2016年7月3日


「子供のように」
ルカによる福音書 18章15〜17節

1.「はじめに〜前回から」
 前回、自分は正しいと周りの人を見下しているパリサイ人たちに対して、イエスは、パリサイ人と取税人の二人の人の祈りを取り上げて「どのような祈りが受け入れられるのか」を教えました。パリサイ人は自分のしてきたことや正しさをたたえ、隣の罪深い取税人のようでないことを感謝しますとお祈りしましたが、取税人は目を上げることもできず、ただ胸を叩き自分の罪に苦しみ、「神よ、こんな罪人を憐れんでください」とだけ祈りました。イエスは言うのです。パリサイ人ではなくこの取税人が神の前に義と認められて家に帰ったのだと。そのように神は、神の前にあって、ただ人と比べただけの自分の正しさを主張することよりも、むしろ砕かれた心、つまりどこまでも自分は罪深いものであることを認め告白し、神の憐れみ、赦しにすがるものこそを神は受け入れられその信仰を義と認めてくださるのだということを教えるのです。今日のところは一転、話が変わっているかのように見えるかもしれません。子供を受けいられるイエスのエピソードです。けれども前回とつながっているところだとも言えます。さらに言えば15章から見てきました。失われた羊や放蕩息子の話からもつながっているのですが、今日の箇所も、先週の祈りと同じように、どのようなものが神の国に受け入れられるのかということをイエスは言っています。変わることのない神の国のメッセージ、恵みのメッセージがここにはあるのです。

2.「幼子たち」
 二人の祈る人について、14節のようにイエスが言った直後です。この場面は18章1節から始まっているように、いつでも祈るべきであるということをイエスが教えている時です。大事な「説教」または、質問などのやりとりの時です。しかしそんなところにです。
「イエスに触っていただこうとして、人々がその幼子たちを、身元に連れてきた。ところが弟子たちがそれを見て叱った。」
 こうあるのです。話の合間を見つけたのでしょう。親たちは幼子たちを連れてやってきます。英訳の聖書では「Infant」とあります。生まれたばかりの乳飲み子、本当に赤ちゃんであることを意味しています。親たちは「触っていただこうとして」、つまり祝福し祈ってもらうためにイエスのところに連れてきたのでした。この「幼子」は一つの大事なことを意味しています。幼子、乳飲み子は何もできない存在です。もちろん意志も心もあるのですが、自分から神やイエスを考えて信じることができない存在です。もちろん「信じる」ということも幼子にもあるでしょう。しかしそれは生来的な母への「信頼」や「頼る」のようなものです。
A、「神は幼子を除外するのか」
 しかし彼らは自分から神、イエスを信じることができないからと、神の前から除外されるのでしょうか。それは当然、Noです。聖書を見ていくときに、旧約の信仰者たちは、幼子、しかも生まれて数日しか経っていたない乳飲み子を、神の前に連れて行き、祈っています。ヨセフも二人の子供を父ヤコブのところに連れて行き祈ってもらったでしょう。それは当たり前のことでした。そしてその時事実、神はその幼子を受け入れ祝福するのです。このように乳飲み子、幼子も、決して神の祝福から除外されることはない。これは聖書では一貫しているのです。
 そして、この「神がそのような幼子を祝福してくださる」ということは、神の祝福は、そのように神の一方的な恵みであることを非常にはっきりと表わしています。幼子です。自分で信じたり告白したりできません。理性で信じることもできません。しかし神の祝福はそんなことは関係ない。何ができるから神は祝福してくださるのではない、この幼子をそのまま受け入れ祝福されるということです。
B、「恵みである洗礼も」
 ですから「恵みである洗礼」も同じです。よく言われるように、「自分の意思で信じることができないから、子供、幼児、新生児には洗礼を授けるべきではない」というのは、違和感を感じさせられるのです。それは神の恵みである洗礼も信仰も人のわざや条件にしてしまっています。あるいはそれはよく勘違いされるように「人の側の入会儀式」のようでもあります。そしてそれは結局、私たちの行い、何をするか、によって信仰や救いや祝福も決まってくるということになってしまうのです。「恵みのみ」ではなくなるということです。それは自分の力で信じたし、自分の決心で人のわざの洗礼を受けたし、自分の決心の洗礼であるから自分でその状態を固く守り続けと、救いもその生活も、恵みでも、みことばでも聖霊でもなく、結局、私たちのわざが全てとなるということになります。それはちょっと違うとわかるでしょう。そしてそれは何より平安も確信も失われます。救いも信仰生活も重荷になります。私たちの行いに全てがかかっているのですから。
 このように大人とは関係ないような、幼子の祝福、幼児洗礼ということを一つ取って考えてみても、そこにある神の恵みとわざが損なわれていくときに、救いはもちろん、私たちの今の信仰やクリスチャンの在り方に大きく関わってくることがわかるのです。
 旧約を見てきても、まさに神は幼子をそのまま受け入れ、祝福され、その子に約束を与えていました。その子は神の約束のうちに導かれていました。ではイエスはどうでしょう。イエスも同じなのです。

