2016年5月29日


「神からの賜物である信仰」
ルカによる福音書 17章5〜10節

1.「前回まで」
 イエスが罪人たちを受け入れて食事をしている場面の出来事を見てきています。その中心には、イエスが罪人を裁くためではなく、むしろ探しだし悔い改めさせ罪の赦しと新い歩みを与えるためという目的がありました。周りのユダヤ人たち、いや弟子たちさえも、わからなかったわけですが、そんな彼らにイエスは繰り返し教えるのです。「あなた方をもわたしは愛し、受け入れ、罪を赦し、一緒に食事をしたのだから、あなた方も同じようにしなさい」と。「あなたをも赦したのだから、あなた方も、誰かが悔い改めるなら、赦してやりなさい。それが、1日に七度繰り返されたとしても。」と。

2.「難しさを覚える弟子達」
 しかし「罪を赦す」ということ、あるいは「罪人と呼ばれるような社会から忌み嫌われているような人を赦し、受け入れ、愛する、一緒に食事をする」ということも、決して簡単なことではありません。とても難しいことです。
 それは弟子たちも、そうであったのです。罪人たちがイエスのところにやってきました(15章)。イエスは快くその人たちを受け入れて食事を始めました。しかし周りのユダヤ人たちの冷たい蔑みの目線、そのユダヤ人たちの呟きは弟子たちにも聞こえてきたでしょう。弟子たちはその時どうであったでしょう。彼らもイエスと同じような心であったでしょうか。いや人の目を気にする弟子たちです。彼らも非常に微妙な立場であったでしょう。もちろん弟子たちの中には、かつて同じように罪人と呼ばれていた取税人マタイもいました。しかし世からもてはやされ、約束のメシアとも騒がれる人の弟子ということで、弟子たちの間では特権意識、「特別だ」という意識がすぐにでも芽生えてきていました。そのような時、人というのは昔の自分を忘れたり最初の思いを忘れてしまいやすいものです。
 世にあっては、そのような罪人たちとの食事は蔑まれる行為でした。自分自身も罪人と呼ばれるような行為であったのです。ですから弟子たちのこの食事が始まった時の思いは、察することができるわけです。弟子たちも「イエスはどうしてまた彼らと」と思ったのです。
 だからこそ、イエスは、パリサイ人たちだけでなく、弟子たちにも一度ならず二度も、彼ら小さなものたちを愛するように、小さな存在である彼らに忠実であるように、小さな存在である彼らにつまずきを起こさせなようにと教えていると言えるでしょう。

3.「信仰を増してください」
 しかし私達がそうであるように弟子たちも非常に難しさを覚えたのです。ですから彼らは4節のイエスの教え、「仮にあなたに対して1日に七度罪を犯しても「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら赦してやりなさい」と言われた時に言ったのでした。5節
「使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
 弟子たちは、それができないのは「自分たちの信仰が足りない」からだ、と思ったわけです。「信仰が足りないから難しいと思うのだ。できないのだ」と。それは、私たちもそのように思ったり言ったりすることがあるのではないでしょうか。
 けれどもそれに対してイエスはこう答えるのです。
「しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に「根こそぎ海の中に植われ」といえば、言いつけ通りになるのです。」6節

