2016年6月19日


「いつでも祈る幸い」
ルカによる福音書 18章1〜8節


1.「はじめに」
 私たちは、クリスチャンであるないに関わらずに、誰でも、自分やあるいは誰かが困った時や苦しい時、祈るのではないでしょうか。聖書で祈りは、神から私たちに与えられている素晴らしい恵みとして伝えています。イエスご自身、いつも祈っていたことも書かれていますし、弟子たちが「どう祈ったら良いか分かりません」と言った時にもイエスは「こう祈りなさい」とイエスの祈りを教えてくれました。それが主の祈りです。
 そのようにイエスキリスト、神ご自身は、私たちにいつでも「神様」「イエス様」と呼びかけなさい、願いなさいと教え招いているのです。

2.「失望しないために」(1節)
 「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」1節
 「いつでも祈るべきである」とイエスは言います。なぜでしょう。それは「失望してはならないため」というのです。まず「祈るべき」と言うことばです。「べき」とありますから、私たちは「祈り」を「これをしなければ救われない。これをしなければ神は何もせずに答えもせず、聞かれない」、そのような「まずしなければ」という義務、重荷、あるいは、良いことが起こるための条件であるかのように祈りの事を思うかもしれません。実際、他の宗教では、神や教祖やその教団、組織のために何かを沢山すればするほど、認められる、願いがきかれる、神の目にかなうものになれるとかあります。しかし聖書のいう「祈り」はそうではありません。まずここに「失望してはならないため」祈りなさいとあります。その「失望」はもちろんイエス、神の失望ではありません。「私たち」が失望しないためにです。つまり「神のために」にではない。「私たち自身のために」私たちは祈るべきであるということです。その私たちが失望しないため。そのように神であるイエスは、私たちのため、私たちの事を思って祈りに招いているということなのです。
 ここで、まず幸いな事実がわかります。それはイエスは私たちのそのままの現実、私たちが弱さを持っており、私たちが失望しやすいものであり、迷いやすく、躓きやすい、疲れやすい、倒れやすいものであることを知り認めて、受け入れているということがわかります。クリスチャン、あるいはクリスチャンに成ろうとしている人々の不安として、信仰を持っている者は弱さや欠点、躓きや挫折があってはならないかのように誤解している人々が多いのかもしれません。そのような弱さもない、いつでも完全な立派な信仰生活こそクリスチャンなんだと、そのような理解です。しかしそうではありません。イエスは、私たちが信じる者であっても、洗礼を受けて教会生活をしているものであっても、尚も罪深いものであり、いつでも弱さを覚え躓くものであり、この世の中にあって、人々や自分自身にさえも失望しやすいものであることを知ってくださっているのです。そしてそれを非難するのでもない、責めるのでもない。ここにあるでしょう。「そうならないために」、「失望してはならない」そのために、あなたがたが失望しないように、神様に助けを求めなさい。祈りなさい。祈るべきですと。そう私たちのために愛と憐れみを持って思っているということなのです。そのことを教えるためにイエスはこのたとえ話をされるのです。

3.「裁判官の例え」(2〜5節)
 それは良くない裁判官の話しです。神をも恐れず、人を人とも思わない裁判官。とても横暴なイメージがありますが。そこに一人のやもめがやって来て訴えます。「私の相手を裁いて、私を守ってください。」と。やもめは弱い立場でありましたから、何か理不尽な扱いを受けたということを想定しているでしょう。それをこの裁判官に訴えにやって来たのでした。この裁判官はまったく取り合わないで無視していました。自分自身でも神を恐れない、人を人とも思わない横暴さを認めて裁判官をやっているような人でもあります。しかしです。そのやもめがあまりにも頼み続けるので、その裁判官は、もううるさくてしょうがないから「裁判をしてやろう」とその重い腰をあげるのです。イエスは6節にありますように、彼を「不正の裁判官」といいますが、しかしその不正な裁判官の例えから聞きなさいと示しています。不正な裁判官ではありましたが、しかしそんな人であってもあくまでも頼み続けるなら、その頼みを聞くのです。そのように不正な裁判官で「さえ」そうであるなら、「正しい神」はなおさらそうではないか、ということなんです。

