2016年10月23日


「イエスが与える注意」
ルカによる福音書 20章45〜47節


1.「はじめに」
 20章では、エルサレムの会堂で神の国に福音を伝えていたイエスに対して、祭司長、律法学者、パリサイ人たち、さらにはサドカイ人たちまで加わって、イエスに次々と質問をしてきたところを見てきました。いずれもイエスに敵対して、妬み、憎しみ、殺意を抱いて、イエスをなんとかおとしめて逮捕しようというのが狙いでした。もちろんイエスはやがて捕らえられるのですが、まだ時ではありませんでした。イエスはそれらの質問を、もちろん彼らのその思いも全てご存知の上で退けたのでした。20章の最後は、その問答合戦の背後で聞いていたであろう民衆を前にしてですが、民衆ではなく、弟子たちにイエスが語るところで終わリマス。その内容は、注意、警告でした。

2.「誰に対して」
「また、民衆が皆、耳を傾けている時に、イエスは弟子たちにこう言われた。」45
 祭司長、律法学者、パリサイ人たちからイエスへの質問とその議論は、エルサレムの民衆たちの注目を集めたのは間違いありません。エルサレムでは彼らは尊敬されていた指導者であり、彼らの言葉には影響力があったからです。彼らは、イエスを議論で打ち負かして、むしろその民衆の前で、自分たちこそイエスより優れていることを示したかったことでしょう。けれども、見てきました通りに、それらの企ては全て失敗し、むしろ彼らは恥をかいたとも言えます。その恥が彼らをさらなる殺意に駆り立てたとも言えるわけですが。そこでイエスは弟子たちに語り出すのですが、この45節その「民衆が皆、耳を傾けている時」と書いているように、民衆が聞いていることを前提に、イエスはそれを意図して弟子たちに語っているとも言えます。つまり直接は弟子たちに、しかし暗に民衆たちにも語っているのです。

3.「律法学者たち」
 ではイエス様は何を話ししたのでしょか。
「律法学者たちには気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上席が好きです。」46
 イエスは「律法学者たち」と特定しています。その律法学者たちに気をつけるように言います。律法学者は聖書(旧約)、神の言葉を正しく理解し、正しく伝え説教をするるために召された人々です。
 ここには皮肉があります。イエスに対して挑戦し否定し認めようとしてこなかった宗教指導者たちですが、彼らには常にこの律法学者たちが共にいたことを見ることができます。20章の1節では、律法学者ちが一緒にいたことが書かれています。19節以下の、義人を装った人々が質問者として送られる場面でも、律法学者たちがいます。そして39節、サドカイたちの復活についての質問にイエスが見事な答えをした時も白旗を上げているのは律法学者たちであることが書かれています。
 そして大事な点は、彼ら宗教指導者の質問は、皆、旧約の律法、つまり聖書の言葉をあげて質問をしてきたということです。彼らにとっては当然、律法こそ彼らの正当性の拠り所でもありましたから聖書から攻撃してくるのです。しかし矛盾がわかります。イエスがそれに対して反証してきたのも聖書を用いてであったように、その聖書こそがイエスが来ること、イエスの伝える福音に合致しているのを証しし指し示しているのに、それを律法の教師である彼らは全くわからなかった。いや受け入れられなかったのです。それは彼らは聖書を用いるけれども神を向いておらず、むしろ自分たちに向いていたが故に、自分たちが聖書に従うのではなく、逆に自分たちに聖書を従わせにして利用していた、あるいは自分が基準となり、自分に都合のいいように聖書を解釈してしまっていたからでもあったのです。