4.「桑の木に「根こそぎ海の中に植われ」と言えば」
 イエスは一体何を言っているのでしょうか。「桑の木」、これは根が深く強くはる木です。ですから簡単に動かしたり倒れたりはしない様を象徴しているわけですが、それがもし「からし種ほどの信仰」、それは桑の木とは全く正反対です対照的です。ゴマよりも小さな吹けば飛ぶような種です。しかしそれほどの小さな信仰があれば、根が深く大地に根付いている桑の木に「海の中に植わわれ」といえば言いつけ通りになるというのです。
 まず、この陸に植わっている木が、自ら海の中に植るということ、それはありえないことです。まして深く根ざす桑の木ですから、それは「不可能」「絶対常識ではありえないこと」であるということを言っているわけです。しかし、からし種ほどの信仰はそれを為すことができる。イエスは何を言いたいのでしょうか。
 イエスは、不可能なこと、ありえないことを、信仰は為すことができるということによって、あることを弟子たち、そして私たちに示していることがわかるでしょうか。それは「信仰は神のわざである」ということです。「桑の木を動かさせ海に自ら植わるようにさせる。あなたがたにはそれはできない。誰もできない。ありえないこと。しかし、神はそれを為すことができる。神にとっては不可能なことは一つもない。信仰のわざ、それは神がなすわざなんだ。」そのことを伝えているわけです。
 事実、皆さん、このイエスの話は天地創造を思い起こさせます。天地創造は、神の「?よあれ」というその言葉で、空の星も、空気や水、地の植物も、動物も、その言葉の通り動いたわけです。この不可能さの描写は天地創造の神の言葉の描写そのものなのです。それを信仰とつなげている。つまり「その信仰、信仰という、その信仰も、あなたのわざではない。神のわざであるのだ。」ーそのことをイエスは暗に示唆しています。

5.「信仰を「人のわざ」と思う弟子達」
 けれども、弟子たちも、信仰は自分たちの行いやわざ、努力、能力だと思っていました。ですから罪人が一日に七度、悔い改めても赦すようにと言われた時、彼らは難しいと思いました。できないと思いました。そうです彼らの力では決してできないことです。そうでしょう。私たちでもそうでしょう。彼らは、それを自分たちが自分たちの力でなさなければならないこととして理解したからこそ、戸惑い、難しいと思い、そして信仰が弱いからだと思い、「信仰を増してください」と言っているわけです。確かに「『増して』欲しい」とは言っていますが、それは「自分ができるかどうか」に信仰ということを捉えていることでは変わりはないわけです。その自分の信仰を、自分の力を増して欲しいと言っているに過ぎないわけです。
 けれどもそんな弟子たちに不可能なこと、ありえないことを、信仰のわざとすることで、そのような不可能なことをなすことも、信仰も、それは神のわざ、神のなすことであることをイエスは示しているわけです。

6.「信仰は神の賜物」
 事実、聖書は「信仰は、神の賜物である」と言っています。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって作られたものです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」」エペソ2章8?10節
 信仰も救いも神の恵み。人から出たものではなく、神の賜物と言っています。そして、注目したいのは、それは「良い行い」にもきちんと繋がっているということです。良い行いさえも、その信仰の恵みのうちに備えられていると聖書は言っているわけです。
 そのところからも繋がってくるのです。「難しいと思うその「赦すこと」「愛すること」。あなたがたにはできない、それを自分たちの信仰の度量の問題にしても解決しない。あなたがたにはできない。あなたに信仰を与えるのは神だ。その神が信仰を働かせ、よい行いを備えておられるのだ。」パウロは良い行いは、キリストのうちにあることを言っています。
 ゆえに、イエスはまさにこの不可能と思える言葉でそのことを弟子たちに伝えているのです。「それを為すことができるのは、神ご自身であると。そのからし種の信仰であっても、それは神から出る賜物である。それはあなたのわざではない。私があなたがたに与えた賜物である。それを自分の力のわざとするなら、あなたがたには出来ない。そうではない、あなたがたはただ、神にはできる、神にあってはできるわざとして、神に信頼し、神に求めなさい」と。これが聖書のメッセージです。
 みなさんも難しさを感じたことでしょう。「赦す」ということ、難しいことです。「愛する」ということも、「イエスのしたように」ということを貫き通すなら本当に難しいですね。いや私たちには自分たちの力や努力ではできないのです。むしろできるのならイエスの十字架は必要なかったわけです。私たちにはできないからこそ、イエスは私たちの代わりに十字架にかかって死んで、そして甦ったわけです。そうなのです。私たちにとって、イエスがしたように赦すということも愛するということも、それはまさに桑の木に「海に植わわれ」というようなものなのです。しかしそれを神ができる。神が与える信仰において、私たちが祈り求め、神に働いてもらう時、イエスの命が私たちに生き、イエスがみことばにおいて働く時、それはイエスによってすでに備えられているということです。だからこそ、私たちにはできないことを、イエスが私たちにしてくださる。私たちにいるイエスがしてくださるということが、新しく生まれる、救われる、クリスチャンとして生かされるということの素晴らしさであり、大きさなんです。パウロが
「私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって作られたものです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」
 とあった通りなのです。だから「その神に信頼するように、依り頼むように、求めるように」というのが神の私たちへの招きなのです。
 「できない、難しい」、当然です。私たちにとっては。私たちは皆、罪ある人間なのですから。しかし恐れる必要はありません。心配する必要はありません。できないからこそ、難しいからこそ、不可能だからこそ、イエスに信頼しましょう。求めましょう。祈りましょう。そうすれば、イエスが、その桑の木を動かしてくださるのです。

