2016年7月24日


「預言者たちが書いているすべてのことが実現される」
ルカによる福音書 18章31〜34節

1.「はじめに:18章をふりかえり」
 この18章では、イエス様は、不正な裁判官の例えを取り上げて「祈りなさい」「求めなさい」ということから始めました。そして今度は、自分は正しいと周りの人を蔑んでいる人々に対して、パリサイ人の祈りと取税人の祈りを取り上げ、イエスは、自分の罪深さを認め、神の憐れみに、赦しにすがる取税人の祈りこそ神の前に義と認められたと、教えました。さらに次の場面では、幼子たちを祝福されるイエスでしたが、そこでもイエスは、神の前にあって、ただ母にすがるしかできない幼子のようである自分を認めるものこそ、神の国にふさわしいとも教えました。そのように見てきてイエスは、一貫して、神の国と言うのは、人が何をするか、何をしたかではなく、どこまでも神からの憐れみと恵みであり、神の前に自分を誇り高ぶるものではなく、どこまでもその神を神とし、神の恵みにすがるものにこそあるということを語り続けるのでした。そういう中で、前回の出来事がありました。「何をしたら、永遠のいのちに、神の国に入れるか」を尋ねる役人の話でした。そのような「何をしたら」との質問に、イエスは十戒を示しましたが、役人は「そんなことは皆守っている」というのでした。彼の質問の真意は、自分の自信のある行いにイエスからの保証、確証の言葉が欲しかったのですが、しかしイエスは、そんな彼に、「一つだけ欠けたところがある」と言って、「持ち物を全部売り払って、施しをしなさい。そして天に宝を積んでわたしについてきなさい」というのです。それに対して、彼は悲しみ失望するのでした。できないことだったからです。そこでイエスは「金持ちが救われるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言うのですが、それに対して周りの人々はいうのです。「それでは誰が救われようか」と。そこでイエスは最も伝えたい大事な真理を伝えました。「人にはできないことが、神にはできるのです」と。このようにイエスのメッセージは初めから一貫しています。自分の行いを誇って祈ったパリサイ人にも、大人の考えで子供たちを退けて神のみこころを妨げた弟子たちにも、あるいは「何をしたら」に自信を持っていてその確信を欲しかった役人にも、イエスは一貫して「否」を言っていました。そうではなく「神の国も、神の前の義も、救いも、永遠のいのちも、あなた方が「何をしたから」、「何をしたら」、「何をすれば」ではない。」と。それは「人にはできないこと、しかし神がするのだ」と。「どこまでも神のわざ、神の憐れみ、神が成すのだ」と。だからこそ、神の前に、すがるしかない、子供のようであるしかない、それが私たち、いやそれだけでいい。それがイエスの一貫するメッセージなのです。その流れ、文脈、イエスのメッセージの中心を知ればこそ、今日の箇所の幸も見えてくるわけです。唐突にイエスはこのことを話し始めるのではありません。これまでを踏まえ、神がなす救いの完成こそを、イエスはここで弟子たちに示すのです。

2.「実現される」
「さてイエスは、12弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、私たちはエルサレムに向かっていきます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。」31節
 イエスはエルサレムに向かっていくことを告げます。9章51節に「イエスは、エルサレムに行こうとしてみ顔をまっすぐと向け」とあって、それ以来ずっと、ルカによる福音書の背景には、イエスがエルサレムにまっすぐと目を向けて、つまり十字架を見てまっすぐと進まれるということがあるのだと繰り返し触れてきましたが、このところは、そのことを、弟子たちに公に言葉で明らかにしているのです。そしてその意味もイエスははっきりと言っています。これまでエルサレムをまっすぐと見て歩んできた、そこに何を見ていたのかもここに明らかになるのです。まずここでは「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。」とイエスは言っています。
 「人の子」というのは預言で約束されてきた救い主のことであり、イエスはご自身であることを指しているのですが、そのエルサレムでは何が起こるのか、それは「預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです」とイエスは言うのです。
 まずこの言葉には18章のイエスのメッセージの中心が貫かれています。それは「救いも神の国も、神がなすのだ、神から来るのだ」という恵みのメッセージですが、イエスはここで一貫しています。「預言者たちが書いていることが実現される」と。みなさん「預言者」とは何でしょうか。それは、神の言葉、約束を預かって、人々に神の言葉、約束を伝える人が預言者でした。ですから、その「預言者たちが書いていること」というのは、神の言葉であり神の約束であるということがわかると思います。しかも「人の子、救い主について」です。つまり神は預言の約束を通して、人の子、救い主のことについて約束してきたと、言うのですが、イエスは預言を通して、人の子、救い主のことについて約束してきたと言うのですが、イエスは、その神の約束のすべてが「実現されるるのです」と言っています。注意したいのは、ここで弟子達を集めて、「さあ一緒に実現しよう」とか「あなた方が実現するのです」とは言っていないです。イエスは「実現される」と言っているのです。
 つまり何が伝えられているでしょう。それは、エルサレムで起こる預言の成就、約束の成就は、それは弟子達が実現するものではなく、弟子達から見るなら、それは「実現される」ことです。そしてこう話しているイエスご自身は当然、直前で言った。それは「人にはできないことを、神にはできるのです」と言った通りのことを見ているでしょう。ですからイエスは、これから起こるその救いを実現をするのは、神であるのだと。イエスは示していることがわかるでしょう。そしてその出来事がどのような出来事か?次の言葉で明らかでになります。

