2016年5月22日


「赦しなさい」
ルカによる福音書 17章1〜4節

1.「これまで」
 このところも15章から見てきた場面から続いています。イエスの元に世から罪人と呼ばれ忌み嫌われている人々が集まってきました。イエスはそんな彼らを快く、受け入れて食事をされました。しかしそんなイエスを見て、周りのユダヤ人たちは蔑むのです。「なぜイエスは、あんな罪人たちと食事をするのか」と。それに対してイエスは、三つのたとえ話を話しています。迷子になった羊を探し見つける羊の持ち主の話、大事な銀貨を失くして家中を探し回って見つける女性の話、そして放蕩の限りを尽くした息子が帰ってくるのをいつまでも探して待っているお父さんの話でした。そのたとえ話を通してイエスはご自分が来た目的を伝えていました。イエスは人を裁くために来たのではなく、むしろ罪に苦しむ人々を愛し受け入れ一緒に食事をして、悔い改めさせ平安を得させるためであると。そして言うのです。「一人の人が悔い改めるなら、天の御国では、天使たちの歓喜が沸き起こるのだ」と。そのようにイエスはすべての人に罪の赦しを与え、安心して新しく生かすためにこそ来られた。それが私たちへ表された神の福音であることを見てきたのでした。16章では、そのことをイエスは弟子たちにも教えて言うのです。「ですからあなたがたも同じように愛されて赦されているのだから、その罪の赦しの喜びと安心を伝えなさい。そしてその喜びと安心を持って、あなたがたもわたしがあなたを愛したように隣人を、いや彼らにような罪人達をも愛しなさい。あなたがたも赦された一人一人なのだから。それが世のいかなる富に勝る天の富であるのだ」と。それがイエスのメッセージでした。その同じ場面、同じその罪人たちとの食事の席が続いていきます。今度は再び、弟子たちに話すのです。ですから、この箇所は、よく「つまずきを与えてはいけない」というところだけ律法的に捉えられ易いところではあるのですが、しかしそのような場面、そのような背景、文脈を踏まえて見ていくときに、イエスが何を私たちに伝えているのかが見えてくるのです。

2.「つまずき」1〜2節
「イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは、避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。この小さな者たちの一人に、つまずきを与えるようであったら、そんな者は、石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」  
 イエスは何を言いたいのでしょうか。ただ、つまずきを与えてはいけない、それだけの単純なメッセージなのでしょうか。このイエスの言葉は何か一見、矛盾したことを言っているようにも感じます。まずこう言っています。「つまずきが起こるのは避けられない」と。イエスは、つまずきは人の間では必ず起こることだと言っています。それは不完全で、自分勝手で、罪深い人間にあっては起こることは避けられないとイエスは見ておられるのです。それは確かに弟子同士でもそうであったでしょう。弟子自身が誰かからつまずきを覚えることもあったでしょうし、誰かを知らず知らずつまずかせてしまうことも当然あるわけです。それはクリスチャンであってもクリスチャン同士であってもそうです。イエスはまずその人の間、社会の現実を認めています。つまり人間の性質、弱さ、神の前、人の前での罪深さも、皆、ご存知でいるわけです。それゆえに人間同士ではつまずきは避けられないと、現実を認め伝えているのです。
 しかしここでは「つまずきを起こさせる者は災いだ」と続けています。「起こさせる」ーそれには「わかっていて」という故意としての意味合いが込められていますが、そのあとに、「この小さな者たちの一人に」と具体的に特定してもいます。「この」とも言っているわけですからより具体的です。つまり、その場にいる人ということです。

