2016年8月28日


「エルサレムを見て泣くイエス」
ルカによる福音書 19章41〜48節

1.「はじめに」
 前回、イエスはどこまでもみことばの約束を見、拠り所として、その神の約束の成就としてエルサレムへ入っていくということ、そしてそれは何より私たちのためであったということを見てきました。しかしそのことは、人々が期待していたのとは逆の「十字架の死と復活」にこそイエスの神の国が成就することをも伝えていたのでした。そのような人の思いを超えた神の思いがあるということをここでも、見ることができるのです。

2.「都のために泣いて」41節
「エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて」
A, 「約束の成就としてのエルサレム」
 イエスが「泣く」ということ。それは聖書では二箇所だけ書かれている出来事です。ヨハネ11章のラザロの死のところと、そしてこの今日のところです。ヨハネ11章では、マルタとマリヤ姉妹の兄弟ラザロの死に直面し、イエスは心から悲しみ泣かれました。イエスは兄弟の死に悲しむ者のその深い悲しみ、痛む心を理解され、同情され、共に悲しんで泣かれるお方であることを現しているのですが、ではこのエルサレムへ向けての悲しみは何を伝えているでしょうか。イエスはこう言います。
「言われた。「おまえも、もし、この日のうちに平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。」42節
 この場面、イエスは預言の成就としてエルサレムに入られることが大事な前提です。その預言はゼカリヤ書9章9節でした。そこでは
「「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところにこられる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる、それも雌ろばの子ろばに。」ゼカリヤ書9章9節
 とありましたが、預言では、救いを賜る救い主が、正しい新しい王としてエルサレムにやってくることが約束されていました。しかも「ロバの子に乗って」と約束されている通りに、イエスはロバの子に乗ってやってくることによって、その預言の成就、救い主、約束の王がその通りにやってきたことをイエスは示していました。
B,  「イエスが見ているエルサレムに何が」
 けれども現実のこのエルサレムはどうでしょうか?イエスはあらかじめ弟子たちにエルサレムで起こることを示していました。18章の31節以下でしたが、救い主は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、つばきをかけられると。そのようにして救い主は、鞭で打たれてから殺されると。しかし三日目によみがえるとも。そのエルサレムです。エルサレムは聖なる都であり、神殿がある礼拝の中心でもありました。まさに救い主のご自身の宮、ご自身の都であり、約束の成就にふさわしい都です。しかし、イエスはその都では十字架と復活が待っていることを予め示しています。そこでは人々がその救い主を憎しみと殺意を持って拒み、苦しめ、十字架につけることをです。それがイエスが見ていたエルサレムの姿であったのです。
C, 「十字架にかけられる必要のないイエス」
 しかしそれはイエスが最悪の犯罪者の刑罰である十字架に値するということを決して意味していないでしょう。イエスがもたらそうとしていた神の国や救いは、決してそのように十字架という刑に処させられるような革命や暴力による神の国ではなかったのです。もちろん人々は革命によってローマから解放とダビデの王国の再興をメシアに期待してはいました。けれどもイエスのもたらそうとする神の国は、革命による政治的な解放や独立、地上の繁栄ではなくて、むしろ、それは罪深い取税人の罪を悔いる祈りや、ただ憐れみを求める物乞いの盲人、あるいは幼い子供達に現されて、そして罪人の頭である取税人ザアカイと一緒に食事をするところに現され、そのザアカイの悔い改めにご自身が来られたことの意味と神の国の喜びを表していたでしょう。