4.「あくまで頼み続けるなら」(7〜8節)
 ここでも「その呼び求める選民のために」とあるのです。つまり不正な裁判官は自分のためでしたが、しかし正しい神は、神ご自身のためではなく、失望し呼びもとめるその人のために、決してその叫びを放っておかないとイエスはいいます。イエスは私たちに、正しい神は私たちを愛し心配し、私たちのためを考え、私たちが失望しないために、その私たちの声を必ず聞いて下さる。決して放っておかない。そして「私たちのために」速やかにことを行なわれる方であることを指し示しているでしょう。そのような愛を持って答える神だからこそ、この「祈る」ということはとても幸いであり平安を与えるものとなるのではないでしょうか。そのような祈りは重荷ではなく希望です。そのように「祈り」というのは「神のために」と義務や重荷としてやるのでは決してありません。神がすべてあなたのために、わたしたちのために、私たちが失望しないために、全てのものを神が備えている。必ず助け導く。だから祈りなさいなのです。主の祈りもそうです。だから福音の祈りなのです。そのことをこのたとえを通して、イエス様は示しているのではないでしょうか。そのように祈る祈りは、決して重荷ではないでしょう。むしろ安心して祈れる、平安があり、平安が与えられる祈りとなるのではないでしょうか。

5.「正しく扱う神」
 そしてこのたとえは「祈り」のこともそうですが、神は正しく取り扱ってくださるということも教えてくれていると思います。イエスはやもめを登場させます。この時代、やもめは立場の弱い人々でした。何か誰かに不正な扱いを受けることも多かったでしょう。そのような理不尽な経験というのは、それはいつの時代にあっても、人々は経験する者です。私たちもあるのではないでしょうか。特にそれは上下関係などで多いことかもしれません。今ではパワーハラスメントという言葉もあるぐらいで、そのようなことは社会や会社、等でよくあることです。現代のわたしたちもよく経験するような理不尽な扱い。そのまま我慢するしかなかったり、我慢して忘れられるならいいのですが、いつまでも心に残って苦しむこともあるかもしれません。誰にも言えない訴えることができない孤独な苦しみであったりすることも私たちは社会や人間関係において経験することです。
 しかしここに一つの幸いがあるでしょう。イエスは不正な裁判官と対称的なものとして、正しい神をしめしているでしょう。不正な裁判官でもあくまで頼み続ければ裁判を始めるのだから、正しい神はどうであろうか?イエスは、神は正しい方であり、正しい裁判官であることを指し示します。その正しい神であるのだから、私たちがどんなに理不尽な経験をしても、どんなに納得できないような扱いを受けても、正しい神がおられ祈りを聞いて下さるのだから、失望することはない。正しい神は、全てのことを見て、全ての事を知って下さる。その理不尽なことをする相手や組織が、人の目にあっては、いくら表面的に繕われていて、隠されていたとしても、ごまかすことができて、逃れることができても、しかし正しい神の目にあっては繕うことも、隠すこと、ごまかすことも、逃れることも決してできない。神はそのような失望し嘆き悲しむものの、苦しみと悲しみを見て、その叫びを聞いて、決して放っておくことはない。必ず正しい裁き取り扱いをして下さる方であるという、励ましと慰めも、与えてくれています。だからこそ、そのような正しい神が私たちのために聞いて下さるからこそ、祈りなさい。祈るべきです。失望することはない。とこの例えを語っていることも分るのです。