3.「イエスがはっきりと示す事実」32〜33節
「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らに嘲られ、辱められ、つばきをかけられます。彼らは人の子を鞭で打ってから殺します。しかし、人の子は3日目によみがえります。」32?33節
 私たちは今や聖書を通してすべて起こることを知っていますから、このイエスの言葉が何を意味しているのかお分かりだと思います。それはこの後、確かに起こるイエスの十字架と復活のことです。イエスはこの時、ご自身のことを言っています。ご自身に起こることです。そしてすべてその通りに起こります。逮捕するのは、祭司長、律法学者、パリサイ人たちです。彼らは、まさに異邦人であるローマ人総督ピラトに引き渡します。そしてピラトに有罪にされたイエスは、ローマ兵に罵られ、辱められ、唾をかけられ、鞭打たれるでしょう。ついには、十字架にかけられ、イエス様は処刑され死ぬのです。そして最後も、ここにイエスが言う通り、イエスは死んで三日目に死から復活するでしょう。
 ここで注目したい大事な点は、イエスはこのこと、つまりご自身が捕らえられ苦しめられ殺される、そのことを「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現される」として、述べているということです。先ほども言いました。「人の子について預言者たちが書いているすべてのこと」という時、それはイスラエルの約束では、神の国が実現されることであり、救いの約束のことだと誰もがわかることです。イエスもまさにそれまで神の国のことを語ってきました。まさに神の国の約束、救い主の約束が実現するためにこそエルサレムに向かおうとしています。
 しかしその預言、つまり神が約束されたことの実現、神の国は、そんな悲惨な残酷で恥ずべき出来事によって実現されるのだとイエスは示されるのです。これは大事な点です。
 なんということでしょう。みなさん、ぜひこの弟子たちの立場で耳を傾けてみてください。神の預言の約束がいよいよ実現しようとしている。それは神の国がいよいよ実現する。救い主が神の国を完成させるという約束でした。皆、待っていました。期待していました。彼らの期待の通りに言うなら、いよいよ、このローマから解放され、ダビデの黄金の王国は再び復興する。救いはやってくる。そう待っていました。それは希望と華やかさで満ちていました。イスラエルのローマへの勝利を期待していたでしょう。事実、このあとエルサレムに入城するときには、群衆は、道道に棕櫚の葉を振り、敷いて、王の入城を賛美するでしょう。しかし彼らの期待、繁栄と華やかさと希望に対して、イエスの伝える、その救いの約束、神の国の実現は、人の子は捕らえられ、侮辱と痛み、そして殺されるというのです。救いや神の国に華やかさや繁栄を夢見るなら、なんというギャップでしょう。全く逆です。ですから、弟子たちはどうでしょう。

4.「神の国はどこに?」
「しかし弟子たちは、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、この言葉は隠されていて、話されたことが理解できなかった。」34節
 そうあるのです。弟子たちには言葉を理解することさえできないのです。「何一つわからない」とあるように、すべては隠されていて、全く理解できないほどであることが表れているでしょう。しかし、これこそ「人の子について預言者たちが書いているすべてのこと」であり、イエスがエルサレムに向かう意味と目的のすべてであることをイエスははっきりと伝えるのです。このことから私たちは何を学ぶことができるでしょう。イエスはこの言葉から、私たちに何を伝えているでしょうか。
 第一に、イエスははっきりと約束と預言の成就、救いとは何か、神の国とは何かを示しています。それは十字架と苦しみ、そして復活にこそ実現すると。そこにあるのだと。私たちに示しているということです。そこに神の国と救いが確かにあるということです。十字架は刑罰の道具です。重罪人がかけられたローマ最悪、もっとも残忍な処刑方法です。これは世にとっては最大の蔑みであり、敗北であり、目を背けるものです。華やかさも繁栄も成功もそこにはありません。しかし神はこの十字架こそを、人の子について預言者を通して約束してきたとイエスははっきりと言っているでしょう。神はこのことこそを約束として実現すると示しているでしょう。ここではっきりと。「私たちに」です。そうなのです。この敗北と苦難、この闇と暗い、市の十字架にこそ、神のみこころは表され、私たちのための神の約束はここにこそ成就し、神の国は実現するのが、聖書の伝える私たちへの福音なのだということ。ここはイエスが私たちに伝える福音の核心なのです。
 しかしどうでしょうか。初代教会の時代から、既にありましたが最大の誘惑であり戦いでしたが、人々も、教会も、この十字架こそ、脇に置こうとしてきました。世の繁栄と華やかさに救いや光を見る人々にとっては、この十字架はむしろ躓きになりました。こんな人々が望まない残酷と敗北の印に救いなどとないと。こんな世にとって敗北の印に誰も神の国など見ないと。何より十字架は私たちの罪に触れる。だから避けたい、聞きたくない。そのように十字架は一番傍に置かれてきました。そのように、人々はそうだからと、現代でも十字架を抜きにした福音をなんとか伝えようと、華やかな成功の神によって福音を表そうとする教会は少なくありません。なんとか十字架を避けたい、傍に置きたい、その方が人はもっと来る、人の耳に優しい、人の期待に沿える。そのようにして十字架はいつでも繁栄や成功、人間の欲求の躓きとされてきています。
 しかし、今も変わらないイエスの言葉が響いてくるなら幸いです。
「人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。」それは
「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らに嘲られ、辱められ、つばきをかけられます。彼らは人の子を鞭で打ってから殺します。しかし、人の子は3日目によみがえります。」
 そのことであると。十字架と復活であると。そこに神の救いは実現する。神の国、約束は成就すると。そしてそれは私たちのために。私たちの罪のため、罪の赦しのため、私たちを義と認めるために、イエスが代わりに負われたのだと、聖書は伝えているでしょう。その十字架をイエスははっきりと示しているのです。

