2016年8月14日


「与えられている最高の賜物」
ルカによる福音書 19章11〜27節
1.「はじめに」
 イエスとの出会いと交わりを通して、ザアカイが悔い改めに導かれた出来事。その出来事は、「イエスがどこに、そして誰のために、何のために来られたのか」がよく表れている素晴らしいメッセージでした。イエスご自身「人の子は失われた人を捜して救い出すために来たのです」と言いました。もちろんそれはザアカイにとって最高の喜びとなりました。
 けれども周りの人々はイエスに躓きました。なぜなら世の中では嫌われて当然、救われるはずがないような罪人と食事をするイエスが、彼らのイメージし期待していた救い主と違ったからでした。「なぜ救い主であるはずの方が、あんな罪人と食事をするのか。」ー彼らは呟きました。そのようにその圧倒的な人々の「救い主への期待」は、「すぐに」、「目に見える形で」、しかも「彼ら」の期待や思い描く救い主イメージに当てはまるものでなければならなかったのでした。事実、彼らは、イエスに、ローマの支配からの政治的経済的な解放と、かつてのダビデ、ソロモンの黄金の繁栄の王国の復興こそを期待し、そのような意味での「神の国の到来」であり、それこそ「救い主が成し遂げること」だと期待していたのでした。そのような背景と文脈もこのところを理解するためには鍵となってくるでしょう。ザアカイの出来事を受けてイエスはこう続けるのです。それは明らかに、周りの人々のつぶやきを受けてのことでもあるでしょう。

2.「イエスの示す神の国のたとえ」
「人々がこれらのことに耳を傾けている時、イエスは続けて一つの例えを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていたらかである。」11節
A, 「文脈」
 まずイエスは周りの人々の考えや期待を見抜いています。人々は、今か今かとイエスを見ています。イエスがエルサレムに上るのは、今こそ革命を起こしてローマからの独立そして、すぐに目に見える形で黄金のエルサレムが復興されるのだと、彼らの期待は高まっていたのでした。それに対して、このたとえ話が語られているのです。このたとえ話は、難解なたとえ話です。文脈や背景を理解せずに、このところだけ取り上げて簡単に理解することによって、単に道徳的な教訓に成ってしまったり、あるいは律法的な教えになってしまうことも多いです。しかし、ここにある文脈の4つの背景の特徴。@このエルサレムへと向かっているイエス(18:31)。Aそこでイエス様が何より十字架と復活を示唆していること(同)。Bそれを弟子たちがまったくわからなかったこと(18:34)。そして、C前回のザアカイの出来事から続く話であり、世の呟きや蔑みとは逆のところに神の国は現されるているという背景と流れに即して理解していくときに、この例えが伝えていることが見えてくるでしょう。
B, 「王として戻ってくる」
 まずこの例えは、ある一つの歴史の事実を連想させます。それはこの時代、ユダヤの王ヘロデの息子アンティパスが、王として認めてもらうためにローマの皇帝のところに行った時のことです。その時、ユダヤの代表団はアンティパスの王の即位に反対してローマに行ったと記録されています。その時、皇帝はアンティパスを領主として任命するのですが、王として名乗ることを許さず、彼には小さな領土しか与えなかった、という歴史の出来事に重なる部分があるのです。しかし王と名乗れなかったのですから、例えと重ならない部分もあります。ですからこの例えは、何より王としてこられたイエスを示しています。しかしそのイエスは、ご自身が伝えたように、イエスの死と、復活によって神の王国を完成させようとしているでしょう。18章では、ご自身がエルサレムに向かっており、そのエルサレムで十字架にかかって死に、よみがえられなければならないと伝えていることからも明らかです。そしてその十字架と復活によって王として戻ってきます。あるいは「戻ってくる」という言葉は、二重のことが言えます。それは、イエスは、復活ののち天に昇るときに、ご自身が神の右の座につき、やがて再び来られることも約束されていますが、イエスはそのことをも同時に言っているでしょう。しかしいずれの時も、その王国はすべての人のためであるのに、やはり世の人々は、それを理解できず、躓き、受け入れないのです。それは14節に重なる意味になるのです。そしてこの例えの中心となる大事なメッセージは「留守を預かる10人の僕」のことに他なりません。
C, 「神の国の逆説」