4.「「神の前」ではなく「民衆の前」を気にした」
 ですからイエスのこの言葉は彼らがどこへ向いていたのかを示しています。彼らは、聖書に神のみこころを見ることや、あるいは自分の罪深さを認めて、神にへりくだることよりも、むしろどこを見ていたでしょう。それは「民衆の目」を気にしているでしょう。彼らは「神の前」よりも「民衆の前」を気にしています。20章1節は、民衆の中でのこととして始まっています。彼らは、イエスの民衆への説教が終わって、民衆が引き上げたところに訪ねてきてもよかったはずなのです。しかしイエスが民衆に説教を語っているところにあえて、彼らは「何の権威で」と質問して来るでしょう。そして20章19節、彼らは「民衆を恐れた」と書いています。26節にはこう書いています。
「彼らは民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。」
 著者であるルカは、彼らが誰の前を意識し、誰の心を動かそうとしていたかを示しているのです。「民衆の前で」と。彼らは「神の前」を見ていません。「民衆の前」が中心であったのです。「民衆の前」が気になり、大事だったのです。それは日々の彼らの歩みにもまさに現れていました。それが「長い衣をまとって歩く」です。「長い衣」は律法学者が来ていた、名誉ある服装です。その長服を着ることで、人々は律法学者、教師が歩いていることがわかります。律法学者たちは、広場のような人々が集まるところで、あいさつされることが大好きです。まさに広場は彼らの名誉欲を満たせる最善のところでした。彼らは「民衆の前」を意識していました。それはつまり「自分の名誉を見ていた」ということでもあります。そして以前も触れたことがあるように、彼らは、会堂でも、上席に座ります。それは名誉ある席です。位の高い人が座ります。結婚式でも、彼らは上席を好んで座ると以前ありました。それは自分たちから座るのではなく、勧められて初めて座るのであればまだ謙遜ですが、しかし彼らは初めからその席が自分の席であるかのようにして座っていたとあったのを思い出すでしょう。
 このように聖書は、むしろ神の前に砕かれた心で、罪を悔い改めることを教えてきました。そしてその通りにイエスは、罪人の悔い改めにこそ神の国の福音があることを教えて来て、イエスのして来たこと伝えて来たことはその聖書の預言に合致していました。しかしそれにもかかわらずに、彼らはイエスの福音を受け入れらなかったし、聖書をむしろイエスを攻撃するために用いさえしました。矛盾にあふれていますが、まさにその矛盾の鍵が、このイエスの言葉にあらわれているわけです。彼らは「神の前」を見失い、「民衆の前」ばかり見て気にしていた、そこに聖書の教えは、彼らの目から閉ざされてしまった。神が伝えていることが見えない。福音も真のメシアも見えないのです。
 この「上席」というのも皮肉が込められています。上席とありますが、それは名誉の場所という意味です。まさにイエスは直前の43節で、詩篇のことばを取り上げて、ダビデが神が御子イエスに自分の右の座についていなさいと言ったのを聞いたことを述べています。聖書を見れば、「神の右の座」、それは真の「名誉の場所」ですが、そこに誰がつくのかを示しているし、ダビデもその御子を指し示していて「私の主」と言ったわけです。しかし彼らは、メシアの名誉の座ではなく、自分の名誉の座を追い求めているわけです。「神の前で」「神に」ではなく、「民衆の前で」「自分がみんなの前に」なのです。さらにこう続けています。

5.「見栄のために」
「また、やもめの家を食いつぶし、見栄を飾るために長い祈りを示す。こういう人たちは人一倍厳しい罰を受けるのです。」47
 誤解のないように言いますが、律法学者たち皆がそうであったということではありません。パリサイ人たちも皆あのようにイエスに敵対していたわけでもありません。中には敬虔な律法学者たち、パリサイ人たちもいたと言われています。しかし残念ながら、地位や名誉を手にすることによって人は変わりやすいもので、人の大きな誘惑とも言えるのが地位や名誉であると言われるように、そのような自分の名誉や見栄に溺れる、律法学者やパリサイ人たちが多かった。特にこの宗教の中心地であり大都市であるエルサレムではなおのことそうであったのです。
 この箇所ですが、律法学者たちは、やもめのアドバイザーを担っていたと言われています。そのようなアドバイスする中で、やもめの亡くなったご主人の財産を、自分たちに多く利益が回ってくるように操作する律法学者がいたと言われています。そのことをイエスは言っているわけです。そして彼らの特徴は長い祈りです。祈りは長さではありません。短くても長くても、「神の前」にへりくだった砕かれた心が祈りの心であり、祈りが祈りとなるための何より大事なことです。しかし、まさに彼らは祈りにおいても「人の前」「民衆の前」「見栄」を気にしたのです。そのための長さであったのでした。長い祈りは、敬虔そうに見えるのかもしれません。しかしそうではないことは言った通りです。真の祈りは、見えない、その人の心にこそあるものなのです。

