2016年10月30日


「やもめの献げた銅貨2枚」
ルカによる福音書 21章1〜4節

1.「はじめに:宗教改革記念礼拝に」
 10月31日は宗教改革記念日です。マルティン・ルターをはじめとして、多くの宗教改革者達が、これこそ聖書の教える救いであると訴えたのは「人はその立派な行いによって救われるのではなく、キリストが恵みとして与える罪の赦しをただ信じるだけで救われる」ということでした。教会ではそのことを記念して礼拝が持たれます。しかしルカの福音書を講解で見てきて今日から21章に入りこのやもめの献金のお話です。献金の話、つまり「行いの話」というと、何か「信仰のみ」ということとそぐわない、反するように思うかもしれません。確かにもし献金を律法や義務として捉えるなら全くこの記念日にそぐいませんが、しかし決して宗教改革記念日にそぐわないということはありません。なぜならこのところがはっきりと伝えているのは、献金は神への全き信頼の一つの証しであり、そして献金は律法や義務ではなく、それは神の恵みを覚えるからこその恵みと祝福であるということだからなのです。

2.「献金の出来事」1〜2節
「さてイエスが、目を挙げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた」
 エルサレム神殿を出ると外庭があります。そこにはトランペットに形どられた献金箱が13、置かれていました。そこに礼拝者たちは献金を献げたのです。イエスはその献金箱のある庭を見上げます。すると金持ちたちがその献金箱に献金を投げ入れていたのでした。大きな金額を捧げていたことでしょう。そこにです。一人の貧しいやもめがやってきました。
「また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった」
A, 「やもめの献金したレプタ銅貨2枚」
 貧しいやもめです。「やもめ」については、直前の20章の47節でイエスは、律法学者たちが「やもめの家を食いつぶしている」と批判しています。それはもともと女性の身分が低い社会で主人をなくしているので、やもめは社会的には弱者で貧しい存在でもありました。モーセの律法では、神は、そのような貧しい存在になるやもめには特別の配慮をし、世話をするようにという言葉も与えていたわけですが、しかし実際は、やもめの貧しさは当たり前のようになっていたようです。おまけにアドバイザーであるはずの律法学者たちから、持っている財産までも巧みな言葉で持っていかれるようなこともあったようです。そのようなやもめである一人の女性、しかも「貧しいやもめ」と書いていますが、やってきました。彼女は、「レプタ銅貨二つ」を献金箱に投げ入れました。
 レプタ銅貨は「銀」ではなく「銅」の小さな貨幣です。それは小さな額です。金持ち達が有り余る中から捧げたとしても非常に大きな「銀貨」を献げました。私個人はあまり良くないと思うのですが、よく聖会や大きなリバイバル集会などで、献金の前の奨励で、「チャリンと音のしないものを献げましょう」というのよく聞くのですが、つまり硬貨ではなくお札以上を献げましょうということを暗に言っているわけです。あれはとても評判が悪くて、未信者はもちろんクリスチャンの躓きにもなっていると良く聞きますが、小さい額を献げることの後ろめたさを感じて、お札を献げなければいけないと思うわけです。似たようなことなのかわかりませんが、当時も、献げる銀貨の大きさが捧げるものの誇りとなっていたわけです。そして一定以上の額を献げることが暗黙のことのようになっていて、逆に小さな額を献げることは恥ずかしい事でもあるし、多くを献げる人からは蔑まれていたとも言われているのです。
B, 「献金の慣習化と律法化」
 そしてそれはある意味、献金が、人間の側で慣習化、律法化してしまっているという事でもあったわけです。本来、献金は旧約の時代から変わらず「喜んで献げる信仰の応答」です。「神の恵みを覚えて」献げられるものです。先週のところにもありました。人は上辺を見るが、神は心をみられる」とありましたが、献金においても、神と礼拝者との関係はどこまでもそのことが貫かれているわけです。献金も昔から変わらずそうなのです。献金は信仰、神の恵への喜びの応答であり、感謝と喜びの心が伴うものであり、誰からも強制も拘束もされない、制限されない、自由な信仰の業なのです。けれどもお金の額で、あるいは、銀貨か銅貨で、信仰の良し悪しを、敬虔の良し悪しを、人間の側で決めてしまうことによってそれは当然、義務化し律法化するのです。しかも当然そこには金持ち達の自己満足があったわけです。前回のところから続いています。まさに人に見られるための祈りであるように、人に見られるための献金です。自分の見栄を満足させることができるのです。上辺だけの献金がそこにはあったのです。だからこそ僅かな銅貨しか献げられない人を蔑んだりするわけです。
 彼女にはそのような周りの目もあったでしょう。よくこの場面、紙芝居、あるいはルカの福音書などのビデオや映画などでも、周りの長服をきた金持ち達が蔑む場面があるのですが、それはまんざら誇張ではないわけです。金持ち達は、高額の献金によって「立派だなあ」という尊敬の目で見られたでしょう。しかしこのやもめは「なんだ銅貨か」という目に晒されていたわけです。その中で彼女は献金をするのです。

