2016年10月9日
1.「ふりかえって」
この20章では、エルサレムに入り、祭司長、律法学者たちからの挑戦を受けるイエスを見てきました。前回は、復活を否定するサドカイ人たちから質問を受けました。彼らは「モーセの律法」を取り上げて、もし復活があるというなら、その時に起こりうる矛盾と思われる仮説をあげて、復活はないということを論じようとしたのでした。それに対して、イエスは、神は、キリストを信じるものに復活を約束しており、復活は必ず起こることであると示しました。そしてその復活では、信じるものは皆神の子供として、神との新しい関係が待っているのであり、それは地上の律法に全くとらわれない素晴らしい関係があると答えたのでした。その答えに対して、サドカイ人とは逆に復活を信じる律法学者たちパリサイ人たちの一部は「立派なお答えです」と答えるしかありません。そしてもはや誰もイエスに質問するものはなかったのでした。イエスはそんな彼らに次のようなことを教えます。
2.「なぜキリストをダビデのこと言うのか」
「すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子というのですか。」41節
イエスは尋ねます。どうして人々は、やがて来ると約束されている救い主を「ダビデの子」というのですかと。確かに旧約の預言では、救い主は、ダビデの家系から生まれるとされているのです。ダビデ自身に主が約束していたことでした。「あなたの身から出る子をあなたの位につかせよう」と(詩篇132篇11節)。ですから確かに人々は、約束のメシア、救い主キリストを、ダビデの子として待ち望んでいたのでした。
けれども、その期待、彼らが待ち望んでいたメシアは「新しいダビデ」であったのです。彼らイスラエル人にとって、ダビデは、まさにイスラエル最高の王であり、勝利と繁栄のイスラエル王国を打ち立てた偉大な存在でした。アブラハムやモーセにもならぶ偉大な先祖でした。国の繁栄や成功の象徴的な存在です。ですから「ダビデの子」という呼び名、待ち望む叫びは、確かに聖書の約束に沿ってはいますが、それは新しい偉大な人間の王、つまり偉大な人間としての新しいダビデやソロモンを待ち望んでいたにすぎませんでした。これまで人々のメシアへの期待がローマからの革命と独立、そして過去の栄光であるダビデの時代のような強い繁栄のイスラエルを夢見ていたというのということに重なります。
そのような偉大な人間への期待や待望しか見といないことによって、人々が大事なことを見失っていることをイエスは見抜いていうのです。聖書からはっきりと示します。
3.「イエスが示す聖書の言葉」
「ダビデ自身が、詩篇の中でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座についていなさい。』こういうわけで、ダビデがキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」42節?
イエスが引用しているのは、詩篇110篇1節の言葉です。そこでダビデは詩を歌っていっているのです。それは主がキリストに語りかけているのをダビデは聞いていて、そのキリストについてダビデは言うのです。「私の主」と。だからどうして、キリストがダビデの子ということになるのかと。そういうわけです。
この詩篇の引用のキリストに語っている言葉も大事です。それはダビデが「私の主」と呼ぶキリストのために主なる神が戦い敵を打ち負かすだろう。それまでそのキリストは主の右の座にいるようにと、そのような主の声を聞いたとダビデはこの詩篇を書いています。つまり、この詩篇は、ダビデは、やがてキリストを通して主なる神が勝利をされること、つまり十字架と復活の出来事をダビデ自身がその約束、その声を聞き賛美している、重要な箇所だということです。つまりダビデ自身がはるか昔からすでにキリストの預言を聞いていて待ち望んでいたのです。いやそれどころか、「私の主」という言葉はとても意味が深いですね。それは、ダビデとともにあったのは、キリストであったということでしょう。ダビデがサウルから追われている時も、どんな苦難と試練の中にあっても、そのダビデを助けたのは、その「私の主」と呼ぶ方であったからこそ、彼はそう呼んでいるわけです。まさにキリストがダビデにタイムリーに、現実に、働いていたことを示しているのです。このようにここでは、ダビデ自身、その時代にすでにキリストを「私の主」と呼んで信じていたことを、イエスはこのところで伝えているのです。
