2016年6月5日


「イエス・キリストの恵み、そして私たちの応答」
ルカによる福音書 17章11〜21節

1.「はじめに」
 場面が変わりますが、これまでと一貫している言葉から始まっています。「イエスは、エルサレムに上られる途中」11節と。「エルサレムにまっすぐと目を向けて」進むイエスであるのです。それはイエスがやがてご自身が捕らえられ十字架に架けられて死ぬことを「まっすぐと見て」進んでいたことを意味しています。イエスの思い、土台には、いつでも十字架があるということが理解していく上で大事な前提になるのです。

2.「その地域の社会と歴史」11節
「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた」
 エルサレムへ上る途中、サマリヤとガリラヤの境を通られました。「ガリラヤ」は、ユダヤ人たちの住む一つの地方であり、イエスの育ったナザレという村もガリラヤにあり、弟子たちが生活していたガリラヤ湖畔の街、カペナウムもガリラヤ地方にありました。同じユダヤ人であってもエルサレムなどの都市があるのは「ユダヤ地方」と言いますが、ガリラヤ地方は田舎です。イエスと弟子たちが出会ったのはこのガリラヤですし、エルサレムに登る前に宣教活動を開始し行っていたのもこのガリラヤであったのです。一方でこのサマリヤはユダヤとガリラヤに挟まれた地域です。そこには「サマリヤ人」が住みますが、このサマリヤ人は遡るとユダヤ人と同じ民になります。旧約聖書、ダビデ、ソロモンの時代までは一つのイスラエルの民でした。しかしこのイスラエルは北と南に分裂していきます。イスラエルの12部族のうちの10部族は北に王国を築くのです。それがこのイエスの時代のサマリヤ地方の地域になります。そして残りの2部族が南に王国を築き、それはエルサレムなどのあるユダ王国であったのでした。サマリヤはその北の王国に遡ることができるのです。北と南は協力したりする時期も時にはあったのですが、多くの時代は争ってきたのでした。しかもこの北の王国は何度も偶像礼拝に逸れていき、そしてその国に偶像礼拝をもたらした外国の民との結婚が進んでいき、やがて王国は滅んでしまうのです。それゆえに、ユダヤ人から見るなら、彼らはもう同じ民ではありません。偶像礼拝者であり、民族の純粋性も持っていないからです。ですからサマリヤ人というのはユダヤ人からはひどく蔑まれていました。口をきいたり交わったりもすることも嫌います。ガリラヤ地方とユダヤ地方の間にサマリヤがあるわけですが、ユダヤ人はガリラヤとユダヤのその行き来をするときにその真ん中のサマリヤを通ることをせずに、あえて遠回りをしたそうです。それぐらい仲が悪かったのです。

3.「サマリヤを通るイエス」
 そのサマリヤとガリラヤの境をイエスがちょうど通られた時なのです。まずイエスは、エルサレムいく時、一般的なユダヤ人のように遠回りはしませんでした。イエスはサマリヤを通ってエルサレムとガリラヤの行き来をしていました。行き来するだけではありません。ヨハネ4章にあります。イエスはサマリヤのある村に立ち寄られた時にその村の井戸の横に腰を下ろし、そこにやってきた女性に井戸から水を汲んで飲ませてくれませんかとお願いしている場面があります。これも驚くべき出来事で、サマリヤを通ること自体も驚きではあるのですが、さらにはそのサマリヤの女性と話をされお願いをするということもこれは周りのユダヤ人たち、サマリヤ人から見ても異常なことだったのです。なぜなら、ユダヤ人の男性が女性に話をするお願いをするということもあまりないことでしたが、まして「サマリヤ人の女性に」話しかけるということはしないからです。しかしイエスはそれをされて、その女性にも神の国の福音を語られたのでした。それもサマリヤでの出来事でした。このところでもイエスはサマリヤを避けて通らないことがわかります。そのちょうど、境にある村での出来事です。
「ある村に入ると十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って声を張り上げて「イエスさま、先生。どうぞ憐れんでください」と言った。」12節
 「十人のツァラアトに冒された人」ーそれは皮膚の病気で、当時は、非常に恐ろしいとされ差別された病気であり、ユダヤの法律で隔離されるように定められてもいました。「遠く離れたところに立って」とあるように、彼らはその村の中でも、超えて出てこれない状況の限られた場所に置かれていただろうと想像できます。
 しかし詳しい状況は書かれていませんがイエスと彼らは出会うわけです。イエスのことも知っていました。イエスのことはユダヤ、ガリラヤ、サマリヤには広く伝わっていました。そしてイエスがその村を通られ時に、遠く離れたところから彼らはそれがイエスだとわかったのでした。彼らは声を張り上げて叫びます。「イエスさま、先生。どうぞ憐れんでください」と。治らない病気とされていましたし、隔離と差別の人生でもありました。病気が感染るという間違った理解もされ、人々は皆、自分から逃げていきます。世から、社会から、同胞からは見捨てられたような人々であったのです。声を張り上げるその思いには、深い悲しみや苦しみ、それまでの絶望が満ちていますが、同時にかすかな希望の光でもありました。「救い主イエスさま。憐れんでください。」と。それに対してイエスは幸いです。