5.「十字架と復活にこそ」
 何度も示してきたように、事実、私たちは皆、神の前にあります。その「神の前」にあって、私たちの現実はどこまでもアダムとエバの子孫です。皆、神に背を向けて神を拒んできて、自ら神のようになろうとするものです。そして聖書はいっています。その罪の結果こそ、人間の最大の不幸であり絶望です。救いのない状態です。滅びです。死です。しかしその最悪の罪の道から救うことこそ、何より神は目的とされ、約束されてきたことが聖書の伝えることです。罪深い世の中にあって繁栄することや成功することではない、罪の赦しを与え、神の前に正しいものとし、罪から、サタンから贖い出された新しい命を与えることこそ、罪の世にあって、本当の平安であり平和であり、人の喜びになるのだと、神は私たちに最高のものを与えようとこの十字架と復活を備えてくださったと言えるでしょう。その思いがこの今日のイエスの言葉には表れています。そして事実、この十字架と復活があるからこそ、私たちはこの罪の世にあっては、どんなに困難や矛盾や不条理があっても、悪が栄えるような現実にあっても、この十字架の罪の赦しのゆえに、神の前に罪赦された安心と平安を抱くことができるでしょう?そうではありませんか。さらには、イエスがよみがえられたように、神は私たちもイエスにあって日々新しいとしてくださっているからこそ、世が与えることができない本当の平安と希望をいつでもいただくことができるではありませんか。どんな困難にあっても希望を失うことはありません。このイエスの十字架と復活のゆえにです。それは世の繁栄と成功が与えることのできない最高の慰めと希望です。イエスはその十字架と復活こそを今日も指し示しています。その十字架にこそ進んでいる。そのためにエルサレムへと向かうのだと。

6.「人にはできないが、神にはできる」
 そして弟子たちが一切わからないことも、一つの一貫した真理を私たちに示しています。どこまでも人の業ではない。弟子たちは何もできなかった、わからなかった。彼らは神の国のために、救いのために、十字架のためにまったく無力でした。弟子たちが十字架にかかったのではありません。弟子たちが何かをしたから、神の国が救いが実現したのではありません。それと同じです。「私たちが何をしたら」に、神の国も救いも成就したのではないでしょう。むしろ「私たちが何をしたら」を求めた人たちは、イエスに躓きました。弟子たちがこの時わからなかった。目が閉ざされ隠されていたのは、大事なメッセージです。決して弟子達、私たちが「何をしたから」ではない。そこに救いはない。まさに人にはできないことを神にはできる。神がなさる。イエスがなさる。事実、イエスが捕らえれれ、嘲られ、罵られ、辱められ、唾をかけられ、鞭打たれ、十字架にかけられ、殺されます。そしてよみがえられるのです。どこまでも「イエス・キリストが」がここにあるのです。このように私たちの救いは、どこまでも神の恵み、信仰も救いの知識も、罪の赦しと平安も、希望も、新しい命の歩みもどこまでも神がなさった、神が与える、神の恵み、神から私たちへ、与えられるものだということです。
 弟子たちにはこの時一切わらかなくても、やがて弟子たちもわかりました。私たちも今知っていることは幸いです。何を見上げますか。何にすがりますか。「私が何をしたか」ではない。どこまでもイエスを見上げましょう。神は何をしてくださったのか。どんなに素晴らしいことをしてくださり、与えてくださったのか、そのイエスを、十字架をぜひ見上げようではありませんか。必ずそこに平安と希望と喜びがあふれ出てくるでしょう。その平安と希望と喜びにあって、世につかわされ、神を愛し、世を愛していこうではありませんか。