。それはさらにその前の20章の終りにありました、「うわべを飾って見栄を張る律法学者たち」へ注意を促した場面から貫かれているみ言葉、「人はうわべを見るが、神は人の心を見られる」というみ言葉が、このイエスのやもめの献金への言葉にも貫かれていて、今日のところもそのみ言葉がずっと続いているかのように、「人の目」と「神の目」の見ているところの違いから始まっていると言えます。
 人々はその神殿の立派さに感嘆するのです。このエルサレム神殿は、ヘロデ大王によって豪華にリノベーションされました。3世紀のローマの歴史家であったタキトスがこの神殿について「極めて豪華絢爛」と表しています。ここにある「素晴らしい石」というのは、大理石の柱で、40フィート、つまり、約12メーターの柱でありました。そして金や銅の扉に立派なタペストリーなどの装飾品や金色のぶどうを形どった紋章などで飾られていたと言われています。その輝き、豪華さに人々はまさに感動しました。そこにまさに人々がメシアの到来とともに期待して待っていた、再び復興し繁栄するイスラエル王国の一端を見ることができたのです。しかし人の目はそのような目に見えることのみを見、心を奪われるのです。しかしイエスはその神殿の現実と未来を見ています。

3.「その石の家の現実」
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。」6節
 実はイエスは前にも同じことを言っていました。19章41節以下ですが、エルサレムを前にして、エルサレムを見てエルサレムのために泣いた場面です。そこでイエスはいいます。
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して類を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子供たちを地に叩きつけ、おまえの中で、一つの石も他の石の上に積まれたままは残されない日が、やってくる。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」19章42〜44節
 こうありました。この時イエスはエルサレムという街に語りかけるようにいっていました。その理由として「おまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」とイエスははっきりいっています。そのことを示すように、その直後のところでは、神殿の庭の商売人たちに、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と書いてあるのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」と言って商売人たちを追い出しました。
 敬虔なユダヤ人たちは確かに神殿を豪華絢爛に再建したことを喜び、礼拝や捧げ物をしっかりとしていました。金持ちたちもそのために献金箱に多くを献げていました。しかし同時にその信仰心のリーダーは、救い主が来ても受け入れない宗教指導者たちであり、彼らがその神殿を運営していました。彼らは律法を引用して立派なことを言います。いや言葉だけでなく、彼らの身なり、服装、そして行いも立派であったでしょう。しかし同時に彼らこそが、神殿の異邦人の庭に動物売りの屋台を並べることを許可して、神殿運営や礼拝を合理的にするだけでなく商売による利益や場所代をも得てもいました。神殿と彼ら自身の経済的な安定はあったことでしょう。しかしそれによって異邦人や貧しい人が祈りから排除されました。そして見てきましたように、律法学者たちは人に見える礼拝や祈りをし、金持ちたちは周りから見られるための大金の献金をしていました。そのように彼らの合理性や見栄のために、神が配慮するように命ぜられた異邦人や貧しい人は軽んじられたのです。それはまさに彼らは「神の前」が見えていませんでした。神の前にあるなら、エルサレム、あるいは、エルサレムの宗教指導者たちは、バプテスマのヨハネの叫びを聞きその現実に悔い改めるべきでした。そして救い主が目の前に来たのならなおさらです。しかし彼らは、神の訪れの時を知らなかったのです。拒んだのでした。そのエルサレムのためにイエスは泣いたのでした。そして言うのです。「おまえの中で、一つの石も他の石の上に積まれたままは残されない日が、やってくる」と。

