2016年7月10日


「「私が何をしたら」ではなく」
ルカによる福音書 18章18〜30節

1.「ある役人の質問」
 17節の言葉の後に、周りにいた役人の一人がイエスに質問するのです。
「また、ある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」18節
 この役人は、ユダヤ教の会堂のリーダーであったとも言われていますが尋ねます。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」ー彼は「何をしたら、永遠のいのちを得られるか」と尋ねます。彼は前回までのイエスのメッセージを全く理解していません。イエスが繰り返し伝えていたのは「何をするか、何をしたか」ではなく、取税人の祈りのように神の前に自分の罪深さをそのまま認めて神の憐れみにすがることこそを神は義と認めてくださるといいました。そして神の前に子供のように小さな存在であることを認めるものこそ神の国にふさわしいとも伝えていました。しかしこの役人はなおも「私は何をしたら」と尋ねるのです。イエスの言っているメッセージを何も理解していないのです。

2.「「私が何をしたら(か)」による義」
 さらには彼がこのように尋ねるのには彼の動機があることもわかるのです。イエスはそれを見抜いているのです。そのように「私は何をしたら」とそれでもいうならと、こう答えるのです。
A, 「神が求める完全さ:十戒」
「戒めは、あなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母とを敬え。』」20節
 イエスは、そんなに「自分が何をしたら」ということで神の前に義を立てよう、神の国に入ろうとするならと「十戒」を示すのです。十戒、つまり律法です。それは「行いの完全さ」を求めています。私たちがすべきことを示すだけでなく、それを完全にすることを十戒は求めるものです。その十戒を完全に行えるなら神の前に義であるのです。けれども、現実は誰も完全に守ることができない。いや聖書に照らし合わせるなら、私たちは第一戒の「神を愛する」ということさえも不完全なものに他なりません。イエスがこのように十戒を示して彼に答えた意味は、彼が「私は何をしたら」と尋ねてきたのに対して答えたものにすぎません。イエスの本意は何も変わらず、それまでの「取税人の祈り」や「子供のように」で伝えた通りです。しかしそれを全く理解せずに「私が何をしたら」と聞いてきた彼に、神の前の完全、人の側ではできない神の求める完全を示したのでした。
B, 「自信」
 しかし何とこの役人は、そのイエスの言葉にこう答えるのです。21節
「すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さな時から守っております。」」
 彼は答えます。自分は十戒を全て守っていると。彼はおそらく、その自信、自負があってこそ「私は何をしたら」と尋ねたことでしょう。つまり彼はそのような自信があったので、むしろイエスから賞賛され、救いの確証が得られるような言葉があると期待して尋ねたと思われるのです。「自分の行い」についての、イエスからの確信の言葉が欲しかったわけです。しかしつまりそれは、「自分の行い」にはいくら自信があっても、神の国、永遠の命の確信はなかったことを意味しています。「おそらく大丈夫だろう」というほどの「自信」はあったのです。しかし「確信」は持つことができませんでした。このように人は自分の行いには「自信」は持つことができても、神の前での救いの「確信」を持つことができないことを彼は示しています。彼の行いに、神からの言葉が必要だったことをこの役人の行動はまさに示しています。非常に面白いところですし教えられるところです。自分の行いに、救いの確信はないということです。それは不完全で曖昧な存在である「自分自身の『自信』」以上のものではなく、つまりそれは不安、不確定を伴うものであるということを教えてくれています。
C, 「人を愛し天に宝を積みなさい」
 その役人の答えを挫くように、イエスは全てを見抜いて答えています。22節
「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分け与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい。」
 イエスは、その人に「あなたは完全ではない」と示しています。「すべて守っている」という彼に「そうではない」と言っています。けれども非常に優しい、そしてよく見ると幸いな言葉でもあります。まず彼は「みな守っている」という彼に対して「一つだけ欠けたものがある」という言い方をしています。その守ってきたということをある程度、イエスは認めておられるでしょう。けれども「完全ではない」と言います。改めて確認ですが、それは彼が「私は何をしたら」ということを求めているからこそ、そのままストレートな答えとして神の前の「完全さ」を示しているということです。そして、その「何をしたら」そして「皆、守っている」という彼の標準や期待を前に、あなたは神の前にまだ完全ではないとイエスは言うのです。それは自分の持ち物を全て売って、貧しいものに施しをすることだと。それこそ欠けているというのです。しかし大事なことは、世にあって持っているものを失っても、それは天で多くを得ることになるのだと彼を真理へと招くのです。何よりイエスは、彼をそうして「わたしについてきなさい」と弟子に招いてもいます。
D, 「律法の前に、「私が何をしたら」はただ悲しみをもたらす」
 しかし、これに対してその役人ですが、23節
「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」
 彼は非常に悲しむのです。まず期待していた確信の言葉はそこに与えられませんでした。自信があったのにです。そればかりではありません。完全ではないこと、そして、できないことをイエスが求めてきたからでした。彼の財産を全て売って、貧しい人に施すことは彼にはできなかったのでした。多く持てる人は、それを失うことを何よりも恐れるものです。その持てる財産は世では多くの利益や誉れをもたらし、彼の欲求を満たすからです。どれだけ持っているかによって、人はその人のプライドを高め、保持するのものでもあるでしょう。「多く持っているものは、地上で報いを受けている」とイエスが言っている通りなのです。けれども神が望んでいることと神が伝える幸いは世とは逆説的で、むしろ失うことや、持たないことにこそ、そしてそれによって愛に生きることこそ、天に宝を積む本当の幸いだと教えるものです。イエスは「何をするか」によって神の国を求めたいのであるなら、人を愛し人に与え天に宝を積み重ねることにある、しかも完全にと、彼に答えるのでした。
E, 「らくだが針の穴を通る方が優しい」
 しかしイエスはそれは非常に難しい、いや不可能で、できないこともはっきりと示しているでしょう。24節
「イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何と難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。」
 そういうのです。難しいどころか、できないと言っているでしょう。「らくだが針の穴を通る」ことはありえない、起こりえないことを示しています。つまりできないことを伝えているのです。そうなのです。彼の質問の根拠、標準は「私が何をしたら」であったでしょう。彼はどこまでもそのように「自分が何をするか」「何をしてきたか」「何を持っているか」しか見ることができません。それが彼の、神の国に入れるかどうかの標準、基準でした。そしてそれを支えていた彼にとっての強力な根拠は、自分がそれをしっかり守っているという自信と、さらには彼がこれまでの功績で持てるもの、得てきたもの、財産でもあったことでしょう。しかし神の国にそれで入ることは決してできないのです。それは金持ちだけではありません。私たちは彼を責めたり蔑んだりはできません。これは金持ちではなくても簡単なことではありません。「私は何をしたら」で救いを考えるなら同じであり、結局は神の律法の完全な要求の前に私たちは必ず躓き、非常に悲しまざるをえないのです。彼の質問、イエスとの問答は何よりその事実こそを私たちに伝えているのです。

