2016年10月2日


「復活の子として神の子供だから」
ルカによる福音書 20章27〜40節

1.「はじめに:これまでをふりかえり」
 20章では、エルサレムで、イエスが、祭司長、律法学者たちから様々な挑戦を受ける場面が続いています。最初に彼らはイエスに「何の権威によって、神殿で教えているのか」と問いました。それに対してイエスは逆に、彼らが信じなかった「預言者バプテスマのヨハネの権威はどこから来たのか」と尋ね返します。彼らは答えられません。なぜなら「人から」と答えるなら、ヨハネを信じていた群衆の支持を失い、「神から」と答えると「なぜ信じなかったのか」と問われるからでした。そのような彼らについてイエスはぶどう園の主人のたとえ話を話します。その話の中の、主人からぶどう園を強奪し、主人の息子を殺してしまう農夫たちこそ、天からの救い主を否定し殺そうとする祭司長たちであることを示すのでした。彼らはイエスを捕らえようとしますが、民衆のイエスへの人気を恐れてできません。そこで前回ですが、今度は義人を装わせた使者を送って、ローマへ税金を払うことは律法にかなっていることかどうかという質問をします。もしイエスが「律法にかなっている」と答えると、イエスはローマの支配を嫌っている民衆の支持を失い、逆に「律法にかなっていない」というとローマへの反逆となるというような、イエスをおとしめるための罠であったのです。しかしそれに対しても「イエスはカイザルのものはカイザルへ、神のものは神に返しなさい」と言う見事な回答をするとともに、神の前では義を装うことは決してできないというメッセージもあったのでした。そのようにイエスは、彼らの挑戦に、悪意があることをすべてご存知で退けるのですが新たなる挑戦が来るのです。

2.「サドカイ人の質問」
「ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して、こう言った。」27節
 サドカイ人はここにあるように、死者の復活を否定する人々であり、しかもモーセが書いたと言われるローマ五書しか信じていませんでした。彼らは、パリサイ派とは議論ばかりしていて本来は折り合わない関係ではあったのですが、ここではイエスを捕らえるという共通の目的にあって、彼ら特有の質問でイエスを試すのでした。どのような質問でしょう。こう続いています。28節から
「こういった。「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のために子をもうけなければならない。』ところで、七人の兄弟がいました。長男は妻をめとりましたが、子供がなくて死にました。次男も、三男も、その女をめとり、七人も同じようにして、子供を残さずに死にました。後で、その女も死にました。すると、復活の際、その女は誰の妻になるでしょうか。七人ともその女を妻としたのですが。」28?33節
 こんな質問でした。彼らは、モーセの律法から質問するのです。
『もし、ある人の兄が妻をめとって死に、しかも子がなかった場合は、その弟はその女を妻にして、兄のために子をもうけなければならない。』
 確かに律法にあるわけです。しかし、彼らは、そこから七人の兄弟が次々と子を設けずに死んだ場合と仮定して、そこから死者の復活の時に起こりうる可能性の矛盾を示して、復活の馬鹿馬鹿しさを示しているのです。「一体、その妻は誰の妻になるのか」と。「その兄弟七人全員の妻ということになるではないか」と。まずこの質問ですがその仮定そのものが極端ですし、当時でも起こりないようなことですので、これはまさに「へ理屈」でした。しかしこれによって、復活はない、馬鹿馬鹿しい妄想であることを主張し、そして議論でイエスを打ち負かしたかったのでした。

