2016年5月15日


「助けが必要な私たちのために」ペンテコステ
ヨハネによる福音書 15章26節


1.「はじめに」
  イエスは繰り返し、イエスを救い主と信じるすべての人に「聖霊」を与えると約束されました。聖霊というのは、キリストご自身の霊です。このみことばはイエスの十字架の前の最後の晩餐の席での約束の言葉ですが、これも聖霊の約束です。ここには聖霊というのはどのような存在であるのか、そして私たちにとってどれほど大事な素晴らしい約束であるのかを教えています。イエスは最後の晩餐の席でその約束を繰り返しています。

2.「「聖霊を与える」と繰り返すイエス〜最後の晩餐の席」
ヨハネ14〜16章
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられます。その方は真理の御霊です。」14章16〜17節冒頭
「しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安をあたえます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」14章26〜27節
 イエスの「聖霊を与える」という約束です。「イエスが与える特別な平安」という約束があるように、本当の「平安」も、みことばと聖霊とに関係していて、みことばと聖霊によってこそ、イエスが与える特別な平安があることも見ることができます。この16章でもイエスは聖霊の幸いを、弟子たちに繰り返し約束するのです。
 このようにイエスが繰り返すのは、この聖霊こそ、イエスがこれからかかろうとしている十字架によって、イエスが与えようとする「救いの賜物」だからなのです。イエスがこの十字架という苦しみを前にしてでも、これほどまでに喜びと希望に満ちた約束をもって「与える」という、その「聖霊」であり「約束」なのです。