7.「自分たちは当然のことをしただけでのことである」
 そして、7節以下10節までのことも本当の良い行いを伝えてくれています。信仰は神の賜物です。そして信仰は、神の言葉によってこそ忠実に働くものです。私たちが信仰を与えられ、そして、その神の言葉の通りのことに導かれ、やがて「できる」ことでしょう。私たちはキリストの力でその通りに愛すること、赦すことはできるのです。しかしそれは驚くべきことではない。それは当然のことがなされ、自分たちは当然のことをしただけでのことであるとするようにとイエスは言うのです。
 私たちは「出来ない、不可能だから」と、このイエスのように「赦す」「愛する」ということが何か特別なことのように思います。しかし実は、そうではないです。そのように、神を愛し、隣人を愛することは、本来の創造の時のまま、堕落「前」の本来の人間の姿です。むしろそこから堕落し、逸れていき、神を否定し、自分が神のようになり、神の恵みを忘れ、赦せない、愛せないとなっていることの方が、むしろ特別というか、異常なことなのです。神にとってはです。
 ですからイエスは言うのです。「信仰にあって、不可能なことはない。私がしたように愛すること、赦すこと、それは必ずできる。出来るように導かれる。しかし何も特別なことではない。当然すべきこと。そして、そのことが、信仰によって、神によって備えられる良い行いであるなら、神がなすようにする良い行いであるなら尚更のこと、あなたがたはそれを誇る必要はない。むしろこう言いなさい。「私たちは役に立たない僕です。なすべきことをしただけです。」」と。
 このことは信仰の新しい生き方も、良い行いも、それは私たちの何かではないことを示しています。私たちのわざや誇りは何もない。だから自慢する必要も、わざわざ「自分はこれだけした」と示す必要も、嘆いたり不平を言ったり、自分を卑下したり足りないという必要も何もない。すべて神から出るもの。そして当然のこと。本来の人間の姿として、当然のこと。それができたから立派で偉いわけでもない。なすべきことをしたまで。それはどこまでも神にすべてが始まっていることだからなのです。
 神から始まっていない、神の恵みにこそすべてがあるとしないからこそ、自分を誇る思いや、誰かへの責任転嫁は生まれてくるものです。そうではなく「神からすべて来ている」。そこにこそ必ず「私たちは役に立たない僕。なすべきことをしたまで」という謙遜は生まれてくると言えるでしょう。

8.「終わりに」
 ぜひ、私たちは、今日も、恵みとして賜物として、信仰が与えられている事実を感謝しましょう。イエスこそ神、救い主、私はどこまでも罪人、しかし私は全く神の恵みであるイエスの十字架によって私の罪は赦されている、神は私を愛してくださっている、と信じましょう、感謝しましょう。喜びましょう。そうすれば救いの確信と平安が今日も私たちにあります。その確信と安心を与えられましょう。そしてだからこそ、ますます神に信頼し、神に依り頼み、神のみ言葉と聖霊の力をいただいて、神を愛し、隣人を愛していきましょう。隣人を赦し、受け入れていきましょう。