2016年5月8日


「お金持ちとラザロ」
ルカによる福音書 16章14〜31節

1.「はじめに」
 罪人と呼ばれる人々を受け入れ一緒に食事をしているイエスに対し周りから起った蔑みや中傷、それに対してイエスは三つの例え話をしました。それは神であるイエスは、失われた人、罪人を探して悔い改めさせ、罪の赦しと平安を与えるためにこそ着たのだということを伝えるメッセージでした。さらに弟子たちにも向けてイエスは言いました。世にあっては、罪人を受け入れることや罪の赦しなどは、「小さなこと」、いや「不正」とまで見られ批判や蔑みの対象となる。けれどもイエスは伝えます「わたしがあなたがたを赦し、受け入れ、愛したように、あなたがたもそのような小さな人々を受け入れ、赦し、愛しなさい、そのように罪の赦しこそを忠実に伝え、行いなさい、そのように、世や富を主人とするのではなく、わたしこそを主人として、主人であるわたしがあなたがたにしたように隣人を愛しさない。」と。それがなくした羊やコイン、そして、放蕩息子の例えのさらなる意味であると。
 けれども場面はまだその罪人との食事の席です。そこでその三つのたとえ話、そして弟子たちへの話も、周りのパリサイ人のたちはじっと聞いていたのです。しかしそのことを理解した人々はどれほどいたのでしょうか。むしろそれをあざ笑う人たちがいたのでした。

2.「金の好きなパリサイ人たちの嘲笑」
「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスを嘲笑っていた。」14節
 「金の好きな」という言葉がありますように、彼らの拠り所や判断の基準、そしてイエスが話した「富」ということも、彼らにとっては「お金」でした。彼らは、イエスが罪人たちと食事をすること、そしてその罪人達が自らの罪と人生を悔いてやってきていることも、彼らにとって正に小っぽけなことにしか見えないのです。嘲笑うのです。イエスは「富」という言葉を用いて、イエスが「赦すこと」「赦されること」に天からの真の富があることを伝えました。しかし彼らには響きません。嘲笑うのです。イエスはそんな彼らに言うのです。
「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたの心をご存知です。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、嫌われます。」15節
 この箇所、そしてこの前の前回のところもそうでしたし、この後のラザロの話につながっていくわけですが、大事なキーワードは「人の前」と「神の前」です。これは聖書を理解するうえではもちろん、信仰やクリスチャン生活においても絶えず問われている、とても重要な言葉です。前回のところでも、罪人を受け入れることや罪の赦しは、神の前にあっては正に天の贈り物であり宝であるけれども、地上にあって、つまり人の前にあっては「不正の富」だとその逆説を見てきました。神の前と人の前の視点が違うだけで、同じことであっても、捉え方が全く逆転する。それが福音や神の国の奥義であることを触れましたが、そのことがこの場面では具体的に起こっています。
 パリサイ人たちは「自分たちは正しい」とするものでした。しかしその自覚する正しさは「人の前」の正しさでした。イエスが言っているように、人にどう見られるか、どのようにあがめられるのかにありました。ですから彼らにとっては「見た目」はとても重要でした。正にイエスが話すラザロと金持ちの話で、19節の金持ちの服装はそのことを示しています。紫の衣や細布は、裕福さと家柄の良さ、社会的な地位の高さを意味しています。彼らは行いも立派でした。山上の説教では彼らの人となりをイエス様は言っていますが、人前で大声で祈ったり、人に見えるように施しをしたり、などなど彼らの特徴であったのです。それらは人から見るなら立派です。そしてそのような彼らの姿は、社会、「人の前」にあって見るなら正に成功者であり祝福であったわけです。そのように、祝福されているか否かの尺度、秤は、「その人がどれだけのものを持っているか」にあったわけです。
 さらにイエスはこの直前に、天からまことの富は、世の富とは異なることを示しているわけですが、それをあざ笑うパリサイ人です。彼らは「金が好きな」とある通りに、彼らのあざ笑う根拠、つまり彼らがそれでも自分たちは「正しい」とする根拠、自信はその持っているお金にあったことも示唆しています。彼らにとってお金は、成功と祝福の証であり根拠であったのです。持っているものは成功者、勝ち組、今でも世の人は考えます。いっぱい持っているから祝福されている、そうでないから祝福されていない、それは現代の教会やクリスチャンでも陥りやすい考えではりますが、その考え方は古代から変わることはありません。それが正に彼らから見て、敗北者、祝福されないもの、それだけでない、そのものに与えようとしているイエスと、そのイエスの言うまことの富をも、彼らはあざ笑うのです。その自信は、彼らの信じる正しさとその根拠でした。しかしそれは「人の前」での正しさ、「どれだけ持っているか」なのです。