3.「その献金を正しく見ている唯一の方」
 けれどもその献金を正しく見ている人がただ一人いるのです。それはイエスです。イエスはそのことを見ていて、全てを見抜いてこう言います。
「それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりも沢山投げ入れました。みなは有り余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」3節
 まずこのところ、誤解してはいけないのですが、イエスは、どちらが良いか悪いかは決して言っていないです。「貧しいやもめが、どの一人よりも沢山投げ入れた」ということを言っているだけです。けれども、それは献金の額の問題を言っているのでもないことがわかると思います。なぜなら「額」でいうなら、女性はたった銅貨二枚です。金持ち達が献げるのが、たとえ銀貨一枚でもその銅貨二枚よりははるかに大きいわけです。もちろん金持ち達は、その銀貨を複数枚、献げるわけですから、当然額の問題を言っているのでもありません。大事なことは4節にあります。

4.「全部を献げた」
「みなは有り余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」4節
 金持ち達は、有り余る中からその一部を献金したが、この貧しいやもめは、乏しい中から、持っている生活費の全部を入れたから。イエスはそう言っています。イエスは何を言いたいのでしょうか。これも誤解されやすいのですが、「生活費の全部を献げなければいけないんだ」ということでしょうか。なんでも律法的に聖書を読んでしまうとそういう風になってしまうのですが、それも違います。
A, 「恵みの信仰の証」
 このところはギリシャ語でも英語でも、「all.. all.. all」と三つの「all」が意図的に使われています。そこに強調点があるわけです。つまり彼女は「全て」を神に献げたことを意味しています。みなさん、貧しい中で、その自分の生活の全てを献げるということができるでしょうか。明日食べられなくなるかもしれないのにも関わらずに、全てを献げる。なかなかできないことです。明日のことが心配になります。しかしこの彼女が全てを献げたということは、それは彼女の信仰があればこそなんです。なぜそれができるのか。なぜ彼女は全てを献げることができたのか。それは、まさに前回のところから繋がっています。彼女は「神の前」を見ているからです。つまり、神が満たしてくださる。神が養ってくださる。いや貧しくても、これまでも神が養ってくださったことを彼女は知って信じているからこそ、全てを献げられたと言えるでしょう。いや、まさにその信じる先に本当に確かな神がいるのでなければ、その神が見えているのでなければ、全てを献げることは決してできないことです。
 このように彼女のこの「全て」を献げるということは、まさに人にはできないことなのですが、しかしこれこそ神の恵みを本当に知り、神がなさったこと、なさることを知り、神は必ず全てのことに働いて益としてくださると信じる信仰の強さなんです。信仰の業、つまり「神の恵みの業」なのです。このように彼女の証しは伝えているのです。信仰は人にはできないこと、難しいことをさせる力があると。
B, 「主は正しく見てくださる」
 そして第二のこととして、幸いなのは、主なる神イエスは全てをはっきりと正しく見てくださってるということではないでしょうか。皆さん、人の目、民衆の目の前にあっては、彼女は蔑まれました。人は額や多さを見ることでしょう。人々はその当たり前のように献げられなければならない銀貨を求めて、そうでない銅貨に、人々は神が定めたわけでもないのに、「なんだそれだけか」と見たことでしょう。彼女は人の前には理解されていません。そして持っている生活費の全てであるなどとも周りの人々も全く知らないでしょう。彼女の献金行為は、彼女だけしか知らない行為でした。誰からも評価も称賛もされない行為でした。けれども主イエスは全てを見ているでしょう。全てをご存知でしょう。その生活もその持っているものも、そして何よりその心をまさに見てご存知ではないでしょうか。そして額の問題ではなく、彼女は誰よりも捧げたとイエスは言ってくれています。これは幸いなことです。神は私たちが誰に知られなくしている信仰の行為、それが誰に評価されず、認められず、知られないことであったとしても、神はしっかりとその信仰の行為、信仰の応答を認めてくださるのです。