3.「この小さなものたちに」
 では「この小さな者たちの一人に」とは誰を指しているでしょうか?それはこの場面です。イエスのもとにやってきた罪人と呼ばれ、周りからは忌み嫌われていた一人一人との食事の席です。周りはそれを蔑み批判しました。しかしイエスはその彼らを、失われた一匹の羊として、まさに「小さな」存在を探している思いを語っていました。16章でも弟子たちに、10節の所で「小さなことに忠実であるように」と示す中で、そのような小さな取るに足らない存在こそをイエスが受け入れ愛したように、あなたがたもしなさいという思いが込められていました。そしてこの箇所の直前は、あの裸で全身おできで誰からも愛されることなく死んでいった一人の物乞いラザロが天の御国に迎え入れられたことでした。それは小さな存在であるラザロであり、まさにそれは周りで食事をする罪人を指していました。このように「この小さな者たち」が誰を指しているかわかるのです。その周りで食事をする罪人たちのことです。
 そのような彼らに「つまずきを起こさせる者はわざわいだ」と、「弟子たちに」語り聞かせているのです。弟子たちが、そのような彼らにつまずきを起こさせることが有りうることをイエスは見ているわけですが、一体何を伝えているのでしょうか。
 このあとイエスが、こう続けていることは理解するために大事な点です。
「気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。仮にあなたに対して一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます」と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」3?4節
A, 「戒めなさい」
 イエスは「罪ある人の扱い方」を言っています。もちろん、戒めることも言っています。「戒めること」をしてはダメだとは言っていません。イエスはマタイの福音書でも、誰かが罪を犯したなら密かな奥まったところ、つまり人目のつかない、公ではないところで、戒め諭すことを勧めています。しかしそれは相手が悔い改めて友を得るためとありますように、「言わないといられない」とか「むかつく」とかの、自分の満足のためではなく、本当にその人を愛する想いと動機と、その人の祝福の回復のためにそれをするようにイエスは言っています。それは旧約の時代からも変わることのない、兄弟姉妹の扱い方でもあります。戒めることも、愛がなければただの自己満足ですが、愛をもってするなら大事なことなんです。しかし、この3〜4節は、その戒めに重きをおいてはいません。
B, 「赦しなさい」
 この所でイエスが言っているのは、悔い改めている人を、赦してあげなさいということです。しかも4節は実に意味深いです。「その人が一日に七度罪を犯しても」とあります。イエスは人間の性質をここでもしっかりと見ています。人は本当に弱い存在です。悔い改めても繰り返してしまったりする弱さ、罪深さを持っています。しかもここでは「一日のうちに」とあるのはあまりにも極端です。一日のうちに、舌の根が乾かないうちに繰り返してしまう。そこまでも人の弱さや罪の性質を強調しています。しかしそれでも、悔い改めるなら、赦してあげなさいということをイエスははっきりと教えていることを見ることができます。
 確かに、言うでしょう。一日に二度繰り返したら、その悔い改めは嘘っぽい。自分の子供が、ごめんなさいと言ったその日、数時間後に同じことを繰り返した。親はものすごく怒るでしょう。それが三度目だと、なかなか信じられない。その三度目の「ごめんなさい」は嘘のように思う人もいるかもしれないです。確かに人間同士ではそうです。しかしイエスは、それでも「赦しなさい」なんです。むしろどうでしょう。私たちはその人の「悔い改め」が本当かどうかを探ろうとしてしまいますが、しかしそれが本当か嘘かは、本来は、人は決められないでしょう。それが本当か嘘かは神がご存知のことです。いや、その知っている神であっても、何度繰り返すかもしれない罪人たちを受け入れているということは大事な点であり、神は罪を悔い「ごめんなさい」という言葉と思いを、それが不完全であっても決して蔑ろにはされないし、むしろ赦してくださるお方です。何よりイエスの十字架は、神の前に罪人であることを「知らない」すべての人の罪の赦しを宣言するものではありませんか。神でさえもそうであるのですから、私たちは「悔い改め」の真偽云々はいうことはできないし決められない。神に任せるしかないことです。
 むしろイエスは、はっきりと「赦しなさい」と言っています。一日に七度繰り返してもとありますが、つまり「何度でも」赦してあげなさい。そう弟子たちに言っているのです。このように「罪を「赦す」こと」こそこのイエ様のメッセージの核心部分です。