3.「ラザロが示すこと」
 このラザロは、正にともに食事をする罪人達を示しています。この話は「ハデス」という言葉がありますから、たとえ話として言われることがありますが、イエスは実名を用いていることから本当にあった出来事を伝えている話です。イエスだからこそ彼らの死後の天とハデスの出来事を知って話すことができるのです。このラザロは犬に出来物を舐められるほどですから、彼は裸であることがわかります。しかもそのような病気は罪のせいだとも言われる時代でもありますし、事実、罪人でもあったのでしょう。誰も、家族でさえも彼を助けない、正に世に見捨てられた状態を示しています。金持ちの門前に寝ていたのですが、「食卓から落ちる物で腹を満たしたい」とあるように、金持ちはラザロに何もしなかったのでしょう。まさに、世にあって「正しい」ものと「正しく」ないもの、実に対照的な姿があります。しかし、ラザロは死んで天に迎え入れられました。それはまさにこの15章から続く場面、イエスを求めてきて周りで食事をする罪人たちと重なるわけですから、ラザロはその悲惨な状況にあって、罪を悔いて天の神にすがって死んでいったことを意味しています。ラザロのその願いを、地上の誰も目をとめななかったその願いを天は受け入れ、彼は罪を赦され、天に迎え入れられたわけです。ここで「アブラハム」とあるのは、アブラハムは律法以前の人であり、何よりそれは神の一方的な約束と恵み、そして信仰による義を意味していて、信仰者こそ天の神のもとに迎え入れられることを示しています。その同じ場にラザロが連れてこられたことからも、彼が悔い改めて神に求める信仰の最後であったことを示唆しているのです。

4.「金持ちの死後」
 しかし金持ちは、ハデスへと落ちたのです。誤解してはいけませんが、これは金持ちは天国へ行けないということではないわけです。そうではなくイエスのメッセージは、神を主人とするか、富を主人とするか、そして神の前で正しいか、人の前で正しいかの話なのです。金持ちも、神の前の正しさに生きるなら、信仰の素晴らしさに生きたことでしょう。その信仰ゆえにラザロに施しもしたことでしょう。しかし彼はどこまでも人の前での正しさだけで満足していた。富が主人であったのです。つまり自分がどれだけ持っているか、どれだけできるか、してきたのか、その「自分自身」に正しさの拠り所がありました。それはどこまでも「人の前」でのことでした。しかしイエスは言っています。
「しかし神は、あなたの心をご存知です。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、嫌われます。」15節
 神は心を見られる。心を存知であると。そして神の前に正しくなければ、神に憎まれ、嫌われる。そしてどんなに地上で正しくても、立派でも、豊かで富や地位や名声を持っていたとしても、神の前に正しいと認められなければ、待っているのはハデスであると。

5.「神の前の正しさ」
 では核心部分です。その「神の前の正しさ」とは一体何でしょうか?周りで食事をする人々は罪人でした。罪を犯したから罪人でした。そしてラザロも罪人でした。しかし彼らはなぜ神に受け入れらたのでしょう。なぜ彼らをイエスはここで、天に迎え入れられるものとして表しているのでしょう。行いはどこまでも罪深かったです。それゆえ、人の前では失敗者、迷惑者、価値のない者です。ラザロのように世に捨てられて当然の彼らでした。しかしなぜ、彼らが神の前で正しいとされたのでしょう。それは「行い」ではありえないわけです。神の前にあってどれだけ行っても、神の前にあっては正しい人はいないと聖書は伝えています。どれだけ持っていたとしても同じです。大金を払っても天国を買い取ることはできないし、財産を持っていくこともできません。私たちが持てるもので神の前に自ら正しいとして立てる人は誰もいません。
 ではイエスは、何を伝えていますか。「悔い改め」そして「信仰」ではありませんか。15章の三つの例え、イエスは「一人の人の悔い改め」を語っていたでしょう。そしてこのラザロと金持ちの話でも、金持ちはハデスで後悔して、そこで生きているうちに一番大事なものは何であったのかを気づいて言っています。30節で家族が「悔い改めるに違いない」と。それが生きている間に必要なことだったと彼の言葉自体が示しているでしょう。そのように悔い改めて神に求めること、信じること、それこそ神は求めておられます。神は待っていた。神は探しておられた。だからイエスは彼らと食事をされた。そしてまさにその悔い改めに、神が罪を赦してくださることこそ、世にあっては小さなことであっても、天にあっては大きなことであったではありませんか。天上で天使たちの喜びが湧き上がるとありました。まさにイエスの宣教の招きの第一声も「神の国が近づいた。悔い改めて神を信じなさい」でした。
 そして、今日のところでも、神の前に正しいとされたものがいるところに、アブラハムがいましたね。アブラハムは、律法の行いによってではなく、約束を信じる信仰によって義しいと認められた、信仰者の父であり神の恵みの証です。このことからわかるのです。
 神の前に正しいと認められるために、つまり救いのために大事なこと。それは私たちの行いではない。私たちが何を持っているかでもない。大事ことは、神の前に自分は本当に罪深いと罪を悔い改めること、そして神がイエスを通して与えてくださる一方的な恵みである罪の赦しを、それこそ救いとして、いのちとして与えるために遣わしてくださったイエスとその十字架の罪の赦しを信じること、そのまま受け取ることこそを、神が正しいと認めてくださり、天に受け入れられる道なのです。