「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。「私が帰るまで、これで商売をしなさい。」」13節
 一ミナは当時の労働者の100日分の賃金にあたる大金です。それを10人のしもべ一人ずつに平等に与えたことがわかります。このようにその身分の高い人は自分のものをしもべに与えて、それを「商売に」とありますが、用いさせるのです。それはどのように用いるかを試すテストとして行われていて、それによってその新しい王の王国においてどれだけの町を任せられるのかを決めるために行われていることもここからわかるのです。そしてその一ミナを忠実に用いるしもべと、反対に主人を疑い、否定し、決めつけ、一ミナを忠実に用いなかったしもべの話をされているのですが。このことを、イエスはご自分の神の国と重ねているのです。しかし極めて大事な点ですが、それはイエスがここで語るその王国、神の国は、この3節からわかるように、周りの人々がすぐ来ると思っている神の国、彼らが期待している神の国とは違うものを見て語っているという点です。もう一度思い出してください。18章でイエスは、イエスの向かうエルサレム、イエスが実現する神の国は、十字架と復活にあることをはっきりと語っていました。そしてその証として、イエスの神の国は、周りの人々が嫌い、神の国に値しないという罪人であるザアカイにこそ現されました。まさに人々が蔑みつぶやく、イエスのその罪人との食卓、交わりにこそ神の国があることをイエスはどこまでも示していました。それは放蕩息子の話や、そして罪を悔い、ただ憐れみをこう取税人の祈りこそ義と認められたというところとも一貫していることです。
D, 「与えられている一ミナ」
 イエスが語っているのは、「その王国、神の国」なんだということです。人々が期待していた華やかな繁栄の王国のことではないということです。この区別の理解は大事です。では、その神の国における、王からの贈り物、賜物は何でしょうか。神から与えられる神の国のためにあずかるための最高の賜物、それは罪の赦しであり、イエスの義であり、そして、信仰であり永遠のいのちではありませんか。さらにはその信仰を働かせるためのみことばと聖霊も天からの神の贈り物です。ここで与えられている一ミナは、神の賜物を意味しています。つまり神の恵みです。どこまでも「「神のもの」を受ける」、つまり福音であるということです。16節では「あなたの一ミナ」ともあります。ルターはこの「あなたの」に注視しています。ですから、それは「私のもの」とか、「私たちにもともとある」才能とか、あるいは、私たちが自ら設定する目標や使命とかでもないわけです。それは私たちにはもともとないけれども、しかし今「与えられ」ていて、私たちが神の国で新しく生きるために何より大事であり欠いては生きていけないものです。それは罪の赦しであり、義認、信仰とそこにある新しいいのち、さらにはみことばと聖霊であるでしょう。それこそまさに天からの宝、財産、神のものが私たちに与えられている、素晴らしい出来事、事実、私たちの「一ミナ」の体験に他ならないでしょう。
E, 「イエスが帰ってくるまで助けになる本当の賜物とは」
 ですから、この場面、やがてイエスも弟子たちも、エルサレム十字架を経験します。それは残された弟子たちにはまさしく試練になります。彼らはその十字架を遠くに見て、自分が否定し逃げたその自分自身の裏切りの罪にも苦しむことになります。イエスが予めされた復活の約束さえも忘れてどん底を経験するでしょう。その時に、その彼らの決意とか使命とかが一体、何か役に立ったでしょうか。「他のものが裏切っても自分は裏切らない」という彼らの決意や目標は脆くも崩れ去って、その試練で何の役にも立たず、むしろそれは虚しい彼らの意気込みや決心でしかなかったわけです。それは自分の弱さと無力さの証でしかありませんでした。けれどもイエスは十字架の前にペテロに言いました。「あなたの信仰がなくならないために祈りました」(ルカ22:32)と。これもまた「神から与えられる一ミナ」が何であるのかの答えです。信仰こそ「一ミナ」なのです。そして復活でも、まさに彼ら自身では信じられなかったのを、イエスの方から現れて信仰を新たにしたでしょう。神が与えた「一ミナ」です。そのように信仰こそ、神が与えてくださる最高の賜物であり、力であり、困難な時、試練の時の光であり助けなのです。まさし神の国の実現を前にして何が必要でしょう。それはそのイエスが与えた一ミナ、罪の赦し、義認、信仰、新しいのち、そしてみことばと聖霊なのです。私たちは世にあってどんな試練にあっても、いやむしろ世にあっては終わりまで艱難ばかりです。しかしその苦難の現実にあって、いやその現実に生きるためにこそ与えられた「一ミナ」、信仰、救いと新しいいのち、みことば、聖霊に忠実になり、それこそを用い、働かせる、それはまさに私たちの「見えること」ではなく、「見えない神」の確かなみわざを確信し待ち望むことこそ(へブル11:1)、それが神への正しい期待であり、神の国への最大の備えであり、神が望んでいることだということを、イエスは伝えているのです。
