2016年6月26日


「神に義と認められるのは」
ルカによる福音書 18章9〜14節

1.「はじめに(前回の続きとして)」
 イエスは、神は私たちの祈りを必ず聞いて下さるから、私達はいつでも祈るべきであり失望してはらないことを教えられました。イエスは不正な裁判官の例えを用いて、そのような不正な裁判官であってもどこまでも頼むならばその重い腰を上げて裁判をするだろう。不正な裁判官であってもそうであるなら、まして私達を愛して下さり子として扱って下さる神は私達の声、願い、祈りを聞いて下さらないわけがあろうかと伝えたのでした。
 その「神に祈るべきです」というメッセージが続いていきます。イエスはさらに二人の人のことを例に取り上げて、祈ることを教えるのです。

2.「祈る二人」
 まずこのお話は「自分を義人だと自任し、他の人を見下している者たちに対して」とあります(9節)。自分は正しい、自分は間違いがない、悪い所はないと言う人がまわりにいたのです。そしてその人々は、他の人、つまり、彼らから見て、正しくない人、間違っている人を「見下している」のを、イエスは見ていたのです。確かに15章では、イエスが罪人と呼ばれる人達と食事をしている時に、周りのユダヤ人たちは、そのようなイエスを蔑んだたとありましたし、16章でも、イエスがそのような罪深い小さな人々こそを愛するように教える中で、周りの金持ちなどはそれを「嘲笑った」ともありました。そんな彼らにイエスはある二人の人の話をするのです。
 二人の人は祈るために宮に上って来ました。二人とも祈るためにやって来たのです。一人はパリサイ人。それは、聖書を非常に良く勉強していて、聖書の律法を厳しく守っている人でした。そして社会的にも地位が高い、世間からは立派な人達と見られている人達のことです。しかしもう一人は取税人です。彼らはパリサイ人とは逆で、不正をして富を得るものとして「罪人」として嫌われていました。どういうことかいうと、彼らはユダヤ人でしたが、外国からの支配者であるローマの皇帝のために税金を集めている人達でした。取税人は嫌なローマのために税金を集めている人と見られたのでした。しかしそれだけで罪人と呼ばれていた訳ではありません。それだけでなく彼らは要するに、本来集める額よりも多く集めて、その多く集めた分を自分の懐にいれていることをみんな知っていたからでした。ですから、罪人と呼ばれ、蔑まれ嫌われていたのです。この二人が祈りにやってきました。

3.「自分を正しいとする人の祈り」
 パリサイ人はこう祈ります。
「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」11節
 彼は「自分は正しい」と思っています。そして「自分はこんなにしている」「神の律法をこんなに守っている」と。彼は自らを誇っているでしょう。重要な点は、まず彼はその正しさの理由を、他の人々や、なによりその隣の取税人と比べてだという点です。そしてこの取税人のように「そのような罪を犯していない」と。「だから正しい」と。このように彼の正しさの基準はその取税人、人との比較にあるのです。もちろん彼らは神の律法も知っていたでしょう。しかしそちらよりも、彼は「ことのほか、この取税人のようではないことを感謝します」と言っています。
 しかし彼は神に祈っていながら大事なことを見落としています。それは「神の前」にあってということです。彼はどこまでも「人との比較」のことを言っています。「人と比べてどうであるか。人とくらべて正しい、悪くない」と。ですから、断食しているとか、献金しているとかも、それは人とくらべてこれだけしているということを言っているのです。しかしそのような視点は、神の前ではなく、どこまでも人の前でのことに過ぎません。ですから、彼は、神に祈っているようで、実は神に祈っていないのです。神に向いているようで、神に向いていません。隣の人と自分に向いており、その人と比べて自分を誇ることに焦点が合っているといえます。むしろ自分を誇るために、取税人を利用し、神さえも利用しているとも言えるでしょう。そしてそういう言い方が示すのは、彼の心には「神の前」ということはまったくないということです。でも実際は、むしろ神の前にあるなら、私達は何も誇れるものはないのです。だれと何を比べようとも、全ての人は、神の前には罪深い一人一人であるでしょう。ですから本来、この神の宮というのは、その罪のための全焼のいけにえをささげに来る礼拝の場所であり、「神の前にあって」、罪を告白する場所でもあったのですが、しかし彼はそのような宮とか礼拝とか、そこでの祈りさえも、ただ自分を誇るために利用しているに過ぎなかったのでした。「神の前」ということがすっぽり抜けてしまっている彼なのです。
 実にこの「神の前」ということが抜けてしまう時に、こうなってしまうのです。なぜなら信仰も、祈りも、結局はどこまでも「人の前」になってしまうからです。「神の前」がないなら、どこまでも「人と比べて」の信仰や祈りにもなってしまうでしょう。もちろん、この「人と比べる」でも安心はできます。けれども「神の前」を忘れて、人と比べることによって得られる安心は、不安定な安心であり、つまりやっぱり不安です。それゆえの結果として、このパリサイ人のように、安定のない自分の正しさで自分を守ろうとしたり誇示しようとするあまりに、隣人を、裁いたり、批判したり、蔑んだりなってしまうのは人の心理でもあります。