3.「「聖霊が与えられる」ということ」
 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」15章26節
A,「助け主?助けが必要だからこそ」
 第一にイエスはいいます。聖霊は父なる神からの「助け主」であると。私達の主であり神であるイエスは、私達に「助け」が必要ないなどとは言いません。むしろその逆です。弟子たち、そして私達に「助け」が必要である。イエスはそのことを良く知っています。私達には神の「助け」が必要なのです。弟子たちはそうでした。彼らはこの最後の晩餐の席でも口でいくらでも強がることができました。マルコの福音書14章を見てみますと、イエスがご自分がやがて逮捕されるそのとき「弟子たちは散り散りになって逃げる」と告げたとき、ペテロは「たとえ全部のものが躓いても私は躓かない」「たとい一緒に死ななければならないとしても、自分は決して知らない等とはいわない」といい、他の皆もそう言ったと書かれてあります。けれども実際はイエスの言った通りになり、彼らのその弱さ、不完全さ、罪深さが、イエスの十字架の時に明らかにされました。彼らはイエスが預言した通りに、みな散り散りに逃げて、ペテロは三度知らないと否定したのでした。そのように弟子たちは皆、主イエスがなさること、あるいは神のみこころのため、つまり、神の救い、神の御国のためにも、彼らは一切何もできませんでした。それどころかどこまでも無知で無力でした。しかしイエスはこの最後の晩餐の席で、そのことこそを知っていたことをまず示しています。そしてそんな彼らに「何を与える」とイエスは弟子たちに言っているでしょう?「助け主」とあるではありませんか?そうなのです。弟子たちが救いや神の国、神の計画のまえに、どこまでも不完全で罪深く、何もできないことを知っているからこそ、イエスは彼らに「助け主」を与えるといっているでしょう。「助け」が彼らには必要だからこそ「助け主」を約束しているではありませんか。
 この約束こそ今日の私達に対してもまったく同じように与えられているということなのです。イエスが、イエスをキリストと信じて洗礼を受けた(あるいは、これから受ける)私達に与えてくださった(あるいは、くださる)聖霊も「助け主」なのです。私達も神の御心、神の計画、神の使命、神の国のためには、まったく無力です。私自身がそのようなものだと気付かされます。いや気付くのにさえ遅い私自身です。私自身が弟子たちと同じように「たとえ全部のものが躓いても私は躓かない」「たとい一緒に死ななければならないとしても、自分は決して知らない等とはいわない」と神の前に高ぶってしまうものなのです。
 しかし聖書ははっきりと伝えています。神の国は、弟子たちでも私達でもない、イエスが成し遂げられたと。弟子達も私達も神の国のまえにどこまでも罪深いものです。しかしイエスこそがこの十字架の前でさえも、全てを知っていた。そしてそれでもその罪深い者に神の国を与らせようとされている。それはまったくの恵みとして、そして、ご自身の与える「助け」によってです。つまり、この「助け主」に他なりません。
  ここにクリスチャンの歩み、聖化がどのようなものか現れています。「クリスチャンになる」あるいは「クリスチャンとして生きる」ということは、「自ら」完成された立派なものを達成するということでは決してありません。そうではなく私達のために十字架の上で全てを達成してくださった方、イエスの義といのちをただ受けることです。聖霊というのは、そのイエスの霊です。イエスはその霊を「助け主」として与えるといっています。それはイエスがこの「助け主」によって、神の国のためになすべきことのすべてを「助け」、すべて成し遂げてくださるということなのです。ですからこの助け主がないなら、私達は何も主のために、神の国のために、教会のためにできません。それは弟子たちが自分たちの思いに任せて散り散りになった、その結末に結局はなっていくでしょう。助け主がいないのですから。そうではない。イエスは信じ洗礼を受けるものに「助け主」を与えてくださいました。それは私達が主の助けによって歩んでいくためなのです。そのように聖霊は、イエスによって全く新しい生き方を与えれた、その証しなのです。
B, 「真理の霊」
  第二の「聖霊の恵み」は何でしょう。イエスはいいます。その助け主は「真理の御霊」であると。この聖霊には真理があるのです。
 もちろん聖書以外にも、その場、その状況、その分野等々の、個々の「真理」は見られます。科学的に証明された物事の中、自然の中、哲学の中に。しかしすべての存在の始めと終わり、人である私たちも、どこから来てどこへ行くか、そしてなにより人の罪について救いについて、そして天国や神の国、神や神の愛についての真理は、聖書以外にはないと私達は信じ、そのことこそを私達は聖書に聞き宣教しています。しかしその聖書が伝える神の真理、救いの真理は、聖霊によってこそ明らかにされるものだとイエスは伝えているのです。つまり聖書にある、人の罪と救い、神の国、神の愛について、それらは私達が自分の力では理解することができない言葉です。しかし「真理の御霊」とある聖霊が私達に教えるとイエスは言っています。聖霊が真理を教え、真理に導く。聖霊がそのように導いてくださるからこそ、聖書が伝えるイエス・キリストの救いの真理が私達にあり、わかるようにしてくださることを伝えてくれています。14章でもこうあった通りです。
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられます。その方は真理の御霊です。(ヨハネ14:16〜17)しかし、助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(26)」