4.「ダビデが指し示す先」
ダビデは確かに偉人です。偉大な王でした。けれども、その偉大さと祝福は、その彼が呼ぶ「私の主」の故でした。彼が主に呼び求め、信頼し、祈ったからこそです。偉大であったのは「私の主」であったのです。彼自身はどこまでも罪人でした。弱い一人でした。しかしその罪と不完全さの現実の中で、むしろ彼は主の前に罪深い自分を告白し、どこまでも悔い改め、主に任せていったのが聖書が伝える彼の信仰です。その信仰のゆえに、主はダビデから離れなかったのです。そのようにむしろダビデ自身は、自分を示し、自分を誇るのではなく、どこまでも主を指し示していったのでした。逆に自分を偉大だと自分を指し示し、誇った王は皆滅んでいったでしょう。サウルのようにです。ですから旧約の証から教えられるのは、主の民の見上げるべきところは昔から何も変わることがないことがはっきりとしているということなのです。それはダビデも「私の主」と証しし、指し示した主であるということ。それはまさしくキリストであるということなのです。
しかし、このイエスの時代も、人々は、約束をしてくれた主ではなく、その主の恵みや御心、悔い改めや信仰よりも、ただ新しいダビデ、新しいソロモンを待ち望み、地上のことだけに期待は終始してしまいました。人々も祭司長たちも、地上の政治的な繁栄や成功に目が向いていました。そして、一方で、イエスの福音によって罪人が悔い改めたり、あるいはイエスが彼らと食事をすることを見ても彼らは全くピンときません。祭司長達は、どうであったでしょう。神殿という建物と地上の儀式の維持のためににしか目が向いていませんでした。異邦人の庭を動物売りの場として、その動物売りのシステムは、礼拝や神殿運営を合理的にし、安定した運営にはしましたが、貧乏人が礼拝をするのを難しくしました。またパリサイ人や律法学者たちは、安息日や人々の律法の行いを監視することに重きをおきました。サドカイ人も含めて宗教指導者たちは、モーセという偉大な存在とそのモーセの律法に神の国を見ました。
しかしそのように、偉大な人や、偉大な国、そして過去の栄光、そして目に見える行いや律法、あるいは合理性を求めるあまりに、彼らは、モーセが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と指し示し、ダビデが「私の主」と指し示した主、キリスト・イエスとそのイエスが語り行う福音の素晴らしさに気づかないのです。キリストの福音を全く受け入れることができませんでした。キリストの御心と業に気づきませんでした。イエス・キリストが明らかにする神の国を受け入れられないのです。まさにイエス様が罪人と食事をし、その彼らを探して救いだすためと言い、あるいは、彼らが悔い改め「主よ憐れんだください」と祈るところに神の国があることを示しても、彼らは蔑みました。彼らの抱く期待と違うからと受け入れられないのです。まさに律法と過去の栄光、新しいモーセ、新しいダビデしか見えていなかった結果でした。けれども聖書はまさに証していました。モーセも罪人であり、ダビデも罪人でした。しかし彼らはまさに、自分の罪深さを認め、神の前にひざまずき悔い改めたところに、主の憐れみと愛と恵みを受け、そこに人間の罪の現実とともに、主の圧倒的な恵みの福音の真理を見出し認めたのです。マルティン・ルターも、旧約の信仰者たちは、その罪の赦しの主に、福音を、そして十字架のキリストさえも見ていたのだとさえ解釈しています。
このイエスの言葉は、そのように人々が期待するダビデのような偉大な人間の到来や黄金のエルサレムのような過去の栄光に、神の国があるのではないことこそ聖書の約束であり、メシア、キリストの約束であるのだと、伝えているのです。
5.「キリストの誕生」