4.「その石は崩れる」
 それはエルサレムに入る前でしたが、今日のところでは、まさにエルサレムの中、神殿が間近に見える庭です。そしてその神殿の立派さに感動している人々に対してです。同じように言うのです。
「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。」
 と。イエスはこれは、紀元70年に実際に起こる、ローマによる神殿の破壊のことを伝えています。人の目が見ていること、期待することは、一時のものに過ぎません。世界最強と言われたエジプトもアッシリアもバビロンも崩れ去ったわけです。ローマ帝国も崩壊しました。人々はその度ごとに豪華絢爛な建物を建てて来ましたが、それらは皆、崩れ去り、今や遺跡となっています。それは中国でも日本でも世界中どこででも同じです。人の歴史、文明の歴史は繰り返します。事実ユダヤ人たちも先祖たちはそのことを経験していますし、彼らの歴史は伝えているはずなのです。彼らが律法として読んでいるその旧約聖書が、ソロモンの黄金の神殿もイスラエルの繁栄も一度崩れ去っていることを伝えているわけです。そこには偉大な王ソロモンの堕落もありました。その後に続く、王様と民が偶像礼拝に走ったが故でした。まさに彼らが「神の前に」に立ちみ言葉に聞くなら、黄金の神殿や目に見える繁栄、着飾ることや見栄に神の国があるのではないことは明らかなことであったのです。しかし「人の前」「目に見えること」にのみ目を奪われ翻弄され、「神の前」を見失ってしまうのが人の常でもあるのです。イエスは、その神の訪れの時を知らない、もはや祈りの家ではなくなっている強盗の巣である、エルサレム神殿は「崩れ去る。石が崩されずに、積まれたまま残ることのない日がやってくる」と、はっきりと伝えるのです。

5.「惑わされないように」
 それを聞いた人々は、イエスのその言葉に非常に興味を持ちます。尋ねるのです。
「彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょうか。」
 イエスの言葉を聞いた彼らは、そんなことが起こるはずがないとは言いませんでした。ある意味、謙虚で、現実に気づく賢さがあったのかもしれません。石は積まれたまま、永遠に残るなんてことこそ現実的ではないことだと冷静になれば気づくことです。彼らは、それがいつ起こるのか、その前兆となる印はなんであるのかに興味が移っているのです。イエスはそんな彼らに踏み込んで答えますが、とても大事なことを言っています。
「イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢現れ、『私がそれだ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人々の後について行ってなりません。」8節
 一つ目の印として、偽キリストが現れることを示唆します。しかも大勢です。しかしここでイエスが「惑わされないように気をつけなさい」と言っていることが大事なことです。この言葉は、そのキリストの名を名乗るものは、「惑わすような姿」でくるということを意味しています。つまりはっきりとこれは偽物とわかるようにしてはこないということです。事実イエスは、偽キリストは「羊のなりをしているがそのうちは狼である」(マタイ7:15)と言っています。やはりこのイエスの言葉にも、目先のことや、目に見えることに流されることへの注意が含まれているのです。偽キリストは、あたかも立派なように、聖人であるかのように、いやキリストのような姿や行いでやってくるのだということです。それは本当に私たちを惑わすのです。事実、今の時代も、アメリカや韓国などのキリスト教会の中には、繁栄や華やかさに目を奪われてしまい、目には立派な教会と大勢の人々を集めているけども、中身には福音がない、十字架さえないという教会が多数あると言われていますね。あるいはこの偽キリストの議論で何よりよく言われているのは、偽りのキリストは、偽りの言葉、つまり、救いについての偽りの教えとして現れるということです。つまり、救いはキリストの十字架にあり、恵みであり、信仰のみによるということではなく、立派な行いがなければ救われない、祝福されないというよう教えです。これは事実として、もうキリスト教会の歴史において、初めから現代に至るまで、数え切れないほど起こってきている、まさに「偽キリスト」です。このようにイエスは、人々を惑わすものが現れる。人は惑わされる。しかも偽キリストは、はっきりわかるような偽物ではなく、羊の形をした狼として、本当に惑わすような存在として現れることを警告しているのです。「惑わされないように気をつけなさい」と。