3.「子供たちをわたしのところに来させなさい」
 弟子たちは、そのような幼子を連れてきた大人たちを叱りました。退けました。大事な話の時間であったからでもあったでしょう。けれどもイエスの話は、神の国の福音です。その語っている神の国は、イエスの側では理性の働く大人だけに限定していたでしょうか。そんなことはないでしょう。
「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような者たちの者です。」16節
 と。マルコの福音書の方を見ると、イエスはそんな弟子たちに「憤って」叱ったとも書かれています。子供たちを、神の国から、祝福から退けること、止めること、それは神の憤りなんです。神が望まないことなのです。神であるイエスが望んでいることはむしろその逆です。「子供たちをわたしのところに来させなさい」なのです。そしてイエスは、マルコの福音書を見ますと、その子どもたちを抱いて一人一人手を置いて祝福されたのでした。
 素晴らしい神の愛、恵みです。神の国は、子どもたち、小さな乳飲み子さえも決して除外されていません。むしろ神は「連れてきなさい」と言ってくださっているのです。ぜひ幼児洗礼、そして洗礼の幸いを覚え感謝したいのです。洗礼というのは、決して、入会儀式や試験でも、人の立てた条件でもありません。人のわざでもありません。神は、この洗礼をイエスの救いの恵みと祝福を私たちに与える手段、方法としてくださり、神ご自身がみことばを通して、その恵みを与えるために与えてくださった、素晴らしい恵み、神の御手なのです。それは大人の場合は、もちろん信じて告白して授けるものです。けれども聖書の約束からいうなら、その信仰の告白さえ、神が御言葉を通して聖霊によって与えるものであると、全くの恵みであると言っているでしょう。人の業、行いとは決して言っていません。それなのに信仰も人のわざや行い、洗礼も自分の決心としてしまうのは、神のものを、人のもの、自分たちのものとしてしまっている重大な過ちと言えます。そうなると確かに、幼子は、大人のように告白できないから、神の国がわからないからと、除外されて当然になってしまいます。それが起こるのは洗礼も信仰も、人のわざとしてしまっている結果なのです。そうではありません。信仰は賜物、神がみことばを通して聖霊によって与えてくださった天の宝ではありませんか。そして洗礼はイエスが定めてくださった恵みを与える手段です。そこでは子供、幼子は決して除外されないのです。幼子も生まれた時から神の前にあります。神の前にあるなら、その幼子は、純真無垢のように見えても罪人です。神の恵みが無ければ救いは届かない一人の人間です。その幼子を洗礼から除外するなら、救いから退けることになり、それは何よりイエスの憤りなのです。イエスは言っています。「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけない」と。感謝な恵みに子供たちも加えられていることをぜひ感謝し、賛美しましょう。