むしろ信仰の行為、信仰の応答というのはそのようなものであるとも言えます。「人の前で人に評価されるために善行をしなさい」とはイエスは言いませんでした。むしろ逆です。有名な山上の説教にあります。マタイ6章1節以下にはずっと書かれています。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」「人に褒められなくて施しをしてはけけません」「施しをするときには、右の手のしていることを左手に知られないようにしなさい。」「そうすれば隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださる。」と。
 イエスは、神が見てくださり、神が報いてくださることこそ幸いである。神がみてくださり神が報いてくださることを求めることこそ真の善行であり、真の信仰の行い、恵への応答なんだと教えるのです。このようにイエスが伝えるのは、どこまでも民衆の前ではなく「神の前」です。献金はそのように「神の前」にあるものです。神に献げるものであるのですから、神が見てくださり神が報いてくださる。それが献金の素晴らしさです。
C, 「献金は律法ではなく福音、信仰の応答」
 そして第三に献金はどこまでも「信仰の応答」であるということです。義務でも律法でも決してありません。信仰は、全てを明け渡すことであり、その形として献金があるということです。そしてそれが信仰の応答であるならば、献金は「神の恵み」を知らなければできないことでしょう。信仰の応答というときに、嫌々であったり、強いられてであるなら、そこにはもはや信仰という言葉はありえません。産まれません。相入れません。強いられてすることは信仰ではなく強制です。コントロールです。しかし本当の信仰は、人を自由にするものでしょう。喜びを与えるものでしょう。平安を与えるものでしょう。その応答は、平安と自由、喜びを覚えずしてありえないことです。これは吟味されるところです。信仰の応答としてか義務としてか、それは自分に平安があるかどうかが判断の分け目だということです。私たちはぜひ平安を持って応答するものでありたいです。
D, 「平安と喜びを持って:福音から生まれる応答」
 そして、その「平安」と「喜び」を与えるのも、「神の恵み」を知ってこそです。福音が平安と喜びを与えます。では神の恵み、福音とはなんでしょう。それは「私たちが神に何をすべきか」ではなく、「神が私たちのために何をしてくださったのか」ということではありませんか。そしてそれは、まさに「神が御子イエスを送ってくださって、その御子イエスを十字架に従わせて死なせた、それは私たちの罪の代わりであり、私達が自分の罪ゆえに負わなければならない罰と死を神はイエスに負わせた。それによってそのイエスの十字架のゆえに、神は私たちの罪をもう問わない。私たちに罪の赦しを与えるだけでなく、神の前に正しいものとして、神の子供として、全く新しいいのちに生かしてさえくださる。その御子イエスを十字架に死なせ私たちを生かしてくださる、それほどまでに神は私たちを愛してくださる。」ーそれが神が私たちのためにしてくださったことではありませんか。それこそ福音であり、その福音が私たちにその力である信仰を与えたでしょう。それによって私たちに平安と喜びと希望が絶えることがないではありませんか。まさに神が何をしてくださったのかを知ること、福音こそ応答の力です。その恵みを知るからこそ、受けていることを喜ぶからこそ応答していくことができる。その応答は、できないことさせる力なのです。神の恵み、御子イエスを知るからこそです。だからこそ、私たちが日々、み言葉から神の福音を聞くことは大事なことなんです。信仰を奮い立たせ、私たちに応答させる力は、福音からくるのですから。そこに真の応答、献金も、奉仕も、全ての良い業や隣人愛が溢れ出てくるのです。

E, 「むすび」
 私たちは、今日もこの福音を聞きました。つまり、今日もイエスはみ言葉を語り、罪の赦しを宣言してくださり安心のうちに使わしてくださります。ぜひその喜びを覚えましょう。賛美しましょう。救われている確信を持って、平安に満たされここから出て行こうではありませんか。そして応答しましょう。恵みを覚え、平安のうちに私たちも喜びを持って捧げて行こうではありませんか。主はいつも共にあります。今週も、この喜びと平安を持ってこの恵みを証し、神を愛し、隣人を愛して行きましょう。