3.「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたなら」
 イエスは確かに約束の救い主、王としてこられたのです。そして、前回のところで言いました。それは罪人への罪の赦しと信仰による日々新しいいのちという、人類にとって本当に必要であるものを与えるために王としてこられたでしょう。天からのまことの平安と自由と喜びを与えるためです。しかしここでイエス様が言っている通りです。
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたなら」
 と。弟子達でさえもわかりませんでした。周りの歓迎する人々の期待も別のところにありました。そして、その聖なる都が、あるいは聖なる神の宮である神殿が、もしこの王の到来の時に、その王がもたらすその本当の神の国と平和を知っていたなら、という言い方は、つまり、エルサレム、その都の人々、何よりその神殿で神に仕える人々も、そのことを知らないことをイエスはご存知で伝えているのです。
A, 「真の福音の平和を知らないエルサレム@?強盗の家」45節
 事実そうです。45節以下のことはそのことを証明しています。まず
「宮に入られたイエスは商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなた方は強盗の家にした。」 
 宮というのは神殿のことです。それはイエスが言っているように祈りの家であり、礼拝の場所です。それはイザヤの預言にも「祈りの家」とも書かれてあります。しかし、その宮の中には商売人たちがいて商売をしていたのです。それは神殿で生贄を捧げるための動物を売っていたと言われていますが、その神の祈りの家の中で、商売して儲けることが普通となっていたのでした。それは当然、神殿礼拝を司り管理する人々、祭司長たちの承認によっておこなわれていることでもありますし、商売人たちからは場所代などの利益を得ていたわけでもありました。まさに商売の家です。その動物も安くはなかったと言われてたり、法外な値段の場合もあったとも言われていたりもします。それでも人々は、その神殿で礼拝するために、動物をどうしても飼わなければならないようなことでもあったようですし、貧しい人にとってはなかなか買えない場合もあったとも言われています。自ずと貧しい人が祈りの場から遠ざけられることにもなりました。さらには、その商売人が店を開いていた場所は、「異邦人の庭」と呼ばれるところであって、それによって異邦人たちの礼拝、祈りの場所が奪われているという問題もあったとも言われています。それはまさに神の御心、すべての人々のための祈りの家という神殿への御心が損なわれていたのでした。イエスは「強盗の巣とした」とも実に厳しい言い方をするのです。まさにエルサレム神殿には、神の平和ではなく、地上の権力者や宗教指導者たちの常識や秩序が支配してしまっていたのでした。さらに47節はあからさまです。
B, 「真の福音の平和を知らないエルサレムA?祭司長たちの殺意」47節
「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが」
 とあります。ここでも宮とあります。イエスはエルサレムでも宮で教えていました。イエスの神の国の福音はこのエルサレムでも語られていました。それはまさにイエスが与えようとしている本当の平和の良い知らせであったでしょう。しかしこの祭司長達。彼らは、神殿での礼拝を行う人々です。そして律法学者達。彼らは旧約聖書の律法を研究し、神のみ言葉を解き明かし説教する人々です。しかしこの王の到来の日に、王のもたらす平和のことを知っているはずの、神の愛と恵みを伝えるはずの、みことばと礼拝に仕える人々が憎しみと殺意に満ちています。イエスを殺そうと狙っていたというのでした。
C, 「イエスの嘆きの言葉の意味」
 みなさん、42節のイエス様の言葉の意味がわかるのではないでしょうか。イエスはただ十字架と復活だけが見えていたのではない、エルサレムの現実、神殿の現実と問題、この祭司長たちの殺意までも全て見えていたのでした。そして43節以下にこう続きます。
「やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえたちとその中の子供たちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石も他の石の上に積まれたままで残されない日が、やってくる。それはおまえが神の訪れの時を知らなかったからだ。」
 それはエルサレムの城壁と神殿の崩壊を伝えていますが、それは実際に歴史上の紀元70年に起こった、ローマによるエルサレム神殿の破壊のことであり、イエスはそれを指して預言していると言われています。この出来事は実に皮肉なことではありますが、人々は救い主の到来に期待していました。それはローマからの政治的、経済的、宗教的独立と、ソロモン時代のような黄金の神殿の復興です。しかしイエスの与える本当の神の国には目を閉ざされ、そして夢見ていた地上の繁栄や人間的な期待、黄金の大神殿への期待は、脆くも崩れ去るものであることをイエス様は預言したのでした。そうです。石で積まれたものは、それが黄金で積まれどんなに豪華絢爛であっても崩れ去ります。事実、ソロモンの黄金の神殿は一度崩れ去ったのでした。それもやはり繁栄の中で人間の慢心や誇りや驕りが生まれ、神と神の言葉に背を向けて偶像礼拝に走って行った結果でもあったわけです。
 神殿は悔い改めと祈りの家として建てられました。ダビデはそのように罪深い自分を自覚し、それに対する深い神の恵みを覚え、そして日々の悔い改めと祈りの家として、神殿を建てたとも言えるでしょう。神ご自身は、神は人の建てた家には住まない、これまでそれを願っただろうかと、ダビデに神殿の建設を認めてきませんでしたが、しかし神の前に砕かれた心のダビデの願いに応えようと、ダビデとソロモンを通して神殿を建てることを認めました。しかしそれは民のための神殿でもあったでしょう。ですから、イエスが取税人たちと食事をすることを喜びとし、ザアカイのような罪人の救いのためにこそきたという御心にこそ、まさに真の神殿の意味にふさわしい王の到来があるでしょう。まさに
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたなら」
 の嘆きの意味がわかるのではないでしょうか。礼拝と祈りの家は、内側の崩壊ゆえに崩れ去るのです。イエスが「それはおまえが神の訪れの時を知らなかったからだ。」とある通り、神殿が、神の前に心を砕かれたものがひざまずき、悔い改め、罪の赦しを受け、新しく清められ出て行く場所ではもはや無くなった。その神殿の内なる崩壊こそを、イエスは何より嘆き、悲しみ、泣いているのです。
D, 「神の礼拝に招かれている幸い」
 みなさん、このことから教えられます。確かに祭司長たちの作ったシステムで、神殿礼拝の形は整ったことでしょう。動物の捧げ物は絶えることがありません。買わなければ礼拝できないのですから、礼拝に参加するものが動物を持っていないことありません。礼拝としての秩序は保たれたことでしょう。そして経済的にも、商売人から場所代やマージンを貰うことによって経済的に困難になることはありませんでした。しかしそのように「彼らが」礼拝を作って成り立たせているという意識によって、神が不在になるだけでなく、自分たちが神の前に罪深く小さなものであるという自覚が失われました。それによって高ぶりが生まれたでしょう。貧しい人や異邦人や小さなものへの配慮も無くなりました。そして、そのようなシステムに怒り壊そうとするイエスに殺意を深めていくのです。
 神殿も礼拝も、まさに神が赦しと愛を現し与える神の恵みの家であり、神の前に心砕かれたものの悔い改めの家であり、祈りの家であるからこそ真の神殿であり礼拝なのです。礼拝の本来の意味が、「Gottesdienst」、 「神の礼拝」、「神が仕える礼拝」であったように、「私たちが」成り立たせ、作るのではない、神の家、神の礼拝に、私たちは招かれている。神が罪の赦しを与え、新しく生かし遣わすために神の家と礼拝はある。そこで祈り、悔い改め、神から罪の赦しの確信を与えられるからこそ教会と礼拝はある。それこそ、すべての人が、どんな人でも、招かれ、祈り、悔い改め、新しくされる神の家です。私たちの神の家、そして礼拝の本当の意味が、ここから示されるのではないでしょうか。