4.「イエスの憐れみと恵み」
「イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。彼らは行く途中で清められた。」」14節
 イエスは彼らの叫びを無視しないのです。世は彼らを避けました。見捨てました。嫌いました。しかしイエスはその叫びを聞くのです。答えるのです。そしてその力で、世は治すことができないその病気を癒してあげたのでした。このところに、神であり主であるイエスの深い愛を見ることができます。世が見捨て忌み嫌い避けるような彼らであっても、そんな彼らの叫びであっても、イエスは憐れんでくださるのです。かわいそうに思いその苦しい悲しい思いを理解してくださるのです。イエスはいつでもそのような方です。さらにこの後のところからも一つのことが解るです。16節を見ていただくと、そこにその十人の中の一人はサマリヤ人であったことがわかります。ユダヤ人はサマリヤ人を蔑み口も聞きません。無視をします。関係を持つことを嫌います。サマリヤを避けて通ります。しかしイエスはどうでしょうか。イエスはユダヤ人ですが、そのイエスはこの十人の中に一人のサマリヤ人がいて、いることがわかっていても決してその一人を差別したり除いたりしませんでした。神であるイエスの前にあっては、その十人は皆同じ等しい、哀れな十人であり、病人であり、絶望の失われた子達でした。世は差別し、敵対し、蔑んでも、世の大多数や世の価値観が、どう思い、どういう扱いをしたとしても、イエスにとっては全く関係ないのだということがわかるでしょう。イエスはそのサマリヤ人にも同じ力を表され、癒されたのでした。
 本当に大きな愛ではありませんか。そこには限界も差別もありません。その愛は決して誰も見捨てない。それがキリストの愛なのです。私たちに表されている神の思いに他なりません。世にあって、あるいは人間関係にあっては様々なことが起こるものです。ユダヤ人とサマリヤ人のような関係は、人間同士、大きな社会でも小さな社会でもあります。一方が蔑む、蔑まれる、それも人の世では避けられません。世の大多数、世の価値観に当てはまらないがゆえに虐げられたり、誤解されたり、悪く言われたり、世の中ではよくあることです。正義だとか大多数の総意だとか何だとか言っても、人の社会にあっては、それは大多数の価値観でしかなくて、その見えないところでその枠にあてはまらない人々や少数派への暗黙の虐げや差別があっての社会であるのが社会の現実でもあります。人間社会は完全ではなく限界や不完全さを避けることはできない現実があります。
 しかし神は、神であるイエス、救い主であるイエスはそうではないということです。世の偏見、蔑み、敵対、大多数の価値観などに一切左右されない。社会の99パーセントがこの一人をダメだと断罪したとしても、見捨てたとしても、敵対したとしても、イエスにはそんなことは関係ない。その人が悲しんでいるなら苦しんでいるなら、まして叫んでいるなら、その人の心はイエスにとっては大事な思いであり、その人を決して見捨てないのです。必ず聞いてくださりその救いの手を差し伸べてくださる。イエスはそのようなお方であるのです。イエスはそのようにこの十人を癒してあげたのでした。