3.「誰が救われようか?神にはできる」
 ゆえに、それを聞いた周りの人々の感想の通りです。26節
「これを聞いた人々が入った。「それでは誰が救われることができるでしょう。」
 その通りではないでしょうか。金持ちだけではないのです。繰り返しますが「私は何をしたら」で神の前に立とうとするなら、十戒の前に絶望するしかないのです。できないのです。「誰が救われようか」なのです。
 しかしイエスが一番言いたいことをここで言っているでしょう。ここの中心となるメッセージです。27節
「イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
 「私は何をしたら」で神の国を求めても、必ず躓きます。確信はありません。「自分の自信」は、律法の前に、不安、悲しみに必ず変わります。「誰が救われようか」ーそれが律法の前の答えです。しかしイエスのそれに対する真の答えです。
「人にはできないことが、神にはできるのです。」
 これが救いの全て、神の国の真理です。人にはできないことを神がなされる。救いは神のなさるわざ、神が信仰を与えてくださる。神が救うのだ。神が救いを与えるから、神の国はあなたがたのものとなるのだと。イエスは大事なメッセージを私たちに伝えています。ですから、28節以下のペテロの言葉もこの文脈とイエス様の言葉から見るなら、実は見方が少し変わってきます。

4.「信仰は賜物:私のものが神のものとなり神のものが私のものに」
28〜30節
 ペテロは、実は「役人の目の標準」と何ら変わっていないわけです。「私たちがこれだけのことをしました。だから」と言っているわけですから。やはり「私が何をしたから」の視点で永遠の命を見ていることに変わりはありません。事実、この時、ペテロには家も妻もあり、兄弟もいました。もちろん仕事も財産も捨ててイエスについてきてはいます。しかしイエスはその信仰は、ペテロや弟子たちのわざ、行いではなく、神の恵みであるということこそを言いたいのではありませんか?「一体、誰が救われるでしょう」「人にはできないことが、神にはできるのです」とあるわけですから。ペテロや弟子たちだけ、律法、十戒を完全に守れたからついてきたということを、ルカはここでは言いたいのではありません。それだと全くこの前後とも、また聖書全体とも矛盾してしまいます。そうではありません。神がしてくださったこととして、ペテロや弟子たちが、網を置いて、父を置いてついてきたということがあるのです。「人にはできないことを、確かにあなたがたはした。しかしそれは神がなさったことなのだ」とイエスは伝えているのです。その神がしてくださり与えてくださったことを、「弟子たちがしたこと」としてくださり、そして、そのいく倍もの祝福や受けるものを、約束してくださっているのが、この言葉の意味に他なりません。このことはとても大事なところです。
 なぜなら何より十字架の出来事はそのものではありませんか。私の罪をイエス、神がすべて負ってくださり、私たちが負うべき罰も死も、神が負ってくださった。それは、私たちのものが皆神のものとなったのです。しかし同時にそれによって神がしてくださったこと、神のものが、私たちのものとなるということでもあるでしょう。「身がわり」ということはそういうことではありませんか。神であるイエスが成し遂げてくださったことが私たちのものとなっている。イエスこそ律法、十戒を完全にしてくださった。まさにイエスさまこそ義なるお方。しかし賜物である信仰のゆえに、私たちは何もしていないのに、私たちはなおも罪深いのに、そのイエスの義が、信仰によって、私たちのもの、私たちがしたこととなるでしょう。まさに27節?31節までのところを十字架の視点から見ていく時にイエスの伝えることの幸いを見ることができるのです。

5.「終わりに」
 今日の幸いは「救いは、永遠の命は、神の国は、どのように?」の答えがはっきりと示されているということです。「私は何をしたら」「私たちは何をしたから」には決して答えはないということです。そこに救いも永遠の命もありません。神の十戒の前に悲しむだけです。イエスはここで福音をはっきりと示しています。あなたがたが何をしたらからでは決してない。人にはできないことが、神にはできる。そこにこそ福音があるのだと。神がすべてをし与えるところにこそ福音があるのだと。十字架の出来事はそのはっきりとした証ですと。私たちは何を見るように今日、招かれているでしょう。「私は何をしたら」ではない。「私たちは何をしたから」でもない。神であるイエスが何をしてくださったのか。イエスがすべてをしてくださった。それが私たちのものとなった。そのようにイエス、その十字架を見上げるところにこそ、救いの確信と平安があるのです。今週もただイエス、十字架を見上げ、そのすがる信仰にある救いの確信と平安をいただいて、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。