2016年9月18日


「義人を装った質問者たち」
ルカによる福音書 20章19〜26節

1.「はじめに」 
 前回はイエスが話された「ぶどう園のたとえ」。それは主人のぶどう園を最後には強奪しようとする農夫たちの話でしたが、イエスは神からの救いの福音を拒み、自分たちの力と律法で神の神殿を守ろうとする祭司長たちの姿こそ、その農夫たちの姿であり神の神殿を神から強奪するに等しいことを示したのでした。しかしその彼らが捨てた福音にこそ神は神の国を立てられるのだと、私たちの信仰の立つべき土台が、福音の上にこそあり、そこに教会も私たちの救いの歩みも立てられている幸いを教えたのでした。

2.「祭司長たちの策略」
「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいていたので、この際、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。」
 不思議なのは、彼らは、そのたとえが自分たちを指していると気付いたということです。そのたとえでは、農夫たちは、主人が遣わしたしもべを拒み、そして主人の子が送られても殺してしまいます。それが自分たちだとわかったというのは、彼らがイエスは誰であり、何をしているのか、気づいているということです。しかし内心わかっていても、自分のプライドや立場を優先するあまり、認められない、あるいはわかっているのに無意識的に認めようとしない、しかもそれがエスカレートしていく、ということは人間には誰でもよくある心理を表しているところでもあります。彼らの妬みがあまりにも強く、イエスを邪魔で何とか消し去りたいという欲求が勝ってしまっているのです。実に、聖書の中でパウロ自身、自分をさして、「自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行ってしまいます」(ローマ7:19)とも言っていますが、その言葉は、人間の性質を見事に表している言葉です。それが宗教指導者でもあった祭司長や律法学たちであったとしても、いやまさにパウロであったとして、人は誰も自分の罪やその思いを自分ではコントロールすることができない、そのような存在、性質を教えられるのです。彼らはそのように殺意をコントロールできず、イエスに手をかけて逮捕しようとするのですが、しかし民衆がまだイエスを支持していたので、その民衆を恐れてイエスに手を出すことができなかったのでした。それは妬みや殺意を収めたのではありません。むしろ彼らはその機会を伺い、イエスをなんとか捕らえるため巧妙に策略を練ってくるのです。20節
「さて、機会を狙っていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そうと、計った。」
 彼らの計画は、力で押してダメなら、今度は引こうとするわけです。「義人を装った」とあります。つまり正しい人を装おわせて人を送ろうというのです。彼らは自分たちのイエスへの殺意が悟られていると思ったのでしょう。今度は「イエスの支持者」であると装わせて尋ねさせるわけです。しかし彼らの動機は変わりません。質問に落とし穴を用意しておいて、足もとをすくおうということなのです。しかし彼らは、自分たちでは、民衆のイエスへの人気の手前、何もできないからと、今度は、彼らが嫌っているはずのローマという権威を用いるわけです。

3.「義人を装ったものの質問」21節
「その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなた方がお話になり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」
 先ほどもありました。彼らは「義人を装って」とありましたように、これは表面的なことで、本当はそう思っていないわけです。そこには祭司長たちの落とし穴が隠れています。けれどもこの言葉も不思議で、彼らは、「義人を装う」ことができるわけですから、つまり、それは何が正しいか知っているということを意味しています。つまり彼らはその言葉の通りに、イエスが「話し、教えることが正しく」、イエスが罪人などに「分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられる」というその活動の正しさを分かっているということです。しかし理解していても、心には全く思っていない、信じていないわけです。前述のように、それは、人は、たとえ正しいことがわかっていても、人間の罪の欲望や妬み、プライドや面子を守ろうとする行動や感情を、完全にコントロールができないという人間の性質をやはり見せられます。
 さてそのように最初にイエスをある意味おだててから、祭司長たちが考えた、イエスを落としめローマに告発するためのその質問をするのです。22節
「ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
 この質問を祭司長たちは用意したわけです。この質問の意図がわかるでしょうか。まず、もし「ローマに税金を納めることは律法にかなっている」と答える場合です。ユダヤ人たちはローマへの税金を好ましく思っていない、あるいはそれは嫌悪でもありましたので、もし「かなっている」というと、イエスは民衆からの支持や人気を失います。では逆に「ローマへの税金は律法にかなっていない」と答えた場合ですが、これはどうでしょうか。この場合は、今度は、ローマへの反逆になります。祭司長たちは、ローマの総督に引き渡そうと計っていましたから、イエスは「ローマへの税金は律法にかなっていない」と答えると思っていたのでしょう。これが彼らがローマへとイエスを告発し、引き渡すために考えた手段であり質問であったわけでした。しかしこう続いています。

