2016年6月12日


「神の国はあなたのただ中に」
ルカによる福音書 17章20〜37節

1.「はじめに」
 聖書、説教では「神の国」という言葉が何度も出てきます。しかし皆さんは「神の国」というのはどこにあり、どのようなものであると思うでしょうか。遠い未来にやってくるものと考える人もいることでしょう。死後の天国のことだと思う人もいるでしょう。しかしそれは神の国のほんの一部なのです。イエスの時代の人々も、神の国はどこにあるのか。それは最大の関心事でした。彼らはやがてメシア(救い主)がやってきて約束の神の国を建てるのだと信じていました。「いつ、どこに」、それは人々がとても知りたかったことだったのです。この今日の箇所の人々もこのメシアと呼ばれるイエスを前にして、「いつ、どこで」と「未来」を見ています。もちろん彼らは、イエスがイスラエルという国を政治的に解放して、ダビデの時のような王国を再建することが「神の国の実現だ」と思っていたという誤解もあるわけですが。

2.「神の国は人の目で認めらるようではない」
 その神の国について、今日のところでイエス様が伝えてくれているのです。まずパリサイ人たちがイエスに尋ねるのです。「神の国はいつくるのですか」と。それに対して、イエスはこう答えるのです。
「神の国は人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
 神の国は「人の目で認められるようしては来ない」とイエスは言っています。これは大事な示唆です。人はその「人の目」で見ることができるものを求めました。つまり彼らが見たい、期待するしるしを求めて、その「しるしがあるから、何かしるしをしてくれたら、神の国を信じる。メシアを信じる。」ー多くの人はそのような視点でした。それが「人の目」が意味することですが、このように、何かものすごい大きな出来事、奇跡、目に見るような建物や成果や結果、そこに祝福や神の国があるかのように思ってしまったり、そうなるから神の国が実現するように思う。それはこのイエスの時代も、いつの時代も「人の目」「人の期待」の現実です。パリサイ人たちは「いつですか」と求め、弟子たちは37節にあるように「どこですか」を求めます。いずれも「人の目」で認めることに変わりはありません。しかしイエスは、神の国はそのようにして認められるものではないとはっきりと言うのです。「そらここにある」とか「あそこにある」とか言えるものではない。イエスは言うのです。でもイエスは「わからない」とは答えません。きちんと「神の国はどこにあるのか」言っています。

3.「神の国は、あなたがたのただ中にある」
「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
 この言葉には、パリサイ人、弟子達、そして、私たちへの素晴らしいメッセージがあります。私たちへの福音は、まず第一に「ただ中に「ある」」と言っています。現在形です。つまり神の国は過去でも未来でもなく、「すでにある、すでに実現している」ということをイエスは伝えています。待ち望んでいた神の国、それは「もうある」のです。
 では「どこに」とイエスは言っているでしょうか?
 「あなたのただ中にある」とイエスは言っています。それはどういう意味でしょうか。それは「「あなたのただ中にある」「存在する」「立っている」『イエスご自身』」のことを伝えているのです。神の御子であり天地創造の前から存在し天地万物を創造した神であるキリストご自身が今、この世に、人の間に、私たちの間に来ている。そして神の言葉を語っている。いのちのことば、救いの言葉、福音の言葉を。そしてその同じ神であるキリストが、まさに罪人と一緒に食事をしている。愛を現してくださり、その天地創造の時と同じ言葉で力を現して癒しをもしている。そこに神の国は「すでに」実現しているのだとイエスは伝えているのです。
 ヨハネの福音書1章の初めではそのことが書かれていたでしょう。「はじめにことばがあった」で始まって、そのことばがすべてのものを創造した。そのことばは人の光、キリストであったと。そしてそのことばであり光であるキリストが「私たちの間に住まわれた」とヨハネは伝えていました。そしてその光は今も、今すでに輝いているとあったでしょう。そうなのです。それは神の国の到来、神の国がこの世にやってきた、実現していることを宣言する証でもあります。聖書は伝えているのです。神であるキリストが人となられ私たちの間に来られ、住まわれ、その神の国の福音を語ってくださっている、そのところに、つまり私たちの間、私たちのただ中に、神の国は「既に」実現してるということを。素晴らしい約束ではありませんか?
 まだ来ていないと思っていたことはなかったでしょうか。死んだ後の天国が神の国だという認識を私たちは持ちやすいのかもしれません。もちろんこの後で、同時に未来の希望でもあるのもわかります。しかしイエスは大事なことを伝えています。神の国は、既に来ているのだと。私たちの間、ただ中に既にあるのだと。素晴らしいメッセージです。そしてその確信はこのようにイエスが世に来られ人となられたという聖書の事実にこそあるのであり、そしてその神の言葉である福音が絶えず語られているところにこそあるということなのです。