4.「罪人の祈り」
  一方で、取税人はどうでしょうか?
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」」13節
 目を天にも向けない。そして自分の胸をたたく。心の痛み、良心の痛みです。「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい」と。罪ゆえの心の痛みでした。聖書には、罪ゆえの痛みを「心を刺し通される」とか、「心が砕かれる」というような表現がありますが、罪は、心に、何かが刺さるような強い痛みを起こすものです。取税人は確かに悪いことをしてしまいました。しかし彼は神の前にあって神の前に立つ事ができないのです。見上げることができません。彼は「自分の罪」と「神の前」にあることを何よりも意識して、知っています。神の前にあって、自分の罪深さしか見えて来ない。その痛みと恐れの告白なのです。憐れまれるに値しないような自分しか見えません。絶望的な自分です。しかし彼は、その罪の告白に、この神の宮、神の前で、「この罪人をどうか憐れんで下さい」とだけ、神に祈るのでした。そして

5.「神に義と認められたのは」
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるからです。」14節
  イエスはいいます。この取税人の祈り、告白こそ、神に受け入れられた。いや、義と認められた。そういいます。正しいとされたというのです。私達人間や、社会の目から見るなら、パリサイ人の方が社会的にも評価されるのではないでしょうか。選挙が迫っていて、選挙運動が盛んですが、政治家も政党も、これだけのことをしましたとアピールして、良いイメージと票を勝ち取るために必死です。この「あれをしたこれをした」とパリサイ人の自画自賛のようにです。それは世の中の人の選び方や評価を反映していて、世もそのようにいって自己アピールをする、パリサイ人の方が、社会からは評判の良い、いい人、立派な人、正しい人、信頼できる人となるかもしれません。社会はそうかもしれません。しかし、イエスは、義と認められて家に帰ったのは「パリサイ人ではありません」とわざわざ言っています。取税人が義と認められて家に帰ったとイエスはいいます。なぜでしょう。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるからです」といいます。つまりこれは何より「神の前にあって」ということです。人の前に何をしたか何ができるかは「神の前にあって」は関係ない。あるいは何より、ここでは「義と認められるために」、つまり「救いのために」はということですが、「人が何をしたか」の功績は全く重要なことではないというのです。行いを見るなら、パリサイ人のほうが言うまでもなく立派であり、取税人のしてきたことは罪です。しかし「神の前」にあっては、その行いを誇って「自分の罪が見えない」ことは、救いのために何の役にも立たないばかりか神への高ぶりとさえ聖書は見ているのです。そうではなく、むしろ「神の前」に、自分の罪を認めることこそを神はなによりも求めておられるし、その罪を認め、苦しむ心を、神は決して責めるのでも裁くのでも、更に苦しめ大きな罰を加えられると言うのでも決してない。むしろ神は赦しを与え義と認めて下さる。その罪を赦し正しい者として再び立たせ、家へ、社会へと送り出してくださる。そのような神の心を、イエスは私達に伝えています。

6.「聖書の神の国への招きとは」
  聖書は一貫してその神の心を私達に伝えています。
「たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」詩篇51篇16?17節
 神の前に、砕かれた悔いた心こそ、神へのささげものとして喜ばれるとダビデは歌っています。イエスはマタイ6章のところで、祈りにおいても、人に見られるような祈りではなく、やはり「隠れたところにおられるあなたの父に」と、人の前ではなく「神の前」ということをイエスは教えて下さっています。さらにマタイ7章では、隣人に対しても、兄弟の目の中のちりに目を付けるが自分の目の中の梁に気がつかないものを、イエスは偽善者と言っています。そしてなにより「自分の目の梁を取り除くように」と。やはりパリサイ人のような「人の前」ではなく、この取税人のように「神の前」に自分の罪を認める悔いた心をイエスは教えているのです。そしてイエス自身はそのような人の前だけの立派な人を招くためではなくて、神の前に罪に痛み苦しみ悔いる者を招くためと言っています。
「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31〜32)

7.「終わりに」
 私達はみな神の前にあるものです。その神の前にあって、私達はみな、この取税人のような罪人です。このパリサイ人も同じ罪人です。しかし神はその罪人を「裁くため」にイエスを送ったのではありません。救い主として送りました。罪人を招いて一緒に食事をし、愛を表し、悔い改めさせるためにです。その神の前にあって、私達は自分を誇ることは空しいことです。人と比べて安心することも意味のないことです。私達は神の前にあって、何より、そのままの罪深い自分を告白して、「神様、この私を、憐れんで下さい」と、神に頼り求める声を、神はなにより喜んで下さり受け入れて下さいます。そのような私たちをもイエス・キリストの十字架と復活のゆえに義と認めて下さいます。そして神は日々私たちを新しく立たせて、私達を家族へ、社会へと、新たにつかわしてくださるのです。感謝なことではありませんか。その恵みと約束が、私たちを本当に安心させ、平安と確信を与えることができるのです。その約束と恵みを信じるからこそ、平安と喜びに満たされ、私たちは、ここから遣わされていくことができるでしょう。今週もその恵みの道が始まり、私たちは遣わされているのです。ぜひ、神の前にあって、罪人であることを知り、悔い改め、その私たちを赦してくださった、イエスと十字架を覚え見上げながら、平安のうちに歩んでいきましょう。