4.「神の前に義人を装うことは決してできない」23〜24節
「イエスはそのたくらみを見抜いて彼らにこう言われた。デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これは誰の肖像ですか。誰の銘ですか。」彼らは「カイザルのです」と言った。」
 イエスは、祭司長たちからの使者たちが、義人を装っていることを見抜いているのです。このところは大事なところだと教えられます。それは神であるイエスの前で義人を装うことは決してできないということです。私たち人間や社会は表向きで判断することが多いかもしれません。しかもその華やかさとかイメージの良さとかで判断します。けれども表がすべてを表しているとは言い切れません。祭司長たちも、表向きの装いだけでイエスをごまかせると思ったのでしょう。
 しかし、神は違います。神はサムエルに言いました。「人はうわべを見るが、神はその心を見られる」(第一サムエル16章7節)と言いました。その通りです。うわべを装うことで、人はごまかすことができるかもしれません。けれども決して神を欺くことはできません。神の前に義人を装うことなどは決してできないのです。むしろ18章でも見てきました、「隣の罪人のようでないことを感謝します」と「自分の正しさ」を自慢したパリサイ人(ルカ18章11?12節)や「自分は十戒をすべて守ってきた」と誇った役人のように(同18章21節)、私たちは人の前だけでなく、神の前でも、なんとか自分たちは正しいと見せよう、装おうとするものかもしれません。けれどもそれは神の前には全くナンセンスで不可能であるということです。神の前には義人を装うことは決してできない。むしろ神の前で自分が正しいと示そうとするということは、自分の行為や何かによって神の前に義を立てようとすることです。それは不可能なことです。何より、私たちが神の前に真に正直になろうとするときに、私自身は、神の前に「自分は正しいです」などとは決して言えません。見えるところはもちろん、見えない心でも、その中身は実に汚く罪深い私であることを認めざるをえません。神の前に義人を装うことは決してできません。いや、むしろ、このイエスにあっては、私たちは神の前に義人を装う必要は全くありません。18章でありました。パリサイ人の祈りと取税人の祈りのたとえがあったではありませんか。パリサイ人の祈りは、まさに神の前に自分は正しいですという祈りでした。しかも隣の罪深い取税人と比べて「この取税人のようではないことを感謝します」とさえ言いました。けれども、イエスは言いました。神の前で自分の罪深さに顔も上げられずに、罪を悔い、その罪深さを認め、ただ「神様、憐れんでください」としか祈れなかった、その取税人の祈りこそ、神の前に義と認められたのだと(同18章13?14節)。
 大事なのは、神の前に義人を装うことではありません。そうではなく、神の前に「自分はこんな罪深い一人です。憐れんでください」と、祈りすがる、その信仰です。その素晴らしい恵みと神の国の姿が、この「たくらみを見抜かれた」イエスから学ぶことができることではないでしょうか。