3.「イエスの答え」
 けれどもイエスはそれに対してこう答えるのです。このイエスの答えには、幾つかのメッセージと幸いがあります。
A, 「復活はある」
「イエスは彼らに言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するにふさわしいと認められる人たちは、めとることもとつぐこともありません。」34?36節
 まずイエスは、死者の復活が、「ありえない、馬鹿馬鹿しいこと」ではなく、確かにある、起こることであるとはっきりと言っています。けれどもそれは「次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するにふさわしいと認められる人」とあるのです。
B, 「ふさわしさ」
 皆さん、この「ふさわしさ」は気になります。「ふさわしさ」とは何でしょう。今日は聖餐式があり、聖餐式の時にはいつもその「ふさわしさ」のことを話します。聖書では神の前における「ふさわしさ」は一貫しています。それは「信仰」に他なりません。アブラハムはまだ見ていないのに神と神の約束を信じたがゆえに「義と認められた」と創世記15章にはあります(創世記15:1?6)。そしてヘブル書では、その言葉に基づいて、信仰の人こそアブラハムへの祝福の約束の相続人であることを伝えられています。パウロも「信仰によってこそ義と認められる」と繰り返していますし、何よりイエスのメッセージがそうであったではありませんか。神の国はどのようなものにふさわしいか、18章?19章でありました。それは「子供のように神の国を受け入れるもの」でした(ルカ18:16?17)。自分は十戒をすべて守り、断食や捧げ物を沢山し、取税人のようではないことを感謝しますと、自分を誇る祈りをしたパリサイ人ではなくて、自分の罪を悔い、胸を叩いて、「主よ、憐れんでください」と叫んだ取税人こそ義と認められて家に帰ったといい(同18:9?14)、取税人ザアカイが悔い改めたとき、そしてイエスの愛への応答をした時に、今日、救いがこの家に来た、人の子は失われた人を捜して救いだすために来たのです」と言っていたでしょう(19:10)。私たちが「ふさわしさ」と聞くとき、人の見るふさわしさは、地上の限られた価値観や、人の行い、何をしたか、何を持っているか、どんな功績があるかに制約された狭いものを考えがちです。ですから、それに当てはめて、自分は罪人だから、こんなに悪いから、何もできないから、自分は教会に、洗礼に、信仰に、聖餐にふさわしくない。私たちはそう考えがちです。しかしどうでしょうか。聖書が伝える、天の神の前にある真のふさわしさは、むしろ逆説的です。罪を認め、苦しみ、悔い、そして、そんな無力で何もできない自分を認め、何もできない子供が親にすがるように、愛と憐れみの神にすがることそのものが、神の義に、神の前に、神の国に、ふわしいとイエスご自身が言っているのです。
C, 「約束をともなったメッセージ」
 みなさん、それがイエスの言う天の「ふさわしさ」です。悔い改めと信仰こそです。「自分は罪深い」と思うからこそ、この罪の赦しと新しいいのちの聖餐を受けるのです。そこにこそ、真のイエスが与える世が与えるのとは違う喜びと平安があります(ヨハネ14:27)。そしてそのふさわしさは、まさに「次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するにふさわしい」ことと同じなのです。信仰の道は、死で終わる道ではなく、すでに始まっている新しいいのちの道は、身体が死んでも生きる道であり、そして肉体がよみがえる素晴らしい道なんだということです。このようにここの言葉はまさに約束を含んでいて、私たちに希望を与えてくれています。復活がないなんてとんでもない、イエスは約束しています。必ず復活すると。死で終わらない、信仰の先には、神による素晴らしい次の世が必ずある。そう約束しているのです。
 そして、サドカイ派の人々に、そのような復活の後の新しい世界にあっては、もはや、めとることもとつぐこともない、誰の妻とか夫とか、そのような地上の関係とは全く違う、想像もできない新しい素晴らしい関係が待っているのだと、示すのです。確かに地上の婚姻関係も神が定めたもので、祝福です。それは地上で、家族を形成し、互いに助け合うためのものでした。創造においても「一人でいるのは良くない、ふさわしい助け手を送ろう」(創世記2:18)とありましたが、しかし堕落後は、婚姻や夫婦関係も堕落し、神のみこころを絶えず行えるものではなくなりました。夫婦や家族は、愛の単位でもあり、同時に、神の前にあってはどこまでも罪人の社会の最小単位でもありどこまでも不完全な存在です。しかし、復活の後の新しい世界では、それら古いものはすべて過ぎ去って、新しくなるのだとイエスは伝えているのです。なぜなら
D, 「復活の子として神の子供」
「彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使のようであり、また、復活の子として神の子供だからです。」
 もはや死ぬことがない。聖書の一番最後の「ヨハネの黙示録」には詳しく約束されていますが、その来る新しい世界では、もはや苦しみも死もない、悲しみもない、涙は一切拭われるともあります(ヨハネ黙示録21:1?5)。全く新しい身体と世界です。それは今のような身体ではなく、私たちは、御使い、天使のようだと言っています。「ようだ」とありますので、「天使になる」とは言ってません。しかし天使のように、喜びのうちに神に仕えるものになる。しかしそれは、復活の子として神の子供だからとあります。この「神の子供だから」という言葉は幸いです。神をお父さんとして私たちは皆、その子供として、全く新しい関係が待っているんだ、だから、もう誰の妻だとか、夫だとか、そんな地上の不完全な関係は、新しい世界では、問う意味自体、必要性がないのだと、イエスは言っているのです。
E, 「約束のゆえにはっきりと見える道」
 そして先ほども言いました。これは素晴らしい約束を伴っています。つまり、信仰を与えられた私たちは、その恵みに、私たちは与っている。私たちは皆そのゴールこそを約束されて向かっているというのです。曖昧でも不安でもない明確な行き先、ゴールが、私たちにはしっかりと与えられている。しかも決して神は裏切らないし、無効にもされない、既に受けている確かな約束であると。これは、感謝なことではありませんか。世にあっては様々な困難や矛盾、不条理があって、私たちは、苦しみ、悲しみ、耐え忍びます。しかし十字架の先に、復活があったように、私たちにも今も復活の恵みはありますが、体の復活と新しい世界の約束がある。私たちはこの約束をしっかりと握って、この世を歩み続けていきたいのです。
F, 「生きている神、そして、神に対しては、皆が生きている」
 最後のところも幸いです。
「それに、死人がよみがえることについては、モーセも芝の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、皆が生きているからです。」37?38節
 サドカイ派の人々が、モーセの律法を出してきて復活を否定することへの反論です。まさにモーセは、かつての先祖をさして、神を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んだではないかというのです。もちろん、地上にあっては、モーセの時代は、アブラハムも、イサクも、ヤコブも死んだ人でした。けれどもまことの神は、そのときなおも、変わらず、アブラハム、イサク、ヤコブの神として、モーセ自身の神でもあるとモーセは告白していたのです。そのことはつまり、神は、まさにいつの時代も超越して、永遠に生きておられる方であるということです。それと同時に、神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、神に対しては、つまり、神にあるものは、皆が生きているのだと、そう言っているでしょう。つまり永遠の神の前にあって、自分が生きているように、アブラハムも、イサクも、モーセも生きている、体は死んでも、生きているのだ、そして、モーセがそのようにいうのは、まさにやがて主にあるものが皆よみがえることをも示していたのだと、イエスは伝えているのです。
 まことの神にあるものは、肉体の死は決して終わりでも結論でもないことをこのところは示しています。ヨハネの福音書には「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは死んでも生きる」(ヨハネ11:25)とあります。イエスにあるいのちは、まさに復活のいのちですから、死んでも生きる。同じようによみがえることをイエスは伝えていました。
 このようにイエスの約束は究極の希望を私たちに与えてくれています。主にあって死は終わりでも結論でもゴールでもありません。一つのプロセスであり、その先に、大いなる約束、いのち、究極の新しさ、真の喜びと平安なゴールがあるのです。私たちに与えられてている信仰の歩みはそこに向かっているのです。幸いではありませんか。そして、主の前にあっては「皆、生きています」と、イエスは言っています。つまり、先に人生を終えた一人一人もイエスの前にあって、アブラハム、イサク、ヤコブと同じように、「皆、生きている」と、イエスが言っているのは幸いなことではありませんか

4.「むすび」
 ぜひ私たちは、この素晴らしいいのち、信仰の道に与っていることを感謝し、救いを確信、聖餐にあずかりましょう。先ほども言いました。ふさわしさは、このイエスによって救われた。洗礼によって新しくされている。その確信です。今確信が与えられました。ぜひ信じて、喜び感謝して、聖餐にあずかりましょう。そして、喜びと平安に満たされ、今週も、ここから遣わされ、神を愛し、隣人を愛していきましょう。