4.「神の国は今の希望」
 ぜひ、感謝し、喜び、ここに希望をいただきたいです。まさに今すでにみことばによって、私たちは、イエスは確かに人となられ世に来られ、十字架にかかって死なれよみがえられたと信じて洗礼を受けた者です。死んだキリストではなく生ける復活のキリストを信じる者ではありませんか。神の国は既に私たちの間に実現しているのです。今日もみことばが与えられています。みことばはまことの神であるキリストのことばであり、今日もここでキリストが聖書、日本語、牧師を通して語ってくださっているということです。聖書を製本している紙も、日本語も、牧師も、用いられている恵みの媒体でしかありません。私は道具でしかありません。そのようにみことばがあり語られているということは、それはイエスが今ここで、私たちに神の国の言葉を与えてくださり、語ってくださっているということなんです。みことばのあるところにイエスはおられるのです。そこに既に神の国は実現しているのです。しかもそれは私たちの何らかの業や力によるのでも一切なく、一方的な恵みとしてです。イエスが私たちのところに来てくださり自ら十字架にかかりよみがえられたのですから。全くの恵みとして神の国は既にあるのです。私たちはみことばと聖霊を通して、イエスがここにいて今、神の国を受け、確かな約束と恵みに導かれているからこそいつでも安心できるし確信を持てます。どんなことがあったとしても、今ここにあるイエス、神の国に私たちは確かな期待を持つこともできます。過去でも未来でもなく「今の恵み」があるからこそです。
 ゆえに祝福ということを考える時も素晴らしい事実は、私たちは「既に」祝福されているということです。私たちが考えやすい「何かをするから祝福される」のではないのです。神の国の福音においては全く考え方は逆です。キリストの十字架と復活、罪の赦し、救われていること、みことば、洗礼、聖さん、聖霊、それは全て祝福です。それを受けているのにまだ祝福されていないというでしょうか。そうではありません。キリストにあること、救いそのものが最高の祝福。私たちはキリストにあって「既に」豊かに祝福されているのです。既に祝福されているからこそ、あるいは、既に祝福されていることを喜び感謝するからこそ、むしろ私たちは何でも喜んで行いや奉仕をしていくのです。既に祝福されているからこそ、隣人に祝福を溢れ出させていくことができるでしょう。隣人を愛していくことができるのです。私たちの考え方は逆になっていることが多いです。「祝福してください」ではなく、救われてイエスが言う通りに既に神の国にあずかっているなら、それは人の目に判断できる以上のものですから、たとえ、試練や苦しみにあっても、失敗したりうまくいかない時も、そんな時でも私たちはその救いそのものが既に祝福されている、私たちは今、既に、祝福の存在なのです。
 神の国はイエスが来ているところ、イエスのみ言葉のあるところにあるという約束は、このように平安と希望を与えてくれるのではないでしょうか。

5.「目に見えることではない信仰」
 22節以下は、同時に「未来」のことを指してもいます。しかしそれは目にみえる「いつ」とか「どこ」とか「どんな」ではなく、「信仰の大切さ」を何よりも伝えていることがわかるのです。まず22節の言葉は「人の子」と言っているように、その神の国は、イエスご自身のことを指していることがここからもわかるのですが、この22節からは、イエスが十字架にかかって苦しみ死なれ、よみがえられることと、さらにはその復活の体が天に上げられ、そして再び目に見える姿で来られる日が来るまでのことを伝えています。それはこのことを語られている時のように、イエスが目に見える姿ではやがて見れなくなることを示しているのですが、その再びその姿で来られるまでの時代は、聖霊とみことばの時代、あるいは信仰の時代とも言われます。イエスはみことばと聖霊において、そして教会をキリストの身体として、みことばと聖霊によって、私たちの信仰に働いて、教会を通して業をされる時代であるということです。ですから私たちの今のこの時は、まさに神の国に既にあって、イエスがやがて来られるまでの時代、イエスがみことばと聖霊にあって私たちの信仰に働いてくださっている、そのような神の国の時代を私たちは生きているということでもあるのです。目に見えない神の国です。
 しかしその時代が終わる時が来るというのです。その時にイエスはもう一度、その見える姿で再び来られる時が来る。その時にイエスはすべてを新しくされて、新しい天と新しい地を創造し神の国を完成されると聖書は預言し約束しています。イエスはそのことを指していると思われるのですが、しかしここでイエスが弟子達や私たちに伝えたい大事なことはその未来の神の国の内容ではなく今どう生きるかなのです。最初の20節の言葉がずっと貫かれています。
「神の国は人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

