2016年8月7日


「失われた人のために来られた」
ルカによる福音書 19章1〜10節

1.「はじめに」
 18章の終わりでイエスは、エルサレムへと向かっていることを弟子たちに明らかにし、そのエルサレムでご自身が十字架に架けられ死に、よみがえることを伝えました。しかし弟子たちは目が閉ざされていて全く理解できませんでした。そのようにしてイエスはエルサレムへと向かっていくのですが、その途中、エリコの街に入るのです。

2.「ザアカイ」
「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここにはザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」1?2節
 ザアカイという一人の取税人の話です。「取税人」はユダヤを支配するローマのために税金を集めるユダヤ人です。彼らは税金の集め方で不正があって、それゆえお金持ちになっていくことを人々は皆知っていました。ですから取税人は「罪人」と呼ばれ嫌われていました。ザアカイ自身も8節で、「だまし取った」と言っていることからもその不正さがわかるのです。ザアカイはその「取税人のかしら」でした。
 そのエリコにイエスがやってきます。イエス様の周りはもちろん通りにも、大勢の群衆が集まってきていました。ザアカイはその群衆がイエスがやってきて集まってきたのだと知りました。当時はイエスは有名人ですから、名前と噂だけはザアカイも聞いていたことでしょう。ザアカイは、そのイエスがどんな方なのか見たかったのです(3節)。けれども、ザアカイは非常に背が低かったともあります。イエスの周りには大勢の人々がいて、ザアカイはイエスを見ることができなかったのでした。それでも、ザアカイは、イエスを見たかったのです。イエスが進んでいく方向を先回りして、イチジク桑の木に登ったのです(4節)。そこにちょうどイエスが通られようとしていたのでした。

3.「『イエスから』の恵み」5節
「イエスは、ちょうどそこにこられて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
A, 「ザアカイを知っていた」
 ここに一つ目の恵みと幸いを見ることができます。それはイエスの方から、ザアカイを見つけて声をかけてくださっているという事実です。ザアカイはイエスにあったことがないことがわかります。イエスも会ったことはなかったでしょう。しかし不思議ではありませんか。イエスはザアカイのことを知っていました。そしてそれは彼がどのような人物であるのかも知っていたことでしょう。つまり取税人であることも、彼が罪人と呼ばれ嫌われていることも、不正や罪、まさにだまし取っていたことも、知っていたことでしょう。そして何より、彼が「失われた人」であるということもです。イエスはザアカイを知っていたのでした。
B, 「それでもイエスから」
 しかし、知っていたとしても、見つけて声をかけるということにすぐに直結しません。まして世の人は、蔑み、嫌い、罪人と呼ぶ取税人のそのかしらです。多くの人は、声もかけません。避けます。交わりもしません。なぜなら、交わることでその人も罪人の仲間、あるいは罪人とみられる社会だったからです。普通のユダヤ人であるなら、声をかけないのです。けれどもイエスはどうでしょうか。同じでしょうか。いや全く逆でした。イエスは、そのザアカイを知っていて、そしてどのような人であるかも、その罪をすべて知った上で、その彼のために立ち止まりました。彼に目を挙げました。そこで通りすぎません。どうしたでしょう。声をかけました。それは彼を蔑む声であったでしょうか。怒りと裁きの声であったでしょうか。違います。なんと、そのザアカイに言うのです。
『ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』
 なんということでしょう。イエスはザアカイに「あなたの家に泊まる」というのです。それは何を意味しているでしょうか。それはこのザアカイを受け入れ、友になること、そして共に交わることを意味しています。みなさんここにイエスがどんな方か見えてくるのではないでしょうか。しかもここでは新改訳では「泊まることにしてあるから」とあります。それはもう予め計画していた、決まっていたようにイエスは話しているでしょう。英語訳では、「must」が使われていますが、それは「泊まらなければいけない」という強い義務を表す言葉です。つまりザアカイとの出会いも、家での滞在も、それは父なる神によって定められ命ぜられていた、つまり神の強い思いがあることがわかってくるのです。
 みなさん、この出会いは決して偶然ではないのです。何と、ザアカイがイエスに出会うより先に、イエスはザアカイを知っていた。ザアカイを探していた。ザアカイを見つけていた。そして見つけてくださり、声をかけてくださった。イエスの方から友となり、交わりをする、泊まると言ってくださった。皆さん、これほど素晴らしい恵みがあるでしょうか。このように聖書が私たちに伝え約束する救い主は、裁く神ではなく、これほどまでに人類へ、私たちへの愛と恵みの方なのだということなのです。
 このことは、この少し前にイエスが話された放蕩息子の話のお父さんと重なります。ルカの15章でしたが、あの場面もイエスは取税人たちと食事をしている場面でした。そして同じようにそれを見て蔑む人々に対して語りました。そこで放蕩息子のお父さんは、息子が帰るより先に、いつも地平線の彼方に息子が現れることを探していたでしょう。待っていたでしょう。そして父の方から子を見つけて、走り寄って抱き、口づけしています。まったく重なるでしょう。
 皆さん、これが神なる方、救い主イエスによって明らかにされている、神の私たちへの想いであり、愛であり、恵みと憐れみなのです。
C, 「神の前に罪人である私たちのために」
 「自分はザアカイのような悪い人ではない。」「自分はそんなに悪くはない」ー多くの人はそう言うかもしれません。しかし皆、神の前にあっては、神に背を向け、神を否定し、神の御心を行えず、むしろ自分が神であるかのように自分を中心にして生きるものです。私自身そのような一人であることを認めさせられます。神は「神を愛し、隣人を愛しなさい」と教えていても、私は本当に神も隣人も愛することに愛の足りないものです。それが私の罪深い現実です。神に神の多くのものを恵みとして与えられていながらも、しかし、神の前にあっては神に反逆する罪深い一人の性質がなおもあるのです。そのようにすべては神のものによって生かされている人間であるのに、それをあたかも自分のものであるかのように欺いて生きるというのは、まさしく富をだまし取る取税人と重なります。このようにザアカイはもちろん一人の罪人であるのですが、しかし同時に彼はすべての人、罪深い一人一人、人類の象徴でもあるのです。
 けれども神の愛は、このザアカイにこそあえて計画されて、定められたように現されているではありませんか。「ザアカイの家に泊まらなければいけない」という強い思いです。そうなのです。神はこのイエスを、このザアカイ、罪深いザアカイのためにこそ与えてくださったのです。つまり救い主イエスは、罪深い私たちだからこそ、それがどんなに罪深く、どんなに欠点が多い存在であっても、決して私たちを裁くためではない。むしろこのように私たちに愛を表し、恵みをあふれるばかりに与えて、友となり、語り、交わるために来られ、私たちと共にある、私たちの救い主なのです。