6.「みことばにより」
 では、どのようにそれは示され与えられるのか、イエスは言います。
「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、誰も彼も、無理にでも、これに入ろうとしています。しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうが優しいのです。」16?17節
 何を言いたいのでしょう。神の国の福音は誰によって伝えられたでしょう。イエスによって伝えられました。しかし福音を正しく理解する人はいません。多くの人が自分の業や行いで無理にでも入ろうとするかのように理解するのです。正にそれは周りのユダヤ人たちですが、しかしそれは行いで義を立てようとするすべての人の性質です。しかし神の国は人のわざで無理には入れいないわけです。なぜなら福音は、与えられる恵みであり、受け取るものだからです。それが理解できなければ、福音はわからないしどこまでも重荷と感じるでしょう。福音と思っているものが実は律法となってしまっているのです。ではどのようにして福音はわかるのでしょう。まずここで「律法の一画も落ちない」とあります。これと重なる31節でこうあります。
「アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たとい誰かが死者の中から生き返っても、彼らを聞き入れはしない。」31節
 モーセと預言者、正に律法と預言者です。そのモーセも預言者たちも、バプテスマのヨハネも何を語っていたでしょう。それは、約束とイエスを指し示していたでしょう。そうなのです。神は遥か昔から聖書を通してこのイエスこそを約束していたのです。そのように律法と預言のみことばに、神の愛のメッセージである救いの恵みと神の約束を聞いていたなら、彼らはイエスをわかったのです。しかしみことばに聞いていないからこそ、正に、人の前の正しさ、地上の持てる豊かさや行いによって無理に神の国に入ろうとする。そして神の国の福音はわからないのです。ここで「誰かが死者の中から生き返っても」という言葉、それは正にイエスご自身を示していますが、イエスが言う通りに、神の言葉に聞かずに、そこに恵みを見ず、無理に自分の行いで神の国に入ろうとする人は、律法と預言にも聞いていないのですから、そのイエスを聞き入れることさえもできない、イエスは的確に示唆しています。
 人が神の前に義と認めれ、神の国に入るために、大事なこと、それは無理に人の行いで努力し行うことでは決してない。そうではなくモーセと預言者たちが示し、イエスが成就し宣べ伝える福音に聞くことです。そしてみことばを通して与えられる福音をいつでも受け、福音に生き、生かされることです。それをみことばはいつでも私たちに伝えているのです。み言葉は私たちに、「神はこのひとり子であるイエスを世に遣わし、このイエスの死と復活によって、神の前にどこまでも罪深い私たちの罪を赦してくださった。罪人たちが赦され食事に招かれたように、ラザロが赦され、アブラハムのいるところに上げられたように、私たちも一方的に恵みのゆえに神の前に罪赦されたからこそ、神の前に正しいものとされる。それだけでない、神は日々新しい命に生かしてくださる。」ーそのように私たちに素晴らしい約束とその成就を語り、招いています。その福音の約束の語りかけに聞くからこそ、神への信頼が増し加わり、私たちは安心できるし希望は絶えないのです。ぜひ今日も、み言葉によって罪を悔い改めつつ、そのように語りかけるイエスの十字架と復活の福音、罪の赦しと新しい命の福音こそを信じて、それこそ生きる拠り所として、ここから遣わされていきましょう。そして、平安と喜びのうちに、神を愛し、隣人を愛していきましょう。