4.「小さな存在である私たち」
 そしてこのところは子供はもちろんですが私たち大人への幸いでもあるでしょう。
「まことに、あなたがたに告げます。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」17節
 幼子も小さな存在です。しかし15章の初めから見てきたように、これまでイエスはずっと「小さな存在」に目を向けてきました。罪人たちと食事をするイエスは、彼らを、100匹の中からの失われた1匹の羊とたとえました。そしてその羊の所有者は、残りの99匹を残してでも、その失われた1匹を探しに行くと教えました。その後の、なくした銀貨1枚も、放蕩息子も、周りで食事をする罪人たちを指していました。そして弟子たちや周りのユダヤ人たちには、そのような罪人たち、小さな存在こそを赦し愛しなさい。その小さな存在にこそ忠実でありなさい、仕えなさい、受け入れて一緒に食事をしなさいと教えてきたでしょう。ラザロの話もありました。ラザロは本当に世に見捨てられたちっぽけな存在です。そして前回もパリサイ人の神の前でのビッグマウスよりも、罪深い取税人、ちっぽけな存在の、その悔いた心と叫びをイエスは受け入れたでしょう。ですから幼子は、罪人として生まれた小さな存在の一つの象徴です。何もできない。わからない。助けを必要としている。その象徴でしょう。神はその小さな存在をどこまでも大事にされる。いやそれと同時に、これは先週のところからの続きとしてみるなら、それは私たち一人一人は神の前にあるなら、皆、小さな存在であるということではありませんか。大きな神の前にあって、私たちはなんとちっぽけで、無力であるのか、罪深いのか、まさに私たちは助けがなければ、神の国に入ることができない、いや助けがなければ、神のことも否定し受け入れない、自分の罪深ささえもわからない、まさに人と比べて自分の正しさに満足して高ぶりやすい、神の前に自分を大きく見せようとするそのような存在が人間ではありませんか。アダムの背きの言い訳も、ノアの時代の世の人々も、バベルの塔も、神の前に自分の罪深さ、小ささを認められない、自分を大きくする行為であったでしょう。モーセの時代、神の警告を拒み続けたエジプトの王は、まさに人である自分が立てた繁栄と王権という大きさを誇ったがゆえに、神の言葉を受け入れられませんでした。わかると思います。私たちの罪は、神の前にあって、自分を大きく見せようとし、自分自身に救いや正しさの正当性を主張しようとするところにこそあるということを。しかしそれは、まさにあの堕落の場面で「神のようになれる」そのエバの落ちた誘惑そのものではありませんか。

5.「イエスの恵みへの招き」
 イエスのこの勧めは、小さく、子供のようにならなければならないということではありません。私たちは神の前にあっては、すでにいつでも小さな幼子のような存在だということです。しかしそれを忘れて、パリサイ人の祈りのように高ぶるところに、大きな過ちがあるということです。そうではない、私たちはいつでも神の前にある、神の前にあって小さな幼子、何もできない、わからない、助けが必要な乳飲み子です。そのことを神の前で知ること、認めること、告白すること、まさに取税人の祈りのように。それが神の国を子供のように受け入れるということです。それが「神の国はこのようなものたちのものです」という言葉が、指し示す「幼子」です。つまりその通りの幼子はもちろん、小さな存在であることを知り、神よ憐れんでくださいと叫ぶしかない、私たちすべてであるということです。
 イエスは、そのような私たちを決して見捨てません。聖書にある神の恵みの歴史と、みことばの約束が示すように、神の前に小さな存在であることを認め、罪を悔い改め、神に立ち返るものを神はどこまでも憐れんでくださるお方です。救ってくださるお方です。いやそんな私たちのため、罪人のため、罪に苦しむ者のためにこそ、御子イエスを与えてくださり、十字架にまで従わせ死なせたではありませんか。その死と復活によって、神は私たちに罪の赦しと日々新しい命を与えてくださったではありませんか。その罪の赦しと新しい命の恵みを幼子はもちろん全ての人に与えるために、この洗礼を授けてくださるでしょう。神の憐れみと愛今もつきません。絶えずあります。それは高ぶるものではなく、砕かれたものに、神の前に小さなものであることを知るものに。「誰でも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされる」のです。
 ぜひ神の前に、小さな幼子に過ぎない自分をそのまま認めて、その神の手に、イエスの手に、全てを負っていただこうではありませんか。全てを任せようではありませんか。そこに既にあるイエスの手から受ける多くの恵みを受けようではありませんか。罪の赦しを、新しい命を。その時、安心と喜びに満ちた、イエスが与える新しい歩みは始まります。