4.「世の期待への逆説」
 それに対してザアカイは、驚いたことでしょう。けれども純粋に喜んでます。
「ザアカイは、急いで降りてきて、そして大喜びイエスを迎えた。」6節
A, 「世の人々のつぶやきと躓き」
 そのようにしてザアカイは、イエスを招き入れて、もてなすのです。喜びにあふれてです。けれども周りの人々はそれを見て呟きます。
「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言って呟いた。」7節
 群衆とあったように、この時も、ザアカイの家を囲むように、大勢の人々がイエスの周りにはいたでしょう。しかし彼らは罪深いザアカイのところにイエスが来られたことを喜び、共にザアカイの家に入り、イエスと共に喜びの宴の食事をするのではなく、そのザアカイと交わりを見て躓くのです。彼らはイエスがエリコの街に入る前から、イエスのところに集まってきて、周りを取り囲むほどに熱狂していました。しかし、このように彼らは神の思いも愛もまったく理解していなかったことが示されています。まさに「主よ。主よ。」という人が、皆、受け入れ理解しているとは限らないわけです。このようにイエスの御心やみわざや計画は、非常に世の基準や好み、価値観とは逆説的だとわかるのではないでしょうか。何より十字架が、世の期待や価値に対する最大の神の逆説ではありませんか。なぜなら十字架は世にとっては敗北であり恥であり絶望だったのですから。しかしその敗北の十字架にこそ神の愛と救いが現されたわけです。このように聖書の真理や救いは非常に逆説的です。このところもそうです。世の価値観や基準では、ザアカイは、罪人、悪人であり、蔑まれて当然。嫌われて当然。罪人と呼ばれて当然。まったく救いや神の国に値しないもの、イエスと食事をするに相応しくないものです。しかしそのような世の基準や価値観、世の好みや期待でイエスや神の国を見るなら、まさに、イエスがザアカイと食事をするのは、躓きになるのです。蔑みの呟きにしかなりません。神の愛とあわれみ、イエスが教えてきたこと、福音とは何かが、そして、自分たちも神の前には同じ罪人であるということもわかならない、理解できないのです。この彼らのつぶやきにはそのことが、何より示されています。
B, 「悔い改めとザアカイに現された神による変化」
 しかしザアカイには周りには理解できない素晴らしい変化が起こっています。
「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また誰からでも、私がだまし取った物は、四倍にして変えまします。」8節
 みなさん、ザアカイの悔い改めです。彼は食事の席で、イエスの語られる言葉で、目が開かれたのです。つまり自分のこれまでの罪を認めさせられました。イエスが語る律法のからの言葉による説教によって心が刺し通されました。しかし同時にイエスが語る福音によって神の一方的な愛と罪の赦しをイエスの言葉から受けたました。それは本当に大きな平安と喜びになったことでしょう。そしてそのイエスの愛と罪の赦しは、彼に素晴らしい応答を生んだのです。財産の半分を貧しい人に施しました。18章を思い出してください。「自分が何をしたら」と求め、十戒、律法を全部守っていると言っていた金持ちの話がありました。彼はイエスによって一つだけ欠けたところがあると言われて、イエスから持ち物全部売って施しをするようにと言われたでしょう。しかし彼はできなかったので悲しんで帰って行きました。彼はイエスにつまずいたのです。しかしこのザアカイは、まず財産の半分を貧しい人に施しをしました。「それは半分ではないか」と言われるかもしれませんが、その後続いています。残りに半分は、これまで騙し取ったものを四倍にして返すと約束しています。倍ではありません。四倍です。つまり残りの財産の半分ではもう足りないわけです。倍でも足りないことでしょう。それを四倍です。まさにそれは持てるものを全部売り払っても足りないぐらいです。しかしザアカイは、喜びにあふれてこのことをしています。そしてこのことは、ザアカイがこの後イエスについていくことを決めていたから、とも言えますし、事実そうであって、彼は弟子の一人として生涯を全うしたとも言われています。まさにザアカイは、全財産以上を施しをしたり返したりすることによって神に返したのです。みなさん、この意味がわかるでしょうか。