 真理の御霊が私達にすることです。イエスが言ったこと、話したこと、神の国の真理、救いの真理を教えてくれるのです。
C, 「聖霊が証する」
 そして教えるだけでなく、さらに私達に力を与えてことを行わせ歩みを導いてくださるとも聖書は約束してもいます。聖書には「キリストの御跡を踏んで」「キリストに似たものに」「イエスのように」という言葉があります。しかしそれはいわゆる「イエスがしたことを、今度は、私達が「自分たちの力や努力で」、そのように「ならなければいけない」。それがなすべき目標であり、義務なんだ」ということとは違います。「キリストの御跡を行く」ということは、まさに聖霊あってこその指針です。聖霊が絶えずみことばをもって導き、キリストから離さず、キリストへの信仰を強め、キリストの御跡を歩ませるのです。信仰による真の良い業を行わせるのです。そのように真理の御霊、助け主なる聖霊のゆえであり、それなくしてはありえないことなのです。私達の肉や思いの努力でキリストの御跡を踏むこと等決してできません。いくらがんばっても自分の力ではキリストに似た者にはなれません。弟子たちが散り散り逃げて三度否定した結末になるだけです。そうではない。神の国も、信仰の歩みも、宣教も、奉仕も、たとえ地上にあっていかなる苦しみにあっても、しかしイエスが与えると言われた平安があって、それらは決して重荷とならない、その答えの鍵は何であるでしょう。それは助け主であり真理の御霊である聖霊こそが鍵なのです。私達はその聖霊から助けを受けて歩むもの、主に真理へと導かれる恵みの道へと与った。その聖霊に信頼し、依り頼むことにこそ、まさに特別で、イエスしか与えることができない平安があるのです。聖霊は私達の救い、新しい道を生き生きとするためになくてはならないいのちの証し、キリストが私たちに生きている証しに他ならないのです。ですからこうあるでしょう。
「〜その御霊がわたしについてあかしします。」
 聖霊がイエスについて証しをしてくださる。ですから私達が聖霊を与えられているということは、私達にある聖霊のゆえに、私達自身、存在が、キリストの証しであるということです。
 皆さん、何か劇的なことや眼に見える繁栄や成功がなくても、普通の日常であっても、あるいは試練の日々であったとしても、日々の信仰生活そのものが常に聖霊の証なのです。そして何より、私達が日々、そして今この時も、クリスチャンとして存在し喜びをもって礼拝している事実。それは何より「キリストが働いていることの証し」として私たちが存在している、まさに恵みの出来事に他なりません。それは派手ででも華やかでもありません。しかし、世の未信者たちから見ても、律法的に義務的に駆り立てられ、誰かや自分を責めて生きることよりも、むしろいつもこのイエスの約束と恵みを私たちが信じて救われていることを確信すること、それゆえに喜びと安心を持って生きることが、何よりの世の光、地の塩となるでしょう。そうではないでしょうか。義務として愛したり生きる姿よりも、喜んで愛する姿に光があるでしょう。ではどこにその確信があるでしょうか。それは立派なクリスチャンのようでなければならない、何か他に立派な行いができなければいけない、等等によって得られるのではありません。ただイエス様によって救われたというその恵みのみではありませんか。約束に、洗礼に、聖餐にこそあるでしょう。クリスチャンというのは皆、イエスの恵みを喜び安心するイエスの証人です。聖霊はまさにそのイエスを教え信じさせ、イエスによる喜びと平安を与えてくれることによって、私たちを生けるキリストの証人とするのです。それが御霊がキリストを証し私たちを通して証するということです。パウロは「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません」と言っている通りです。私達がキリストを信じ、喜びと感謝を持ってキリストにあって礼拝し賛美している事実は素晴らしい御霊の証なのです。

4.「最後まで安心して」
 そして聖霊の究極の恵み、それは終わりのときにいたるまでの100パーセントの保証でもあります。みことばと聖霊は、私達を終わりまで責任をもって導いてくださいます。「私達はキリストを信じる信仰と聖霊を与えられた」、そのことは、私達が確実に神の国にあずかり、神の栄光へと導かれているという未来への希望と確信を知ることができるのです。ヨハネ16章13節からこうあります。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊が自分から語るのではなく、聞くままを話し、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光をあらわします。」
 「真理に導き入れる。やがて起ころうとしていることを示す。御霊は栄光を現す。」ー聖霊を通して、私達が導かれるゴールまでも約束されているのです。私達もいずれ死を迎え、天に召されます。しかし私達にとっては、それは悲しみや絶望を遥かに越えた希望が約束されている出来事です。それはこのイエス・キリストと聖霊のゆえにです。聖霊を与えれている幸い。私達の歩みはこの聖霊によって全く新しい。私達はぜひ信仰の与えられていること、聖霊を与えられていること、そしていつでもどんな時でもみことばをもって聖霊は助け、真理を教え、そして栄光へと導かれている。その素晴らしさを今一度確信して、主とともに歩み続けていきましょう。