6.「信じることの素晴らしさ」(8節)
 「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
 と。イエスはこのように祈るべき事を教えるために話したたとえ、つまり「あくまでも祈り求める」ということを、最後は「信仰」という言葉を持って表しているのは興味深いですし、大事なことだと教えられます。この後9節からも関連するところでもあるのですが、このようにある意味、誰でも経験する失望の果てに、あるいは、失望しそうな現実をかかえる中で神に叫び求める祈りには、何より信仰があるわけです。信じるからこそ叫び祈っているでしょう。苦しい時の叫びであっても弱さの中でのかすかな希望であっても、それは信仰なんです。つまり信仰というのは、このように、弱さや罪深さ、歩みにおける躓きや失望という現実を、私たちが認めながらも、それでもどこまでも主イエス、神に求めすがっていくことに、信仰があることが示されているように教えられるのです。
 信仰というのは、「信じる」ということの完全さや、知識の完全さでもなければ、あるいは求められている行いや道徳を完全に行なえていること、あるいは、立派なクリスチャンであること、立派な行い、立派な奉仕をできている、いっぱいしているということではないということです。それは人の目に見える範囲のことであり、どこまでも表面的な部分に過ぎないことは否めません。それはどこまでも人が判断する立派さであったり、成功、繁栄でしかありません。人の曖昧な判断が基準でしかないでしょう。そのようなことがイエスが求めている信仰なのでしょうか?そのような上辺だけの表面的な信仰や行いが終わりに日にまで求められている信仰なのでしょうか?それが、それによってのみ救われるという信仰というものなのでしょうか?決してそんなことはないのです。もしそのような信仰を求めているというのであるなら、神は決して正しい裁判官ではないことにもなるでしょう。それでは誰も救われません。イエスは今日の「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために」と話されたこのたとえにあわせて、「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と言っているでしょう。そうであるなら、本当のあるべき信仰の姿とは、むしろ神の前に弱さ、罪深さを認めながら、あるいは日々、失望や躓きを覚える現実の中で、完全で正しい神にどこまでも「天の神様、父なる神様、イエス様」とすがり求める祈りこそ終わりの時に至るまで見られるべき、信仰である事をイエスは伝えていると分るのです。しかし多くの場合は、目に見える表面的な立派さや行いの完全さだけを見て、基準として「立派なクリスチャン」としてしまい、何より深刻なのは、自分自身にその枠をはめて私たちは苦しみやすく、平安のないものであるということなのです。そして、それは何よりこれからクリスチャンに成ろうとしている人にも、大きなハードルを課せることにもなり、「そのようでなければクリスチャンにはふさわしくないのだ」という誤解さえも与えてしまうでしょう。信仰とは、弱さのうちに、罪のうちに、神にすがる祈りにこそ何より、その本当の姿があるのです。この後のたとえもそうですが、罪をどうすることもできずに神にすがるしかない罪人の祈りを神様は義とされるのです。そのようにどこまでも神に求めすがる祈り。自分がまさに失望に押しつぶされそうになるほど、弱り果て、疲れ果てている、罪深を覚えている、苦しくて躓きそうになっている、その中で「神様!」と叫ぶこと、祈ること、それが人の子が来るときまで地上で見られるべき、いつまでもしっかり私たちが持って行くべき信仰であることを、イエス様は示し私たちを励ましているのではないでしょうか?そうであるからこそ1節の「いつまでも祈るべきであり、失望しては成らないことを教えるために」という神の御心と矛盾なくつながっているともいえるでしょう。

7.「終わりに」
 イエスは祈りなさい。祈るべきですと、私たちを招いています。私たちのために、私たちが失望しないためです。それはイエスが必ず聞いて下さり、心配して下さり(第一ペテロ5章7節)、ともに泣いて下さり(ヨハネ11章35節)、そして決して放っておかない。見捨てない。無視をしない(ヨハネ14章16〜18節、詩篇27篇9〜10節)からであり、かならず答え助けて下さる真実さのゆえなのです。
 皆さん、イエスはそのような救い主です。聖書はそのイエスを私たちに伝え、イエスに求め、祈るように招いています。そしてこのイエスにあって祈ることは幸いであり、その祈りは、私たちを苦しめるのでも、重荷を負わせるのでもない、平安を与えてくれます。ぜひ皆さんが失望しているなら、躓きやすいなら、弱さを覚えて、疲れ果てているなら、罪に苦しんでいるなら、イエス様の名によって神にお祈りしましょう。イエスはいいます。「全て疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませて」あげるから(マタイ11章28節)と。神様は決して私たちを失望させることはありません。