6.「惑わされないための天からの宝」
 では私たちはどうしたらいいでしょう。エルサレムの人々は、事実、ローマの攻撃に際して、イエスが預言した通り惑わすものの声を聞きます。多くの偽キリスト、キリストを自称する人々が現れて宗教界は混乱します。そしてローマの侵攻により、この豪華絢爛な神殿、大理石の柱も、黄金の装飾品なども、事実、崩れ去るのです。いやこの時だけではありません。マタイの福音書では、イエスはまさに終わりの世のことを言っていて、その時もまさに偽キリストが現れることを伝えています。しかも「惑わすもの」、羊の姿、キリストのような姿でです。いったい私たちはどうしたらいいのでしょう。何を持って私たちは判断したらいいでしょうか。何が私たちの助けであり、武器であり、守りとなるでしょうか。
 みなさん。それは聖書にはっきりとあるでしょう。それは主なる神のみ言葉ではありませんか。使徒のペテロは、まさに自身も旧約聖書を引用してこう励ましていることに私たちは聞くことができます。
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし主のことばは、とこしえに変わることがない。とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」第一ペテロ1章23?25節
 みなさん。今日のみ言葉への答えがあります。豪華絢爛な神殿も、人間の繁栄も、まさにひと時です。草のようであり、草の花のようです。朽ちる種です。それは否定したくても、認めたくなくても、人間の歴史の事実です。けれども、神はこの御子イエスを私たちに与え、私たちの間に住まわせ、そして永遠なる、いつまでも変わることがない、いつまでも残る、素晴らしい宝を与えてくれたでしょう。いのちのみことばです。イエスのみことばです。この聖書に他なりません。聖書は決して変わりません。そしてそれは道であり真理でありいのちです。それは間違いのない道と真理といのちを私たちに教えてくれます。惑わすものが現れても、何が本当の福音であるのかは、聖書を通して、イエスははっきりと示してくれています。イエスの十字架と復活こそ救いの印であると。そこにある、悔い改めと罪の赦しこそ天国のパスポートであると。そしてそれを恵みとして受ける信仰こそ、信じること、それだけで神の国はあなたにあるのだと。神の言葉こそ「福音は何か。キリストは誰か?救いはどこから来るのか?」をはっきりと伝えてくれているのです。そのみ言葉にしっかりと聞くことが、惑わすことから自分を守ることです。惑わされないための最高の武器は、この永久に変わることのない主のことば、私たちに宣べ伝えられた福音のことばなのです。
 惑わしの時代、終わりの時代は、聖書が伝える通りにやってきます。いや、今も惑わしはあふれています。しかし恐れる必要はありません。なぜならイエスはともにあり、私たちにみ言葉を与えてくれるからです。そのみ言葉に聞くことができることはなんと素晴らしい幸いなことでしょうか。ぜひ感謝したいのです。

7.「怖がってはいけません」
「戦争や暴動のことを聞いても、怖がってはいけません。それは初めに必ず起こることです。だが終わりは、すぐにはきません。」
 この神殿崩壊は、終わりではないといいます。それは、まさに一つの始まりの印であるということです。この後、イエスの未来の預言は続いてきます。イエスがここで伝える神殿崩壊もその通りに起こり、そしてその通りにこれから語っていくこともその通りに起こっていくことです。けれどもイエスは「こわがってはいけません」と言っていくれています。み言葉と信仰はイエスが聖霊を通して働く最大の力であり、助けであり守りです。そのみ言葉と信仰こそを、私たちに与えてくださり、常に、今日も変わらず、励ましてくれているのは、イエスの生きている働きでありその証しです。そして今日は、聖餐式もあることは幸いではありませんか。イエスは今日も、イエスのからだと血を与えてくださり、罪の赦しと新しいいのちを今日も更新してくださり、平安のうちに使わしてくださいます。ぜひ平安を受けましょう。そしてぜひその平安のうちに、ここから遣わされ、神を愛し、隣人を愛していきましょう。