5.「神の恵みとしての癒し」
 この十人全員を癒してあげたということにはもう一つの意味もあります。
「そのうちのひとりは、自分の癒されたことがわかると、大声で神を褒め称えながら引き返して来て、イエスの足元にひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神を崇めるために戻ってきた者は、この外国人の他には誰もいないのか。」それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」15節?
 このところには実に沢山のことがあります。まずイエスはご自分のことを「神」であり「崇められるべきお方」と証ししている大事な箇所であるということです。癒しそのもの、そしてそれを祭司に見せなさいと言っていることからもご自身が神であることを証しするためでもあったということもわかるのです。そしてさらに注目したいのは、そのうちの一人、サマリヤ人である一人は、その癒されたことを感謝して、「神を褒め称えながら」とありますように、イエスをまことの神であると認めてイエスを賛美して引き返してきました。そしてイエスにひれ伏して感謝しました。しかし他の九人、それはユダヤ人であることを意味していますがその9人は戻ってこなかったというのです。それをイエスは嘆いておられるのです。
 まずこのところですが、イエスは十人全員を癒されたということは大事なことです。イエスは神ですから、ここで嘆いていても、癒しをした時にこの九人は戻ってこないことを既に知っているわけです。しかしそれでもイエスはこの戻ってくるサマリヤ人だけでなく十人全員を癒されたということは意味があるのです。それは癒し、あるいは救いは、まさに十人がどうだからではなく、神であるイエスからの一方的な恵みとして、神が癒された、救われたということを意味しているのです。つまり癒しや救いに人の側の何らの功績や、数パーセントの何らかの良いところがあるから神は私たちを救ったり癒したりされるのではないということです。そうではない。癒しも救いもそれは100パーセント神の一方的な恵み、神の力であるということなのです。もしここにあるようにこのサマリヤ人の信仰だけが賞賛され、それゆえに癒されたというなら九人は癒されなかったはずでしょう。信仰を言うなら十人が叫んでいたのですから皆に「イエスなら癒せる、救ってくださる」という信仰はあったのです。ですから、戻ってこなかったから、他の九人に信仰がなかったということもここでは意味していません。そして「あなたの信仰が直した」という時に、それは前回の「からし種ほどの信仰があれば桑の木に海に植わわれといえばそうなる」とあったことからもわかるように、つまり「神がそのことをされるのだ」とうことからわかるように、その人の何かが直したのではなく、神がその叫ぶ声に応えて神が直されたということを意味しているのです。ですから、このところは、この一人のサマリヤ人に何かがあったから、何かをしたから癒されたということではなく、神がその一方的な恵みと力でこの十人全員を癒されたということが、何よりのメッセージです。

6.「恵みを知るからこそ応答する」
 しかしイエスは、救われたもの、癒されたものの「応答の大切さ」をも伝えてくれています。この人が自分で癒したのではなく、神に癒されたことが「わかって」、神を崇めて賛美して戻ってきたように、救われたものは「救われた」という事実を知るのです。「神によって」救われたという事実です。このことは大事なことです。救いはどこから来たのか。自分か。自分の力か。自分の業、行いなのか。少しでもそのような「自分が」という思いがあれば、この「神によって救われた」という事実は薄れていきます。遂には無くなるでしょう。救いの原因、救いはどこから来たのか。誰によるのか。自分か、それとも神か。これは絶えず問われていることです。そして、自分自身ではなく、どこまでも神によって癒された、神によって救われたと知るからこそ、認めるからこそ、そこに「崇める」と言うこと、「ひれ伏す」ということ、つまり、「礼拝」と「賛美」があるということです。神の恵みを知らずして、礼拝も賛美もありません。人や自分のわざや栄誉や誇りに原因を見ようとするときには、真の礼拝や賛美は決してありえないということです。そしてイエスは、その真の礼拝、真の喜びの応答、賛美こそを求めておられ、必要としておられ、賞賛されるということをこそ、このところは私たちに伝えていると言えるでしょう。真の礼拝も賛美も教会も、応答も奉仕も捧げものも、それらは「神がすべてのことをしてくださった、してくださる。」「すべては神の恵み、神から出て神に帰ると」いう神の恵みの事実を知ることなくして決して生まれないのです。いつでも恵みからこそ、恵みを知り恵みに生かされるからこそ、つまりそこに確信と喜びと平安と感謝があるからこそ真の礼拝、賛美、応答があるのです。そのことを私たちに示しているのです。

7.「恵みを受けて」
 みなさん、今日のこの聖日もその恵みこそを覚える日です。神は今日も私たちをこの恵みの御座に招いてくださりみことばを与えてくれました。愛を教えてくれました。恵みを教えてくれました。そして今日は恵みとしてイエスが与えてくださる聖餐があります。このみことばによるイエスの体と血を持って、イエスは今日もその十字架と復活を、罪の赦しと新しい命を与えてくださいます。これは福音であり恵みを受ける時です。私たちは今日も、ただただ神が私たちを愛し、私たちをその十字架の血と復活で、罪の赦しを与え、救ってくださった。そのわざと恵みを覚え、心からの喜びと平安で満たされ、賛美しようではありませんか。そして賛美を持って今週もこのところから遣わされ、神を愛し、隣人を愛していきましょう。