4.「つまずきを起こさせる」
 それがそのような小さな者たち、罪人たちに弟子たちがどうつまずきを起こさせうるのか。イエスは何を見ているでしょうか。イエスは、16章の初めでも弟子たちに語っていたのは、イエスが弟子たちを受け入れたように、弟子たちもそのような罪人たちを受け入れ愛すること、一緒に食事をするをしなさいということでした。16章9節で「不正の富で友を作りなさい」ともイエスが言っていたように、世が忌み嫌う彼らをも愛し受け入れ一緒に食事をして「友になる」ことこそイエスがたとえ話を通して教えていたことでした。
 このところでも同じです。「罪人であるこの小さな者たちが、悔い改めるなら、受け入れなさい。愛しなさい。赦してあげなさい。」なんです。それはイエスの歩みに一致しています。イエスの向かっているところはどこであったでしょう。それはエルサレム、十字架でした。十字架こそ、イエス様のなすべき目的です。それはまさに、放蕩息子の例えでも見てきたように、罪人に罪の赦しを与え、新しい歩みを与えることです。このようにどこまでもイエスが伝えることは、罪の赦しこそイエスの福音だということなのです。そしてだからこそ、イエスにとっては、弟子たちもその罪の赦しの福音を伝えその福音に生きることこそ真の宣教であり、そのために弟子たちを選び召しているわけです。まさにイエス様の旗印、救いの旗印は、罪の赦しなのです。「神は私たちを赦してくださる。そして新しくしてくださる。」ーこれがイエスの福音です。これが喜びであり平安であり。これこそ信じて受けるだけでいい、神のプレゼントに他なりません。そして、この「罪の赦しの福音」に生きること、そして実際に赦すことこそキリスト者の証であり宣教でもあることをイエスは弟子たち、そして私たちに示しているでしょう。
 けれどもその弟子たちが、周りのユダヤ人たちと同じように、彼らを蔑むなら、受け入れたり一緒に食事をすることを避けるなら、彼らを赦さないなら、彼らは、弟子たちに、つまり私たちの周りの罪に苦しむ人たちも私たちもそうするなら彼らは私たちにも何のキリストの証も見ることができなくなります。罪の赦し以外の、立派なことをいくらどれだけ言うことができ行うことができたとしても、しかし罪を赦すことがないなら、それはキリストの十字架と福音を証していることにはなりえません。それは罪の赦しを求めている、悔い改めている罪人たちに、矛盾を抱かせ、まさにつまずきを起こさせることになるわけです。「福音とは何なのだろう。十字架って何なんなのだろう。悔い改めても受け入れられない。自分たちのような本当の罪人には居場所がない。」ー罪人たちはそう思うことでしょう。

5.「イエスが赦してくださったからこそ」
 だからこそイエスは弟子たちにこのことを教えています。弟子たちも罪深い一人一人です。その弟子たちは何が優れていて立派だったからではない、その罪深いままの弟子たちをイエスはまさに受け入れて呼び、愛しました。罪を赦しました。一緒に食事をしました。罪の赦しの福音と悔い改めの大事さこそ伝えてきました。その通りに、あなたがたもこの人たちにしなさい。蔑むのをやめなさい。周りが蔑んでいるからと、彼らと食事をするのを恥ずかしがったり、躊躇ったり、戸惑ったりするのもやめなさい。彼らの悔い改めが真であろうと偽であろうと、彼らを愛しなさい。受け入れなさい。一緒に食事をしなさい。それがこのイエスの教えにある、弟子たちへのメッセージなのです。
 これは私たちへのメッセージでもあります。私たちも皆神の前に正しい人はいません。皆罪人です。しかしそんな私たちをも神は愛してくださったでしょう。赦してくださったでしょう。何度、同じ罪を繰り返しても、悔い改めを繰り返しても、それでも神は、イエスのゆえに、いつでもみことばと聖餐を与えてくださり、悔い改めて罪の赦しを受けなさいと福音で励ましてくださいます。イエスがみことばと聖餐で、「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と平安のうちに遣わしてくれるでしょう。罪の赦しこそ福音です。罪を赦されていることこそ何にも勝る核心であり喜びの証しです。人ではなく、自分が罪人であると認め、その罪赦されていることこそ、福音は喜びになりいのちになるのではないでしょうか。その自分の罪を知り罪赦されていることを知ることなくして、証しも宣教もありえません。どんなすぐれた行いも虚しいです。いや罪を赦されていることが知らなければ、福音も知らないし、人を真に愛することもできません。大事なことは、罪の赦しです。自分も神の前に罪人であることを認めることです。そして罪の赦しのみ言葉に聞き、その完全な約束をそのまま受け取ることです。「あなたの罪は赦されています」とイエスが言っていることは真実です。その通りに起こっています。その通りに受け入れる時に、安心して行くことができます。そして私たちは、罪赦されていることを知るものだからこそ、イエスが愛してくださったように愛するように、罪を赦すように遣わされているものなのです。そこに証しがあり、宣教があります。自分に罪を犯すものであっても、その罪を赦し愛していくときにこそ私たちが躓きを起こさせることや躓きから自由なのです。それがイエスの勧めなのです。

6.「主の助けによって」
 もちろん、これは私たち自身では難しいことでもあります。ですから、次回のところですが、弟子たちも「信仰を増して下さい」と言っています。戸惑ったことでしょう。しかし、その通り、私たち自身の力ではできないことです。だからこそ祈るように、求めるようにイエスは勧めています。その通りにイエスにより頼む時、聖霊が助けて下さり、ことを行わせてくださるのです。私たちはこの罪の赦しということこそ、私たちの福音なのですから、ぜひ人を赦すことが何より大事なことと受け止め、祈り求めて行こうではありませんか。