4.「嘆く現実があってこそ、なおも宮で神の国の福音を語るイエス」
 最後に、そのようにイエスは嘆いても、そしてその神殿や祭司長たちの事実を知っていても、しかしイエスはそれでも変わることなく、イエスの与える本当の平和、まことの神の国の福音を会堂で説教し続けていることは感謝な恵みです。イエスは語る続けます。伝え続けます。状況は最悪です。神殿も堕落しています。殺意を持った宗教的な指導者達がいます。しかしそれでも人々に罪の赦しの福音を語り続けるのです。それはそのように熱心に聞く人々がいること、その罪の赦しの福音を必要としている人々がいるからこそでもあるでしょうし、それがたとえ「少なくても」イエスは語って行ったことでしょう。事実、熱心に聞いている人々も、十字架に直面します。その時は理解できず、つまづき、悲しみ、葛藤するでしょう。信仰の戦いがあるでしょう。しかし、イエスの福音は力であり、やがてイエスが語った福音が、復活によって喜びを与え、信仰を強め、そして聖霊によって彼らの目は開かれていくことになります。イエスはそのためにこそ、この困難な嘆きと悲しみの現実のエルサレムにあっても、福音を語り続けるのです。時がよくても悪くても、福音を語り続けなさいと記した、パウロにも重なります。
 私たちも日々罪深さを覚えるものだからこそ、イエスによってこの神の宮である祈りの家、神の教会、神の礼拝にいつでも招かれていて、イエスがそのみことば、聖餐を与えてくださいます。罪の赦しと新しい命を与えてくださいます。平安と喜びと確信のうちに遣わしてくださいます。その恵みは今日も同じです。ですから私たちは何も高ぶる必要もない、偽り隠す必要もない、装おう必要もありません。そのままの罪深い私たちのためにイエスは十字架にかかってくださったのであり、そこに真の神殿と礼拝が立ってるのですから、私たちはそのままの砕かれた悔いた心で神の前に来て、罪の赦しの十字架の言葉を受けようではありませんか。そしてぜひ、罪の赦しの確信を与えられ、平安と喜びを与えられ、今週もここから遣わされ、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。