6.「みことばと信仰」
 23節以下では、やがて起こることは、それは人の目では計ることができず突然、やってくることを伝えています。ノアの方舟の時代もそうでした。ノアの家族以外は誰も洪水が来るなどとは想わず、まさにその日まで食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだりしていたでしょう。ロトの時代のソドムもそうでした。ロトの家族以外はその日まで普通の生活をしていたのです。
 イエスは言うのです。ご自身がその人の姿で再びやってくるのも全くそのようであるのだと。ですから誰もその日が「いつ」だとか「どこ」だとかわからないのです。ですから、パリサイ人や弟子たちの質問は全くナンセンスなのです。弟子たちはイエスが答えた後に「どこですか」とも聞いているわけですから、イエスの言葉の意味もわかっていなかったことも示しています。そのことさえもわからない。このように見ても神の国のこと、神の未来のご計画のことは誰もわからない。突然やってくる。それは神だけが知っていて神が定めた通りに起こるのです。
 しかしイエスが、ノアとロトを例としてあげていることに意味があります。まさに誰もわからず突然起きた神の裁きである洪水やソドムの滅びも、ノアとロトは知っていたでしょう。そして逃れ救われたでしょう。なぜ救われたのでしょう。なぜ知っていたのでしょうか。それはノアには「神の言葉」があり、ロトにも、神の使者の携える「神のことば」があったではありませんか。
 みなさん、今はみことばと聖霊の時代です。神は私たちに一人子イエスを与えてくださり、今の時代そのイエス様の霊である聖霊とみことばを与えてくださっています。それは人の目にはわかりません。聖霊は見えない霊であり、みことばは、今は製本された聖書があっても、本来は、口頭で聞くものです。いずれも人の目にはわからないけど、しかし生ける神の力であり言葉です。それは紛れもなくそこにキリストはおられ、働いてくださっているのです。神の国は私たちの間にあります。
 その私たちが、いつとかどんな時からわからない、イエスがその人の姿で来られる時、その時に起こる裁きと新しい天と地にどのように備えることができるか。それはノアとロトがそうであったようにみ言葉に聞くことでしょう?み言葉を信じ信頼することでしょう。聖霊が生きて働いているみことばに従うことでしょう。どこまでもその恵み深く語りかけ働いてくださり導いてくださる見えないイエス、神の国、その約束、すでに与えられている祝福にあって、信仰によって生きることでしょう。そのことこそをイエスは伝えているのではないでしょうか。ヘブル書11章にあるように「信仰は目に見えないことを確信すること」です。そして、それは目に見えないイエスの十字架と復活の恵みに信頼し、そこに新しいいのちの力を湧き上がらせているそのイエスの完全な業にどこまでもより頼むことです。それは見えないイエスに自分の全てを明け渡すことによって、イエスと共に十字架で死んでイエスによって新しく生かされることでもあります。それはロトの奥さんのように、「目に見える」富や繁栄や財産のために後ろを振り向くものには与ることができない道です。「目に見えるもの」に流される時、約束があってもあの塩の柱という結末が待っています。しかしイエスにあって自分の全てを明け渡して十字架に死ぬなら33節
「自分のいのちを救おうと努めるものはそれを失い、それを失うものはいのちを保つ」
 のです。

7.「終わりに」
 私たちの全てを、存在をそのまま十字架のイエスに負っていただき、イエスのものとしていただくとき、私たちの荷は軽くなり、逆にイエスのもの、神の国の見えない財産と富を、神は私たちのものとしてくださるのです。それが福音の約束なのです。ぜひ、この福音に生きましょう。この約束と今ここに神の国がすでにあるその祝福を感謝して、平安のうちに神を愛し、隣人を愛していきましょう。