5.「ザアカイにイエスの言葉は成就している」
 18章のところで、その金持ちが悲しんで帰った時、イエスは「金持ちが神の国入るより、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」(18:25)と言っていました。それを聞いて、周りは「それでは誰が救われるだろうか」とつぶやきました。それに対して、イエスは言っていたでしょう。「人にはできないことが、神にはできるのです。」(18:27)と。
 そうです。ザアカイはそのことの成就です。そして、ずっと18章でもイエスが言ってきたように、自分を正しいとするものには、むしろイエスのことはわからないし、イエスが罪人と食事をすることも理解できない蔑みでしかなくイエスに躓くけれども、しかし、自分の罪深さに心刺され、認めて、悔い、神の憐れみにすがるものに神の愛とあわれみはわかる。いや、本当に神が愛してくださっていて罪の赦しが豊かに与えられていることがわかり、そして平安と喜びがその心を支配するのです。そればかりではない。このザアカイのように、その心に喜びに満ち溢れた平安による応答が与えられるのです。すべてを捨ててついていくという献身が与えられます。神の恵みによってです。まさに「人にできないことが、神にはできる。」ーそれが真実な約束であることが、そしてそれが私たちにも豊かに与えられている神の救いの力と命の豊かさであることをこのところは伝えているのではないでしょうか。イエスは最後にこう言います。

6.「イエスの十字架にあって平安と喜びのうちに遣わされる幸い」
「イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。9〜10節
 みなさん、私たちも失われた一人です。しかし神は確かに、神の前にどこまでも罪深い私たちのためにこそイエスを送ってくださったではありませんか。裁くためではなく、私たちを愛し、この十字架によって、私たちに罪の赦しと、復活によって新しいいのちの歩みを与えるためでしょう。私たちはこのイエスのゆえに、イエスの罪の赦しの十字架と宣言のゆえにこそ、安心して、平安と喜びのうちに遣わされていく幸いがあるものではありませんか。今日もこのみ言葉から、そしてみ言葉によってここに与えららているこのイエスの真のからだと血を受けて、罪を赦された喜びをいただきましょう。平安をいただきましょう。そして、喜びと平安のうちに遣わされ、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。