5.「カイザルのものはカイザルへ」
 イエスの対応です。1デナリ銀貨、それは、今の日本円でいうと、5000円相当で、当時の1日分の労働賃金が1デナリと言われています。その銀貨には、カイザルの肖像と銘が刻印されていました。イエスは彼らの質問に答えます。25節
「すると彼らに言われた。「ではカイザルのものは、カイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。」
 イエスの答え、それは「カイザルのものは、カイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」でした。このことばは何を伝えているでしょうか。
 まず第一に、私たちは、国の統治者にも忠実であるようことです。これまでも見てきましたように、ユダヤの人々はメシアに期待をいただいていました。それはメシアである方は、このローマの支配からイスラエルを解放して、もう一度、黄金の繁栄のエルサレム、イスラエルを復興するのだと。つまり救い主は、武力でローマに対しhて革命を起こして、目に見える変革と繁栄をもたらすのだという期待だったわけです。祭司長たちもそのような民衆の期待をわかっていたからこそ、このローマに逆らうような質問をしたといえるでしょう。けれども、イエスは「カイザルのものは、カイザルに返しなさい。」と答えることによって、自分は決してローマに対して軍事的な革命を起こして、政治的な独立と繁栄の復興をするために来たのではないことを明確にしていると言えます。その通り、イエスの神の国は、革命ではなく、目に見える繁栄でもなく、むしろ取税人など罪人と食事をするところにこそ現されました(ルカ15章、19章1?10節)。ザアカイの悔い改めを導き、そしてザアカイが罪を悔い、イエスの福音に応答する、そのことに「今日救いがこの家に来ました」と言いました(同19章8?9節)。そしてそのイエスの目的を伝えています。「人の子は失われた人を探して救うためにきたのです」と(同19章10節)。その神の国でした。決してローマへの革命や犯行を先導するためではなかったわけです。むしろイエスは、「カイザルのものはカイザルへ」と、その統治、税金を支払うことに従うことの正しさを示しています。パウロも言っています。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。?あなた方は誰にでも義務を果たしなさい。貢ぎを納めなければならない人には貢ぎを収め、税金を納めなければならない人には税を収め?」ローマ13章1、7節
 こうあるのです。もちろん地上の権威(国や政府、等)は不完全で、過ちも犯します。しかしその地上の権威は、この世の秩序の維持と社会の安全と平和のために必要なものとして神は立てているということです。そしてその社会にいる私たちはそのために果たすべき義務があり、それが正しいことである場合は、喜んで従いなさいとパウロは教えているのです。もちろんそれは地上の権威が神に勝るものでなく、地上の権威が、私たちに罪を強いたり、神に従うことを妨げるような時には、「人に従うより神に従いなさい」と言う大前提があることは言うまでもないのですが。そのように私たちは、神に従うものとして、神が地上の平和と安全のために与えた地上の権威だからこそ、その権威にも忠実に従うことは決して神に権威に逆らうことではなく、むしろ神にも忠実なことです。そのことは私たちがこの社会、日本、世界の一員として生きるための大事な教えではないでしょうか。そしてイエスはさらにこう言っているのです。

6.「神のものは神に返しなさい」
 「神のものは神に返しなさい。」
 とも言っています。先ほどのパウロの言葉にもありましたように、地上の権威は、神の権威によって信託されたものです。ですから、神の権威は地上の権威に勝るものです。むしろこの世は神のものであり、地上のものすべては神のものであることは聖書の一貫した教えです。私たちはその神のものを、神から恵みとしていただいて生かされているものです。それはまさに先週の「主のぶどう園」がここに繋がっています。私たちは主のぶどう園で、主の恵みを頂いる一人一人です。救いもそうです。信仰もそうです。私たちは多くの恵みを神から受けていて、救いはまさに恵みの上にさらに恵みの出来事なんです(ヨハネ1章16節)。私たちはそのことを覚える時に、本当に喜びを覚えます。安心を覚えます。私たちのいのちの歩みというのは、その神から受けている恵みに、喜び、感謝し、その喜びを返していく歩みだと言えます。まさに「神のものは神に返しなさい」です。そして、むしろ私たちが「神に返す」という時に、それは神にというよりは、隣人に愛を現していくことが、神のものを神に返していくことでなのです。「この貧しい人たちにしたことがわたしにしたことです」とイエスはたとえを用いて言いました(マタイ25章40節)。「わたしがあなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい」とも言いました(ヨハネ15章12節)。神が望んでいる最大の私たちからの応答は、隣人にその神の愛を、救いの喜び、平安を、現していくことです。それが福音の力、素晴らしさに他なりません。ですから私たちは、まず神の愛と恵みがすべてであること、キリストとその十字架が私たちのすべてであることを知ることにすべてが始まります。そこにこそ喜びと平安がイエス様から与えられ充ち溢れるのですか。ぜひその喜びこそを今日も確信し実感し、ぜひ私たちも「神のものは神に返す」つまり、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。