F, 「イエスが与える真の益」
 ここで聞く側にとって非常に間違えやすいのは「商売の利益」を例えとしていることです。そのような金銭的な儲けや利益は、経済的「繁栄」を連想しますから、むしろ周りの人々のすぐにでも王国は実現するかのように繁栄を待ち望んでいる人々の思いに合致しているかのように見やすいのですが、しかしこの「利益」というのは、イエスにとって、真の利益は、十字架と復活にこそあるということを伝えていると言えるでしょう。
 その十字架と復活の利益は、世の繁栄とは逆です。それは苦しみと悲しみに痛みにこそあります。イエスは「世にあっては患難があります」(ヨハネ16:33)ともはっきりと言いました。確かにイエスが実現し与える神の国は十字架と復活にこそあるのです。そしてその事実は、この世、私たち人間のまさに罪深い現実こそを大前提にしているからこそ浮き上がってくるし、わかってくるものではありませんか。ですからこの所にあるのは、イエスはその世の罪の苦難と悲しみの現実を認めながら、そこにこそご自身は来られ、その罪の世にご自身がいるからこそそこに神の国の輝きがあり、それこそ世の光、闇の中に輝いている真の光であるのだと、私たちに提示しているのです。
G, 「私たちのための神からの一ミナ」
 そしてその逃れられない世の現実の中にありながらも、そこにイエスの十字架が立ち、そこに神の国が私たちに示されているからこそ、やはり「私達の一ミナは何であるのか」がわかってくるでしょう。そこで力となるのは、何より信仰ではありませんか。みことばと聖霊こそ確かなものではありませんか。そしてその罪の赦しがいかに私たちに慰めと平安を与えるでしょう。その中でも神が私たちをいつでもキリストのゆえに正しいとしてくださって、日々新しいといってくださるということは何と素晴らしいことでしょうか。
 その信仰が与えられ、その信仰が、どんなに困難があっても、失敗があっても、挫折しても、苦しみや悲しみがあっても、いつでも希望を絶やすことがない平安と喜びのイエスの十字架と復活に立ち返らせてくださる。まさしくそれこそ確かで絶えることのない神の国です。それは世の富も、財も与えることができないものです。私たちの行いや決心で確信することもできないことです。律法を行うことによっても成し得ないことです。それはまさしく賜物である信仰が与える希望であり、自由でしょう。そしてその信仰が支えられ強められるために、みことばと聖霊も与えられているとあるのです。皆さん、私たちに与えられている一ミナはまさにそれではありませんか。素晴らしい一ミナではありませんか。

3.「神が与えた一ミナに忠実に」
 その「一ミナ」、つまり天からのその多くの恵み、賜物、恵みの上にさらに恵みに、私たちが忠実に生きるときにこそ、つまり、信仰に生き、みことばに生き、罪の赦しに生き、御霊に生きるときにこそ、私たちには、神が導く本当の神の国の多くの見えない霊的な益があり、何より神はそれこそを認めてくださることによって、神の国の多くをさらに与えてくださるのだということを、この例えは私たちに伝えてくれています。パウロは、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と言いました。ガラテヤ2:20でもこうも言っています。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」ガラテヤ2:20〜21
 パウロはこのように自分に与えられている一ミナが何かをよく知っています。キリストにあって生きること、恵みにであり賜物である信仰と御霊によって生きること、それが福音に生き生かされているクリスチャンの新しい命であり素晴らしさなんだと。ぜひ私たちもこれを受けているのですから、同じ一ミナを受けているのですから、この恵みを喜び、罪赦され義とされ、御霊によって新しいとされていることを確信し、平安と喜びをもってここから遣わされていきましょう。そして、その恵みにこそ忠実に、つまり信仰に生き、信仰にあって神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。