そして、事実、人々が誰でも知っていた、そのキリストがダビデの家系に生まれるという点においても、イエスがダビデの家系から生まれた出来事そのものに神がなそうとしたことが何であったのか現れているでしょう。まずイエスの誕生は決して人の業ではなかったです。聖書には、イエスがマリヤから生まれるのは、聖霊によって身ごもり、身重になったとあるでしょう。むしろその不思議を経験したマリヤは、御使に告げられた時、「そんなことがありえましょうか」と疑いました。そして思いもしない妊娠は彼女の不安と戸惑いでしかなかったでしょう。そして彼女は痛みを持ってイエスを産みましたが、そのようにイエスの妊娠も誕生も彼女の責任によるものは何もありません。全て主からのものであり、主の責任であり、主が成した天の業であったでしょう。このようにダビデの家系に生まれるという約束さえ、表されたことを見るなら人の業は一切ありませんでした。ダビデやモーセではない、そこには「主なる神のみ」が指し示されていたのです。
6.「私たちは何を見るか」
今日の箇所は、まさに「私たちは、一体、何を見るべきか」を、私たちに示されていると言えるでしょう。それは、ダビデが「私の主」と呼ぶその方です。あるいは、先週のところにもありました。モーセが「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と指し示す方です。それはキリストに他なりません。私たちが見て待ち望み、期待し、信頼するのは、過去の栄光や目に見える地上の繁栄でもありません、新しい偉大なダビデやモーセでもありません。どこまでもそのダビデがモーセが指し示したキリストこそを見るようにと、イエスは私たちに示しています。そしてそのイエス・キリストが証しする神の国は、どこにあるのか。イエスが罪人と食事をするその食卓に、迷子になった羊を探す羊の持ち主、放蕩息子を待っている父に、神の国はある。「神よ憐れんでください」と叫ぶしかない罪深い取税人の祈りに、罪深いラザロに、子供のように受け入れるものに、ザアカイの悔い改めに、神の国はあった。それこそまことのキリストが、私たちに指し示す神の国であると。そのように今日も示されているのではないでしょうか。
7.「今も変わらぬ「私の主」の恵み」
そして最後に、イエスはここでダビデの証を通して私たちの今も変わらない幸いを示しています。それはそのような地上のダビデや、地上の王国や繁栄よりも、素晴らしいものです。それはまず第一に、ダビデがそうであったように、私たちもキリストを「私の主」と呼ぶことができることです。そしてその主はダビデのために戦ってくださいました。ダビデがどん底の試練の時も、その「私の主」はダビデとともにありダビデを捨てませんでした。助け出しました。罪を犯した時も、罪を教え、悔い改めへと導き、そして悔い改めに対して赦してくださった「私の主」でした。その主が私たちにもともにある。私たちのために主は戦ってくださり、どんな試練でも、どん底でも、それが罪の中であっても、主は決して私たちを見捨てない、救ってくださる。私たちを悔い改めに導き、私たちにも罪の赦しを与え、新しいいのちを与えてくださる。十字架と復活において。このように私たちもそのキリストの恵みにこそ今あることが何よりの幸い、まさに神の国の素晴らしさであることをイエスはこの言葉から伝えてくれていると言えるのではないでしょうか。それは地上のダビデやモーセ、地上の繁栄よりもはるかに素晴らしいものであることの約束です。
8.「終わりに」
ですから、私たちに何より幸いで大事なことは、そのダビデのように主の前にどこまでもへりくだり、悔い改めること。そして「私の主」あるいは「お父さん」と叫び、どこまでもその主に求め、祈り、信頼し、その与える恵みを受け取ることです。罪の赦しを受けることです。そこにこそイエスが与える平安があります。私たちは、どこまでもイエスにあって喜びと平安に満たされ生きる、どこまでもその安心のために主にすがるのです。それこそが私たちに開かれている神の国の幸い。ダビデもモーセも見ていた、主であり、主の国、主の幸いです。ぜひそのアブラハムも、イサクも、ヤコブも、「私の主」と呼んだ主、モーセも「私の主」と呼んで指し示した主、ダビデが「私の主」と指し示した、その主、キリストこそを私たちも見上げましょう。そしてキリストが、私たち罪人にこそ現してくださったその福音の実現、その十字架にこそ開かれた神の国の門を通り、ただキリストこそを信じて通り、ぜひその神の国に与ろうではありませんか。いや信じ洗礼を受けたものは、すでにその罪の赦し、神の国に与っています。ぜひすでにあることを確信し、それによってぜひ安心して、ここから遣わされていきましょう。そして、その恵みを持って、神を愛し、隣人を愛していきましょう。