6.「弟子たち、民衆への注意のことば」
 このようにイエスによって全てが見抜かれているのですが、もう一つ大事なことは、これは「弟子たちに」、そして「民衆に」対して「注意するように」と語られていることも、もう一つの大事なことなのです。イエスの目的は、ただ、彼ら律法学者の見栄だけ、あるいは「民衆の前」を気にした行動だけを批判することではないでしょう。むしろ彼らが「民衆の前」をそのように気にするのは、そのようなことで評価したり、持て囃したり、流されたり、判断したりする民衆がいるからこそではないでしょうか。いや「弟子達に」語られているということは、弟子達でさえもそのようなことに流されやすかったわけです。「誰が一番偉いか」とかイエスが神の国を完成した時に、自分こそ救い主の「右の座」にと気にしていた弟子達です。彼らもそのように上面の表面的なことや、人の前、民衆の前のことに関心があったわけです。それは人々は表面的なことや上面のことで判断したり評価したりすることが多いからです。
 そのような民衆や弟子達に「注意するように」と言っているわけです。そのように「する」律法学者たちだけを指しているのではありません。そのように見やすい、判断しやすい、流されやすい民衆、弟子達にも注意を促しているのです。
 確かに、上辺のこと、目に見えることは判断しやすいですし、わかりやすいです。しかし、この注意は私たちもよく理解できることだと思います。確かに感情的、欲求的には、簡単な上辺のことや目に見えることで判断することが容易くとも、それがいつでも判断としてよかったのか正しかったのか、神のみこころであったのかは、むしろわかりません。誰も確証がありません。なぜなら曖昧で不完全で、内側を見通せない、人間という存在の、個人的で限定的な、知識、そして目と感情と感で選び判断したものに、確信などあり得ないからです。選んだり評価しても、一時のものでもあるし、間違っていたとか、違っていたとか、あるいは裏切られた、失望したということもあるわけです。
 事実、どうでしょう。彼らが尊敬している敬虔であるとみなし、長服を着ている律法学者達は、目の前のメシアを聖書で攻撃しいずれ逮捕して殺すことになります。彼らの尊敬と経験の判断は見誤るのです。イエスが「注意しなさい」という言葉に真理があるわけです。そして旧約聖書でも有名なところはいくつもあります。王様サウルは、見た目は、背が高くハンサムで、聡明そうに見えたとあります。そして、裁き司であったサムエルが、サウルの代わりの王様をエッサイの家に探しに言った時のこともあります。サムエルでさえも、上辺で人を選んで行きます。しかし神はサムエルにことごとく、その人ではないと告げていいます。
「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」第一サムエル16章7節

7.「本当に大事なこと」
 まとめたいと思いますが、今日のところから教えられることが三つあります。第一に、聖書の位置付けです。律法学者は自分を中心にして自分のために聖書を利用をしました。つまり聖書を自分のしもべにしたのです。けれども正しいのはその逆です。自分を中心に、自分を基準にそれに聖書を合わせるのではありません。神が中心、神の前の私たちであり、私たちが聖書に従うのです。第二に「神の前」の大切さです。「人の前」のことを基準にすると、神の言葉、神のメッセージを見失います。誤解します。間違って自分に都合よく、人の前の利益を考えて解釈してしまいます。これは説教者である私自身への戒めでもありますが、神の言葉に生きるクリスチャン皆にとっての大事なことです。私たちは皆「神の前」にあるということです。そして最後にサムエルに語られた主の言葉の通りです。
「人はうわべを見るが、主は心を見られる」
 これはもちろん私たちが人を見る時や、評価判断をするときにも大事な基準ですが、自分たちにもあてはめられることです。神は私たちをも上辺ではなく私達の心をみられるのです。これは私たちが人をどう見るか、そして自分と神様との関係においても大事な神様の御心です。

8.「おわりに」
 私たちは「イエスが示す神の国の福音に」こそ救いを得ます。そのイエスが示した神の国の福音。それは罪人たちとの食事の席に、全身おできのまま天に挙げられたラザロに、胸を叩いて「罪深い私を憐れんでください」と叫ぶしかなかった取税人に、そして、ザアカイに神の国は表されました。私たちにとって大事なのは、神はその心を全て見ておられご存知なのですから、本当に罪深い自分をそそのまま神の前に認めて、日々、神の前に悔い改めることです。自分の罪を認め悔い改めるからこそ、イエスにあらわされた神の十字架の愛が私のための真の世の光であるとわかるでしょう。こんな罪深い私のためにイエス様を送ってくださった。このイエスを私のために十字架に従わせて死なせた。それによって私は今も罪深いのに、罪赦されたものと認めてくださった。その時私たちは、神の前に安心することができる。そこに平安と喜びがある。そのように日々生きることができるのです。ぜひそうしましょう。日々、悔い改め、十字架のイエスに帰り、与えられる確信と平安を受けようではありませんか。そして平安と喜びを持って、神を愛し、隣人を愛して行きましょう。